第26話 人間の価値

 春譜が、ゴミ山の上から、俺達を見下ろしていた。


「春ちゃん⁉ 助けに来てくれたの?」


 詩が問う。


「んな訳ねえだろ。敵だよ」


 春譜は襲撃者たちと同じ、黒い迷彩服に身を包んでいた。しかし、春譜は言う。


「敵ではありませんよ」

「てめえ、何言ってんだよ」

「本当です。そちらに居る女の子を引き渡してくれさえすれば、ボク達は退きます」


 詩の背で、リンゴがビクリッと身を震わす。


「バンを燃やしたのは、てめえか?」

「いいえ」


 春譜は即答した。


「バンを燃やしたのはボクの部下です。ボクの、使えない部下」

「……春ちゃん。どうして?」


 春譜は答えなかった。ただ、詩の事を一瞥するのみ。


「お前さん、この前、言ってたこと、マジでやるつもりか?」

「もちろん」


 春譜が頷く。


 〈進化する人類〉と彼は言った。


 人間の遺伝子を改変し、より優れた人間を生み出す。


 人口幹細胞と遺伝子改変。


 それを行うだけの技術は、もう随分と前から揃っていた。


「リンゴをどうするつもりだ?」

「リンゴ? ……ああ。そういう名前なんですね。あーちゃんなら、もう分かってるでしょう?」


 春譜の語る〈進化する人類〉計画の為には、一つだけ足りないものが有った。


 それは、遺伝子を改変するための道標。


 遺伝子を改変する術は有っても、どのように改変するべきか、分からないのだ。


 国が集めた遺伝子データベースから、成功した人間がどのような遺伝子を持つかは分かる。

 しかし、その成功した人間をコピーしたところで、世の中に優秀な現代人《ホモ・

サピエンス》が、一人、増えるだけだ。意味が無い。


〈進化する人類〉とは、人類を越える人類だ。


そうであるならば、模倣するべきは、普通に優秀な人間ではない。


例えば、並外れた聴覚を持った、リンゴのように。


「分かりたくもなかった」


 彼女はハツカネズミと同じだ。リンゴの身体を切り刻めば、その優れた聴覚が、何の遺伝子に由来するのか分かるだろう。


「彼女は逸材です」


 春譜が言った。


 皮肉だ。


 春譜を助けて、春譜に命を狙われるなんて。


「神にでもなったつもりか?」

「これからなるんですよ。ボクたちの子孫が」

「ざけんな」


 俺が拳を地面に突き立てる、瞬間、足元に銃弾が突き刺さった。


「動かないで。松島の銃口は、あーちゃん達に向いています。彼女の腕前は知っているでしょう? 隠れても無駄ですよ。ボクの万象律が弾丸を曲げますから。余計な事はしないでください」

「てめえ……」

「あーちゃんは、どうして青色地区なんて物が在るのか、知っていますか?」


 不意に、春譜が訊いた。


「そんなの、行く当ての無い奴が多すぎるからだろ」

「そんな人たちに行く当てを与える事は、可能です」

「だったら、どうしてそうしない?」

「今の繁栄の土台は何か、忘れましたか?」

「……遺伝子」


 膨大な遺伝子データベース。


 それを基に造り上げた、種々の薬剤や技術。それが、今の日本を支えていた。日本だけではない。世界中の多くの人が、その恩恵に与っている。


「だけどね、データだけでは限界が有るんです。実物も無いと」


 春譜は、ゴミ山の上で両手を広げる。そんな彼を取り囲むのは、青色地区。


「見てください。ここに、居なくなっても困らない人間が、こんなに沢山」

「ふざけるな!」

「真剣です。青色地区は、巨大な遺伝子の実験場だと言っても、過言ではない」

「あり得ない。仮にそうだとして、どうやって管理する?」


 この青色地区には、戸籍なんて持たない人間が山ほど居る。誰が有用な遺伝的特徴を持ち、誰がそうでないかを判断するかなんて、出来るはずが無い。


「できますよ。予防接種があるでしょう」


 年に二回、国が主導で、青色地区で予防接種が行われる。もちろん無償だ。それどころか、備蓄用の食料を配るため、ほぼ全ての住人は受ける。


 青色地区が感染症の温床にならないようにする為、というのは表向きの理由だった。


「じゃあ、コイツは?」

「ええ。彼女は予防接種を受けていません。どういう訳か」


 いや。当然だ。


 リンゴは人間が怖くて仕方なかった。人間だらけの予防接種会場になんて避けるに決まっている。まして、獣の耳が露顕するかもしれない。行くはずが無い。だからこそ彼女は、今まで、実験動物にならなかったのだ。


 しかし、リンゴは春譜に、獣の耳を見せてしまった。


 だから、こうして襲撃されたのだ。


「優秀な遺伝子を持つ人間を見つけたらどうする?」

「情報本部(ボクたち)が回収します」


 回収。


 嫌な言い方だ。


 俺達が麻酔を奪った夜、春譜と遭遇したのは、そういう理由だったのだろう。彼らは、回収の途中だったのだ。


「それで、今度はリンゴを回収しに来たって訳か?」

「ええ。彼女は逸材です。それこそ、青色地区が始まって以来の。これで、〈進化する人類〉計画は、一歩、前へ進む」


 春譜は語る。


「あーちゃん。〈進化する人類〉計画が、世迷い事の類じゃない事は、分かったでしょう?」

「ああ」

「一緒に行きましょう。その子を渡してください」


 要するに、最後通告だ。


 仲間になれ。


 でなければ殺す。


「だってさ」


 俺は詩の方を見る。


「……ねえ。よく分からないんだけど」


「要するに、リンゴを実験動物にするつもりだ。リンゴを差し出せば、俺達は助かる」


「そんなの、有り得ないから」


 即答だった。


「聞いてたか? 春譜。そういう訳だから、リンゴは渡さない」

「死ぬ、としても?」

「そのつもり」


 答えたのは詩だ。


 俺も黙って頷く。


「そうですか。あーちゃんとなら分かり合えると思っていたのに、残念ですが、終わりにしましょうか」

「まって!」


 リンゴが叫んだ。


「わたしなら、へいきだから。だいじょうぶ。詩、証。ありがとう」


 リンゴが身体を捻り、詩の背中から降りる。


「良い子だ」


 春譜が言った。


 しかし、俺はリンゴの背後から、彼女の首に腕を回す。そのまま締め上げた。


「撃つな! 撃つなよ!」


 茶色の小瓶。


 それで、リンゴの細い首筋をペシペシと叩く。


「……それは?」


 春譜が眼を細める。


「テルミット焼夷弾」

「そんな物、何処で?」

「ここは青色地区だぜ。言っておくけど、本物だ」


 ポケットから、別の一本を抜き出して放る。


 地面に着いた瞬間、白い炎が濁流のように噴き出す。テルミット反応。その反応は、三千度にも達する。人間のタンパク質なんて一瞬で消し炭だ。リンゴを実験動物にしたい春譜たちにとって、それだけは避けたいだろう。


「あーちゃん。どうして、たった一人の少女にそこまで入れ込むんですか? 正義の味方にでもなったつもりですか?」


 正義の味方などと言われて、思わず吹き出してしまう。


「まさか。そんなんじゃねえよ」


 実際、〈進化する人類〉計画は面白いとすら感じた。そう言った意味では、俺は春譜と同類だ。


「だったら何故ですか⁉」


 俺はリンゴの喉首を、背後から左腕で締め上げていた。


 もう片方の手で、テルミット焼夷弾を彼女の頬に押し付ける。


 そんな俺の腕に、彼女の両手が触れていた。振り解くわけでもなく、本当に触れるだけ。添えられている、と言った方が良いかもしれない。こんな状況でもまだ、リンゴは俺の事を信じているみたいだ。


 視線だけを横に動かせば、詩と目が合う。


 強い光を宿した瞳。


 彼女もまだ、俺の事を信じている。


 どうやら俺は、こうも無邪気に信頼を向けられてしまうと、その信頼を振り解く事が出来ない質らしい。


 要は、罪悪感に負けたのだ。


 それでも、向けられた信頼は、嫌いではないけれど。

 

 春譜は俺達を睨みながら、忌々しそうに言った。


「一人の少女の為に、人類の可能性を潰せと?」

「命を何だと思ってるの⁉」


 詩が叫んだ。


「現象です」


 ただ一言、春譜は答えた。


「物体が重力に引かれるように、水が二つの水素と一つの酸素から成るように、磁石が鉄を引き寄せるように、生命もまた、現象に過ぎない。遺伝子という分子に刻まれた通り、成長し、老い、やがて死んでいく、一つの現象に過ぎません」


 春譜の言葉を、否定する言葉を、俺は持ち合わせていなかった。


 人間の身体を分解してみよう。


 まずは臓器。脳や、心臓や、骨や、血管、筋肉。


 そして、それらを成す細胞。


 細胞を成すタンパク質。


 タンパク質を成す原子。酸素、炭素、水素、窒素、カルシウム、リン、硫黄、カリウム、ナトリウム、塩素、マグネシウム……。


 幾ら分解しても、何処にも、生命だけが持つ「生命素」なんてものは無い。

だから、物と者に境界なんて、そもそも無いのかもしれない。


 それでも、


「そんなはずないよ!」


 そう叫ぶのが詩だ。


「幻想です」


 春譜は一言で切って捨てる。


「あーちゃんがその子に抱く感情も、所詮は幻想に過ぎません。代わりなら有りますよ。同じように従順そうで、か弱くて、可愛らしい女の子なら、幾らでも用意できます。だから、あーちゃん。その女の子を渡してください」


 最早、怒りも感じなかった。


「何ですか。その眼は」

「憐れみだよ」


 俺はそんな言葉を吐いて捨てた。

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