第10話 人権の消滅と辛抱の始まり

 藍子を強く抱きしめた日を最後に、本当に藍子には逢えない日々が始まった。あの日、「来月結婚する」と言われた時には「来月なんてまだ先の話。逢えるのは最後だと言ったが、家は隣りなんだから結婚前に絶対に逢える」と信じて疑わなかった愚かな僕の予測は見事に外れた。


本当にあの日以来、藍子を見る日はなくなった。そして、時は既にあの時言っていた”来月”に入っていた。あの日以降、時々藍子の家から荷物が運び出されていたことは知っていた。そのたびに窓から覗いたり、わざとらしく家の外に出たりしたが、そこに藍子の姿はなかった。


 お父さんが荷物を取りに来た人と話しをしている姿は見かけたが、話しをしているというより、確認に頷くだけにも見えた。なんだか一気に老け込んだようにも見えて、僕は心配になった。藍子との約束だったからではなく、僕は時々本当に「あ、間違えた」といって藍子の家に入って行ったが、お父さんは決まって「おかえり」と作り笑顔で出迎えてくれた。


 何度目かの荷物運びのあと、僕は家の外に出てその荷物を載せたトラックを見送るお父さんに声をかけた。

「藍子はもう家にはいないの?」

お父さんは、トラックを見つめたまま

「琉生の家に結婚報告に行った翌日には、家から出て行ったよ。もう逢えないんだから結婚式までこの家に居ればいいのに」

と力のない声で言った。


 厳格だったお父さんがここまで憔悴してしまうなんて誰が想像しただろうか。おそらくお父さん自身も予測できなかっただろうと僕は思った。しばらく話をした中で僕が得た情報は、”藍子の結婚式にお父さんは出席できるが藍子の友人は一切出席できないこと”と”藍子は今までのスマホを解約して新しくしたが番号はお父さんも知らないこと”だった。


そこまでして藍子の関係者から遠ざける理由が僕には理解できなかった。おそらくお父さんも、そして藍子の友達も今の僕と同じ気持ちだろう。僕は考えても仕方ないことを考えずにはいられなかった。


〈藍子はどうしてこの結婚を受け入れたんだろうか?〉

〈好きでもない男の子供を授かるために抱かれる時、一体何を思うのだろうか?〉

〈この先、藍子が自由になれるのは何年後なのだろうか?〉


とめどなく浮かぶ疑問の山を開拓するわけでも手入れするわけでもなく、僕の心の中は疑問の山をどんどん大きくするだけの作業しか出来なかった。


 それからしばらくして、藍子は結婚した。結婚式の写真が届けられたと言ってお父さんは僕の家にそれを持って来てくれた。写真は相手の家族も写っていない、相手と藍子のふたりだけの写真が1枚だけ、割りと立派な額に入っていた。藍子も僕も22歳のことだった。


写真の中の藍子は、笑顔ではなく凛々しく見えた。その顔は例えるなら、戦時中、戦禍への招集がかかり、家族に「お国のために戦ってきます!」と挨拶をする兵士のようだった。藍子は何のために戦おうとしているのだろうかと、僕の疑問の山にまたひとつの疑問が増えてしまった。


 これからの藍子の生活は、いったいどんな生活なのだろうか?最後の日に藍子が言っていたような生活だとしたら、それはもう人権すら与えられない生活だ。結婚した瞬間から…いや、結婚を決めた瞬間から藍子の人権は消滅し、辛抱の生活が始まってしまったのだ。


なぜ、結婚に当たっての決まりを破ってでも結婚を白紙に戻さなかったのだろうか?と僕は、今考えても仕方がないことを考えずにはいられなかった。


 しかし、それを藍子に聞くことも出来ないのだ。この先、子供ができ、就職するまで我慢したら、藍子はどうするのだろうか?そのまま結婚生活を続けるのか、それとも離婚するのか。


僕は、ぼんやりとだったが、藍子は離婚しないような気がしていた。藍子とはそういう性格だからだ。藍子の結婚生活を僕が語ることはできない。


 ここからは、藍子本人に語ってもらおう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る