第9話 自分の気持ちに気付いた僕と自分の気持ちにフタをした君

 藍子のことを女として好きだったと今更ながら気がついた僕だったが、気付いたからといって何ができるんだろうと考えた。


・・・・・・・・・・。


 情けない話だが、何も思いつかなかった。目の前で藍子が辛そうな顔をしているというのに、僕は何も思いつかない。結婚を台無しにしたい気持ちはあるが、それで藍子やお父さんに何かあっても困る。それにそんな勇気と行動力が僕にあるとは思えない。僕はいつだって藍子に助けてもらってきたはずなのに、藍子が助けを求めている今、何もできないのだ。


 しばらく、ふたりとも黙ったままになってしまった。お互い床に座り込み、下を向いたまま。僕は時々上目遣いで藍子を見たが、藍子はずっと下を向いたままだった。


〈何か言わなくちゃ。このまま藍子がこの部屋を出て行ってしまったら、本当に藍子とは逢えなくなってしまう〉


そう思っているのに、言葉が出てこない。


 どれくらいふたりで下を向いたままだったか、時間の感覚さえも分からなくなっていた僕の時計を動かすかのように藍子は言った。


「そろそろ帰るよ。なんか、もう逢えない報告だけのつもりが愚痴っちゃってごめんね。お父さんのこと、ホントにお願いね。一通りの家事はひとりでできるようになったけど、それでもひとりで暮らすのって心細いし。時々『あ、家、間違えた』くらいのボケでうちに入って行っちゃってもいいから」


藍子は下を向いている間にどんなことを考えていたのだろうか?重たかった空気が藍子のひとことで、何となく軽くなった気がした。いつだって藍子は空気が重たければ、ふわっと軽くする言葉を発するやつだった。自分がこれから経験するであろう辛い日常への不安は、この言葉の中には感じなかった。「あ、家、間違えた」くらいのボケってなんだよ!と僕は心の中でツッコんだが、それを声に出すことができず、まだ黙ったままだった。


 そんな僕を下から覗き込みながら藍子は、

「聞いてる?お父さんのこと、頼んだからね!」

と念を押した。僕は、反射的に、


「分かってるよ!聞こえてるし!!」


といいながら、顔を上に向けて藍子の視線から反らした。


「視線そらすの、へたくそだね」


藍子はそう言いながら、さっきまでの辛そうな顔からいつもの笑顔に戻った。他の人にはあまり見せない笑顔を、今日も僕には見せてくれたのだ。


これが最後の藍子の笑顔なのだろうか?


 ふと僕は現実に引き戻された。藍子が今、ココにいる理由は、僕と逢うのは今日で最後だと伝えるためだ。その現実がいきなり僕を襲った。このままこの部屋から藍子が出て行ってしまったら、本当に逢えなくなってしまうのだろうかという疑問はあったが、多分、答えはYESなのだということはすぐに理解した。


 物心ついた時には既に一緒にいた藍子が、現実の話とは思えないような結婚で、僕の前から姿を消すのだ。今まで藍子がそばにいなかった時など一度もない。高校を卒業して、進路が違ったとしても隣りの家から毎日出てくる藍子を見ない日はほとんどなかった。僕は、ゆっくりと顔を正面に戻し、藍子を見た。藍子はまっすぐ僕を見ていた。


 せっかく自分の気持ちに気がついたというのに、僕は何もできない。藍子は今、どんなことを僕に期待しているだろうか?いや。多分、僕には何も期待していないだろう。藍子の性格はそういう性格だ。人を頼らず、なんでも自分で解決してきた。きっと今回だって、多少愚痴りはしたが、状況を変えたいから僕に手伝ってほしいと思って愚痴ったわけではないだろう。ただ、何となく、愚痴が口からこぼれた…そんな感じだろう。


 この先、藍子は自分の気持ちにフタをして生きていくことは想像出来たが、


「結婚してから、相手も藍子もお互いを好きだと感じる日が来るといいな」


僕は、絶対今藍子が言ってほしいと思っていた言葉とは違う…おそらく真逆の言葉を口に出してしまった。


「来ないだろうね。一生。私があの人を好きだと思ったことは一度もないし、これからもないって断言できる。そもそも、付き合う少し前に恋愛未経験が仇となって『男と女が付き合うっていうのはこんな気持ちでいいんだろう』って適当に『これが恋愛』って思い込んだところから間違ってたんだと思うわ」


藍子の笑顔は、口角は上がっているが目は明らかに生気のない目になっていた。さっき、僕を覗き込んだ悪戯っぽい笑顔の目ではないのは、多分僕じゃなくても気がつくだろうというくらい表情は変わっていた。僕は、


「自由になるまで絶対に負けるなよ」


といって、もう一度藍子を抱きしめた。藍子も受け入れてくれて僕の背中に手をまわしてくれた。その手は僕よりも強い力が入っていた。僕も負けまいと力を込めたが、やがて僕の背中に入っていた力は小刻みに震え出した。藍子は泣いていたのだ。僕は、気付かないふりをしてしばらくふたりはお互いの顔が見えない状態のままになった。


 藍子と逢える最後の日に藍子への想いに気付くなんて僕は正真正銘の鈍感だ。好きな女が不幸になると分かっていても何もできないのだから。

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