第7話 結婚準備と身辺整理

 藍子たちが付き合い始めてから2年ほどした頃。いよいよ結婚の話は本格的に動き出した。お父さんはすっかり家事も板につき、正直藍子がいなくなっても困ることもないほどの腕前になっていた。お母さんが生きていたら、恐らくこんな未来は予想もしていなかっただろう。まぁ、お母さんが生きていたら、こんな未来はなかったかもしれないが。


 藍子は結婚したら、当然相手と一緒に暮らし始める。つまりお父さんはあの家で一人きりになってしまうのだ。結婚後にどこに住むのか、僕は何も知らない。でも最近藍子に逢えないから聞くこともできなかった。


そう。

藍子は、一体いつ出勤して、いつ帰宅しているのか、僕はまったく分からなくなっていた。以前は、同じ時間に出勤して同じ時間に帰宅していたが、たいてい出勤時間に僕はまだ家にいて、ベッドの上から藍子の車を見送っていたし、帰宅する頃には藍子の車のエンジン音が聞こえていたから「あ、帰ってきたんだ」と分かった。


 それが、最近はまったく分からない。車での通勤をやめたのか、毎日車は車庫に停めっぱなしだ。職場が変わったという話は聞いていなかったから、単に通勤方法を変えただけだと思うが。僕は、なんだか胸の奥がざわざわしていた。


—僕を避けてるのか?—


ふとそんなふうに考えたのだ。2年前、偶然藍子の彼氏を見かけたあの日以来、藍子と僕は隣同士だというのにあまり逢わなくなっていた。休みの日に出かけるのが習慣になっていたはずなのに、それすらいつ出掛けているのか、それとも出掛けなくなったのかさえ分からない。


 時々、うちの母親が藍子のお父さんの様子を見がてら家を訪ねることがあったが、出てくるのはいつもお父さんだけだったらしい。母親が藍子の様子を聞くと、決まって元気だと答えるだけだったらしい。そして、もうすぐ結婚するという話もしていたらしかった。


 僕は、藍子があの時と同じように恋愛感情なしで、本当に結婚してしまうのかと思うと、なんだかイライラしてしまった。イライラしたところで僕には何もできないことも分かっているから余計イライラが増した。


藍子に対してのイライラ、藍子の彼氏に対するイライラ。そして、一番僕をイライラさせたのは僕自身の無力さだった。


 僕が日々イライラと闘っていたある日。藍子とお父さんが僕の家を訪ねてきた。日曜日だったし、僕も家にいたから玄関に顔を出した。しばらく見ていなかった藍子は、昔から細身だったが更に細くなった気がした。細くなった…というよりやつれているようにも見えた。


「あら、藍子ちゃん。久しぶりねぇ♪」


多分、母親も藍子のやつれた姿に驚いたはずだが、あえていつも通りに接していたのが分かった。ということは僕もいつも通りに接した方がいいのか?と考えたが、どうしてもそれが出来なかった。


「藍子!なんでそんなにやつれてるんだよ!」


僕は直球をくらわしてしまった。藍子のお父さんも、僕の母親も一瞬凍り付いたのが分かった。みんな思ってても口にできなかったのかもしれない。そんな周りをいち早く察知したのは藍子だった。


「やつれたとか失礼だよね。私ね、結婚するの。結婚ってさ、結婚式までにエステだのダイエットだの色々あるんだよ。琉生は知らないでしょ。女性って結構準備が大変なんだよ。ウェディングドレスを着て、ちょうどいい見栄えになるにはこれくらい痩せないとダメなんだよ。今って、ビデオ撮影とかあるんだけどビデオって太って見えるからさ。きれいな花嫁さんに映すためにダイエットするんだよ」


僕に向けて言いながら、同時に僕の母親に対しても言っているように聞こえた。現に母親は、


「そうだったの?琉生が変なこと言うから私もそう見えちゃって…今って大変なのね」


と信じたように笑いながら言った。しかし、その笑い声は明らかに動揺を隠すためのフェイクだった。信じてないことはその場にいた誰もがきっと気付いただろう。でも藍子の気持ちを察したのかもしれない。そんな話をしている間、お父さんは一言も言葉を発しなかった。


「琉生が横槍入れるから肝心のこと伝えられなかったよ。あのね、おばさん。私、来月結婚するの。それでね。お父さん、一人になっちゃうから時々生存確認してもらいたいの」


藍子ばかりが話して、お父さんは黙ったままの光景が何だかとても違和感があった。でもまた”横槍”だと言われるのが嫌で黙っていた。


「来月なのね。おめでとう。で、どこに住むの?藍子ちゃんも様子を見に来られる距離なのかしら?」


母親がいい仕事をしたと僕は心の中でガッツポーズをした。僕が聞きたかったのは結婚後の藍子の住まいだったからだ。


「私、結婚したら県外に引っ越すの。結婚する人はそこで会社をひとつ任されちゃうから私はそのサポートをしなくちゃいけなくて。今月いっぱいで仕事も退職して少しずつ引っ越しも始めなくちゃいけないんだ」


〈県外ってどこだよ!〉と僕は言葉にしたかったが、僕より早く母親が他のことに食いついて僕が聞きたかったことは声になる前に消された。


「会社をひとつ任されるって社長さんになるの?結婚相手さん!!」

「はい。もともとある企業の創始者の家なの。子供たちは代々一般企業で修業して、ある程度の期間が終わるとその会社に戻されるみたいで。で、その企業の関連会社を持つって感じで。結婚する人も例外なくそのきまり通りって感じ」

「じゃあ藍子ちゃんは社長夫人になるのね。すごいじゃない!」

「いえいえ。すごくないですよ。私はその会社に働くわけではないし、専業主婦でサポートするだけだし」

「そっかぁ♪でも親としては嬉しいでしょ?いい人見つけてくれるのが親としては一番だもんねぇ」

母親は藍子とお父さんに向かって言ったが、お父さんは作り笑顔をするだけで何も答えなかったのが僕は妙に引っかかっていた。〈もしかしたらお父さんすら言いたいことを藍子に言えないんじゃないか?〉と僕は思った。


 しばらく藍子と僕の母親のやり取りが続いたが、やがて会話も終わり、


「それじゃ、宜しくお願いします」

と藍子が深々と頭を下げた。そして、

「琉生、ちょっといい?」

急に僕に向かって声をかけてきた。

「お…ぉぉ…」

僕は声がひっくり返ってしまった。

「お父さん、先に帰ってて。ちょっと琉生と話ししてから帰るから」

藍子に言われたお父さんは、

「おう」

とだけ答えると、僕たちに会釈をして家を出て行った。それを見届けてから、藍子は

「琉生の部屋で話したいから、上がっていいかな?」

と言ってきた。藍子とふたりで話すのはどれくらいぶりだろう?嬉しいはずなのに、なぜかこの時は嫌な予感しかしなかった。


 部屋に入ると、藍子は慣れた動作で僕のベッドに腰を下ろしながら、


「あのさ。また怒られるかもしれないんだけどさ。琉生と逢うの、今日が最後なんだ」


と言ってきた。嫌な予感はしていたが、僕の予感よりはるか上の嫌な宣告だった。僕は自分の部屋だというのに、立ったまま、


「どういうこと?結婚は来月だろ?まだあの家にいるんだろ?最後ってのはおかしいだろ」


と、できるだけ冷静を装って言った。藍子はそんな僕の気持ちを察したのか、大きく深呼吸を数回したあと続けた。


「結婚するにあたり、身辺はきちんと整理してもらいます。まずは友人を含め、男性との縁は完全に切ってもらいます。万が一、それが出来ない場合には結婚は白紙とさせていただきます。結婚後ももちろん同様です。火のないところに煙は立ちません。何か不穏な噂が出た時点で、我が家から出て行ってもらいます。その時、子供がいない場合には子供だけは作っていただきますが出産と同時に我が家とは縁を切ってもらいます」


藍子の口から出てきた言葉たちは、僕にとってひとつも理解できない内容だった。藍子は誰かにそれを言われたんだろう。言われたとおりに僕の前で再現したようだった。黙ったまま立ち尽くしている僕に藍子は続けた。


「って、向こうのお母さんに言われたの。それも代々続いてるしきたりなんだって。友人含め男性との縁ってのは、父親も含まれてるのにはビックリしたけど。結婚したらもうお父さんとも逢えないの。お父さんと逢えるのは、お父さんが余命宣告されるような病気の時か、亡くなった時だって。これ聞いた時、私、結婚をやめたいってあの人に伝えたのね。でも今更それは出来ないって。どうしても私のDNAが必要だって言われた」


藍子の顔がみるみる曇ってきた。非常識なことを言われ、別れたいと告げた時を思い出していたのだろう。藍子の顔から常識が通じなかった悔しさがにじみ出ていた。


「お父さんとは結婚式が最後ってこと?」

〈違う!それも聞きたいけど、僕が聞きたいのはそれだけじゃない!〉と思いつつ、言葉に出たのはお父さんの心配だけだった。


「うん。入籍した時点でお父さんとも縁を切る感じ」


藍子はそう言いながら、うなだれた。そして、全身が小刻みに震えていた。僕は思わず藍子を抱きしめてしまった。慌てた藍子はベッドから立ち上がり、僕からすぐ離れようと抵抗したが、僕はどうしても今離したらいけない気がして藍子を強く押さえつけた。


 藍子はそれでも必死で僕から離れようとした。〈どうしてそんなに必死なんだ!どうしてそんな理不尽なこと言われてるのに従おうとしてるんだ!〉と僕は藍子に対しても憤りを感じていたせいで藍子の抵抗に絶対負けないと、自分でも驚くほどの力で藍子を抱きしめていた。


「…めて…はなし…て…」


藍子の声は涙声だった。僕は抱きしめたまま、


「今日までは逢えるし話せるんだろ。だったら、藍子の気持ち、本音を全部ここに置いて行けよ。ひとりで抱えんな」


と静かに言った。抵抗してた藍子の力がみるみる抜けていくのを感じ、僕はさらに藍子を強く抱きしめた。

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