第31話 36°Cの熱

 目を開けているのに、何も見えない。

 

 ただ、白い。

 

 奇妙な浮遊感を感じていた。

 

 ここは天国だろうか。

 

 真っ白な視界に、段々と色が戻ってくる。

 

 最初に見えたのは、青。

 

 やや遅れて、それが夏空の青であることに気が付く。

 

 眼下に広がる、青色地区のビル群。

 

 俺達は生きていた。


「……どうして?」


 愕然と、春譜が呟くの聞こえた。


「……空気レンズだ。……拡散型のな」


 春譜の造り出した空気レンズは、凸型。


 つまり、光を集中させるレンズだ。


 だから俺は、俺達と春譜の間に、凹型の空気レンズを造った。光を拡散させるレンズだ。冷静に考えてみれば、光線を無理に受け止める必要は無い。拡散させてしまえば、ただの光だ。


「……そんな。この土壇場で?」

「不思議と集中できたよ」


 多分、詩が居てくれたから。

 

 死を前にしても、最後まで、生きる事を諦めないで済んだ。

 

 俺は一歩づつ、覚束ない足取りで、春譜に歩み寄る。


 彼も、万象律を使いすぎたのか、立っているだけで精一杯らしい。


 その腹に、拳をめり込ませる。


 春譜の身体がくの字に曲がる。


 彼が地面に膝を着いた。彼の頬にナイフの刃を付ける。


「兵隊を退け」


 耳元で言った。


「…………分かりました」


 撤退だ、と春譜は無線に向かって呻くように言った。


「証! リンゴが!」


 詩が叫ぶ。


 駆け寄る。


 リンゴは目を閉じたまま、微動だにしない。


 肌は透けるように白かった。


 その小さな身体に触れる。


 冷たい。


 まるで、コンクリートのように。


 だけど、


「生きてる」


 身体は冷え切っていた。


 しかし、脈が有る。


 彼女の心臓は、まだ、微かに脈を打っている。


「詩姉……。俺は、もう。万象律、使いすぎた……」

「分かった! 任せて!」


 リンゴを抱えると、詩は走り出した。

 

 その背中を春譜の視線が追う。

 

 しかし、彼もそれ以上は、何もできなかった。


 俺は地面に座り込む。


 もう、立っていられなかった。


 右胸ポケットから止血剤を引っ張り出す。面倒なので、袋の中身をありったけ、傷口にぶちまけると、そのままコンクリートに倒れ込んだ。大の字に手足を放り出し、ただ、青い空を見上げる。


 はあ。


 大きく息を吐いた。


 生温いコンクリートが、血を流して冷えた身体に心地良い。


「春譜」


 彼も同じく、コンクリートに仰向けに寝転がっていた。


「……何です?」

「お前の言った通りだ」

「何が?」

「俺達は似ている」

「今更、何を」

「俺も、お前と同じだ。……お前さんは、生命を現象だと言った。……俺も、それを否定する言葉を、知らない」


 人間とは、遺伝子に刻まれた通りに、発生し、成長し、そして死んでいく機構に過ぎないのかもしれない。


 遺伝子を成すのは、炭素、窒素、水素、リン、酸素。それこそ、鉛筆を造り上げる元素と変わらない。


 その事は既に証明されたいた。


 人間は、自らの手で人体を造り出すことすらできた。


 メガネが壊れれば、メガネ屋に行って新しいメガネを作る。


 同じように、心臓が悪くなれば、病院に行って新しい心臓を造る。


 俺達はどこまでも物だ。


 だから、春譜は〈進化する人類〉計画なんてものに、人間の意味を託そうとしたのだ。


 人間は、何か素晴らしい存在に進化する、その途中だったのだと。


「俺も、〈進化する人類〉計画は面白いと思ったよ」

「だったら何故?」


 それは、ほんの僅かな違いに過ぎないのだろう。


 俺の隣には詩が居た。


 詩が俺の手を引いてくれた。


 きっと、それだけの違いだと思う。


 顔を横に向ければ、春譜がいた。


 彼の隣には、誰か居たのだろうか。


 いや。


 居なかったんだと思う。


 松島のような人間は、幾らか居たのだろう。


 だけど、彼と一緒に泣いて、笑ってくれる人間は、きっと居なかった。だから春譜は、俺なんかを〈進化する人類〉計画に誘ったのかもしれない。似た者同士の俺を。


 手を伸ばした。


 詩が、俺の手を引いてくれたように。


 俺も、彼の左手に触れる。


「……春譜。……三十六度の熱に、……繫いだ手の温かさに、アデノシン三リンATPの分解……以上の何かが在ると、……そう思えないのなら、人生は空し過ぎる」


 たとえ、その化学反応が、試験管の中で再現できたとしても。


 そして、この身体の何処にも、人間を人間たらしめる何かが、無いのだとしても。


 春譜が顔だけを俺に向けた。


「あーちゃん。それ、本気で思ってます?」

「本気で……、思いたいとは、思ってるよ」

「やっぱり、ボク、貴方の事が嫌いですよ」

「だろうな」


 春譜は微かに笑った。

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