終話 人間の境界
余談を、少しばかり。
リンゴは無事だった。後遺症も残らないらしい。一ヶ月もすれば、普通の生活を送れるようになるという。ただ、前向きになっていた彼女が再び人間を嫌いにならないか、と俺は恐れていた。
全然、杞憂だったけれど。
彼女はベッドで起き上がれるようになると、早速、勉強を再開していた。既に、九九に取り掛かっている。
「詩姉を追い抜く日も近いな」
「……う、うん」
詩姉が笑えないくらいには、その未来は現実味を帯びていた。
そんなリンゴを信用していない訳ではないのだけれど、それでも心配に思うのは、俺が弱いからだろうか。思わず訊いてしまった。
「お前さん、無理してないか?」
手を休めて、リンゴが小首を傾げた。
「むり?」
「……いや。辛くないのかなって」
「うん。だいじょうぶ」
そう言って彼女は、再び計算問題に取り掛かる。
「はっぱろくじゅうし、な」
「……あ、まちがえた」
うーん。
子供の成長は早いと言うけれど。
俺の方が取り残されそうだ。
それから、リンゴには戸籍も交付される事になった。
これで、情報本部も、医療系コングロマリットも、うかつにリンゴに手を出すことはできない。戸籍を持つ彼女を消せば、必ず足が付く。青色地区が遺伝子の採掘場で有る事は、世間に知られてはならないのだ。
戸籍交付の際に、リンゴは苗字を選ぶことになった。
俺達は孤児だから苗字なんて無いけど、無いと社会生活を送る上で不便だ。だから、適当に付ける。
かつて、新・夢の島のゴミ山で、仲間たちと一緒に流星群を見た。その夜だけは、足元のゴミ溜を見ないで済んだ。そんな思い出を忘れない為に、俺達は「星川」を名乗っていた。
「お前さんも「星川」にするか?」
リンゴは首を振った。人名事典から適当に選ぶらしい。
「私、妹が欲しかったんだよね。可愛い妹。不愛想な弟じゃなくて。リンゴ、星川にすれば良かったのに」
詩は唇を尖らせながら言った。
「みょう字は、してもらうから」
「してもらうって?」
詩が訊いた。すると、リンゴは詩にだけ聞こえるように耳打ちした。すると詩は、俺の爪先から頭まで、値踏みするように眺めた。
「うーん。あんまりおすすめはしないけど?」
「へいき」
「……まあ、リンゴが、そう言うなら」
「何の話だよ?」
「別に、何でもないよ」
詩はそう言いって首を傾げる。
「おすすめしないけどなあ……」
俺達の事も少し。
俺はここ最近、寝覚めが悪くて困っていた。
今日も、耳に息を吹きかけられて目を覚ました。
「あーちゃん。おはよう」
ベッドの脇に、春譜が居た。エプロンまでしてる。
「朝ごはん出来てますよ。あ、今の、新婚さんみたいですか?」
「脳みそ死んでんのか?」
「酷い!」
ここの所、毎朝この調子なのだ。嫌な気分になる。
「……あれ、お前さん、メガネなんてしてたか?」
春譜は今日に限って、赤い縁の眼鏡を掛けていた。
「ボク、元々、コンタクトだったんですよ」
「ふーん。それが、どうして?」
「普通のコンタクトは使う気になれなくて。元々、点眼式のを使ってましたから」
「招鳥の?」
「そうです」
点眼式のコンタクトレンズは、目薬のように液体を眼に垂らすと、それが膜になって視力を補助してくれる。
「点眼式は、裸眼と変わらないですからね。あれの使い心地を知ってしまうと、固体を目に入れる普通のコンタクトレンズなんて、とても、とても」
点眼式のコンタクトは開発されたばかりだ。まだ、市場には出回ってない。
そして、招鳥をほとんど勘当された彼には、そのコンタクトを手に入れる術は無かった。
この前の騒動は、流石に目立ち過ぎた。春譜は、その責任を一身に背負わされた形だ。要するに、トカゲの尻尾切りだ。
自衛隊まで除隊され、行く当ての無くなった春譜を、事務所に招いたのは詩だ。
俺も、反対はしなかったけれど。
ただ、相変わらず、事務所は閑古鳥が鳴いていた。それにも関わらず、うちの所長は新人を雇ってしまった。経営はどうなるのか。気分が重い。
「似合います?」
春譜は見せつけるように、中指で眼鏡のフレームをくいっと動かす。
「うるせえよ」
そう言えば、一人、天に召された奴がいた。
YONEGAMI GⅢこと、俺と同い年の電動スクーターだ。
いい加減、寿命だったらしい。しかし、数年で乗り換えられる昨今、相当な長寿だったと思う。彼の冥福を祈る。
新しい相棒は、新・夢の島で拾って来て、少しばかり修理をした。なかなかスリムなボディだが、エンジンが搭載されていなかった。自転車とも言う。
「詩姉。遅刻すんぞ!」
「待って待って!」
制服のリボンを結びながら、詩姉が荷台に飛び乗る。
「出発進行!」
ピシッ、と前を指さす。
「へいへい……」
いってらっしゃーい、と春譜がベランダから手を振っていた。荷台に横向きに座った詩が、手を振り返す。
俺は立ちながらペダルを踏む。
その度、自転車は軋んだ。
漕いでも、漕いでも、速度が出ない。
「あー、キツい」
「がんばれ、エンジン君!」
詩がそんな冗談を飛ばす。
笑えない。
結局、エンジンと、こうして自転車を漕ぐ俺の、境界はどこに在るのか。
そもそも、在るのか。
「ほら。燃料注入」
その時、詩が後ろから手を回し、水筒の氷を俺の口に放り込んだ。一瞬、彼女の指が、俺の唇に触れた。ドキリとして、既に速い心臓がさらに速く脈打つ。
「……まあ、境界なんて、無くてもね」
「何か言った?」
「別に」
俺は背中に詩の存在を感じながら、ただ、自転車を漕ぐ。
その時、横断歩道を潜り抜けた。
ここから先は東京市街だ。
視線を上げれば、見下ろす白亜の塔と目が合う。
その背後、突き抜けるように青い夏の空が広がっていた。
群青の街の律術士 夕野草路 @you_know_souzi
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