第6話 交際と腐れ縁の違い

 藍子が、付き合っているにもかかわらず、ちっとも幸せそうに見えないという話を僕は自分の母親に伝えたことがあった。母親は、


「もともと藍子ちゃんはクールで感情を面に出さない子だったでしょ?それに今まで辛いことばかりあったんだから、幸せそうな顔ってどんな顔か、よく分からないのかもしれないわよ。あんたが心配してどうすんの?藍子ちゃんが何か相談に来たら、乗ってあげればいいだけなんじゃないの?」


と呑気に言った。確かにそうかもしれない。昔から、ポーカーフェイスといえば聞こえはいいが、藍子は滅多に感情を出さないやつだった。けど、たまに見せる辛そうな顔や、ちょっと嬉しそうに笑う顔を知っている僕としては、もう少し幸せそうな顔を見たいという気持ちはあった。


 そんな僕の気持ちなんて知る由もなく、藍子の交際は順調のようだった。会社が休みの日には、自宅から少し離れた広い道路で彼氏が車で待っていて、それに乗り込んでどこかに行くのを何度か見たことがあった。


 この頃の僕は、彼女と呼べる相手もいなくて気付けば藍子のことばかり考えていた。これが恋だの愛だのって感情だったのかは、この時の僕には分からなかった。今まで付き合った経験から考えると、まったく別の感情だったから、きっと恋でも愛でもなかったんだと思うが。


ただ、一度だけ彼氏の顔を見たことがあった。彼氏が車を停める道路をたまたま歩いていた僕は、その車が停まるのを見かけたことがある。藍子を送ってきた帰りって感じだったが、デートにしては早い帰りの時間だった。だからこそ彼氏の顔がハッキリと見えたのだ。


 僕は、〈藍子はあんな顔がタイプなのか?なんか、あの目つき、僕は嫌いだな〉と誰かから意見を聞かれたわけでもないのに、勝手に彼氏を評価していた。僕が見るかぎり、彼氏の方も交際中で幸せそうには見えなかった。一体、藍子はどんな交際をしているんだろう?と疑問しか残らなかった。


 僕を見つけた藍子が車から降りたあと、僕に手を振った。僕も思わず手を振り返したが、そんな僕に鋭いナイフでも突き刺したかのような冷たい視線を感じ、黒目だけで車の方を見た。


彼氏は、僕に対して僕が嫌いだと思ったあの目で睨んでいたのだ。〈これってヤキモチなのか?〉僕は、その目つきがとても怖くなった。〈ヤキモチって目つきじゃない!まるで殺意だ!〉と僕は思った。〈藍子、お前の彼氏の目に刺されて僕は殺されそうだぞ〉僕の感情は、もう藍子の彼氏が殺人鬼で、自分はその被害者にでもなったかのようだった。


「何やってんの?こんな時間に」


藍子は、僕にいつも通り話しかけた。その藍子を間に挟む感じで、彼氏の視線は藍子ではなく僕に向けられていた。


「腹減ったからコンビニ行ってた。デートなのに帰り、早いのな」


僕はできるだけ藍子に気付かれないように普段通りを装った。


「いつもこんな感じだよ。1日はそれぞれ休みたいし」


藍子は彼氏の鋭い視線など全く感じていない様子で、ホントにいつも通りに話していた。彼氏がヤキモチを妬くかもしれないとは思わないのだろうか?こうなると、僕はなんとなく優越感を覚えてしまうのだ。彼氏より僕の方が藍子にとっては、安心できる存在なのかもしれないなんて妄想が止まらなくなった。


 そんな僕を妄想から引き戻すかのように、彼氏の車は急発進をし、僕たちの横を猛スピードで通り過ぎた。藍子の方も一度も見ずに、だ。彼氏の荒い運転を見送っても藍子は、何を考えているのか分からないポーカーフェイスだった。


「なぁ。お前の彼氏、気性が荒いのか?僕と話してるのを見て気分害したんじゃないのか?」


僕は、通り過ぎた車に視線をやりながら藍子に聞いてみた。藍子も車を見ながら、


「かもね」


とだけ言った。そして、自宅へと歩き出したので、僕も一緒に帰ることにした。


 帰り道。藍子は、


「私、多分あの人と結婚すると思う」


とボソッと呟いた。僕は正直驚いた。


「藍子はあの人のことが好きなの?結婚したいと思ってるの?」


僕の率直な疑問だった。藍子は一体どんな答えを僕にくれるのだろうかと答えを待った。すると、


「私が好きってわけじゃなくて、あの人が結婚したいらしい」


僕の予想とは違った答え…いや、予想通りの答えが返ってきた。やっぱり藍子は彼氏のことが好きではないのだ。なら、どうして付き合ってるんだろう?僕は藍子の気持ちがもっと知りたくなった。


「何それ?藍子の気持ちはどうなるんだよ!好きでもないのに結婚とかおかしいだろ?」


僕は、藍子の方へ身体を向けながらカニ歩き状態で歩きながら尋ねた。藍子は、深くため息をつくと、


「私ってさ。自分の気持ちとか感情とかを出すと絶対何かを失うんだよ。だからもう自分の気持ちとか出さないことにしたの。誰かが望むことを私が手伝えるなら手伝おうかな?って感じ」


「何があったんだよ!なんで、そんなふうに考えるようになったんだよ!」


僕は思わず藍子の前に立ち、藍子の両肩を抑えながら叫んだ。藍子は少し驚いた様子だったが、すぐに、


「だってさ。ゆう姉が具合悪くなった時だって、私は好き勝手にやってた時期でしょ?陶子姉が結婚して家を出たのだって、私が夢を持ってた時期だし。お母さんが死んだのなんて私の大学受験直前だよ。そのせいでお父さんは会社を辞めちゃったし。私が好きなことやったり、目標を見つけたりするたびに家族の人生が変わるんだよ。だったら、私は自分の気持ちなんて出さない方がいいし、何か目標とか見つけない方がうまくいくんだよ。実際、私がそう決めてから、お父さんは料理に目覚めて、お母さんの死から立ち直ったし、会社でも言われたことを淡々としていれば、誰にも迷惑かからないし」


ゆう姉というのは二番目の姉、由布子姉ちゃんのことで、陶子姉というのは一番目の姉ちゃんだ。藍子がそんなふうに自分を責めていたなんて、あの当時はまったく気づかなかった。


「でもだからって好きでもない人と結婚するのかよ!そんなのうまくいくわけないんじゃないのか?」


僕は、藍子が自分を責める必要なんてないから自分の気持ちに正直になってほしいと思っていた。


「結婚ってさ、うちのお母さんも言ってたけど、してから関係を築いていくこともあるんだって。お母さん、お父さんとお見合いだったらしいんだけど、最初は恋愛感情なんて一切なかったらしいよ。むしろ、偉そうなお父さんのことが苦手だったみたい。今さ、私もあの人に、当時のお母さんと同じような感情を抱いてるの。でもお母さんは結果的に、お父さんと結婚して良かったって思えるようになったらしいから、私もそうなるんじゃないかな?って。まぁ、単なる勘だけだけど」


藍子のうちの両親がお見合いだったとは知らなかった。でも今の時代、相手に恋愛感情なしで結婚なんてありなのか?と僕は思った。恋愛で結婚したって、合わないって言ってすぐに離婚する時代だ。藍子の考えが理解出来ずに、僕は自分に苛立ちを覚えた。


「なぁ、藍子。お前があの人のこと好きじゃないって、あの人は知ってるのか?」


僕はなんて質問をしてるんだ?そんなの知らないに決まってるじゃないか。


「知ってるよ。付き合う時に伝えたから。それでもいいんだって。頭の回転が速くて、それなりに勉強ができるDNAがほしいだけらしい。一応私の成績とかを調べたら、条件にピッタリ合ってたらしい」


僕は藍子が言ってることが未知すぎて理解出来なかった。


「もしかして、あの人も恋愛感情はないのか?」


恐る恐る聞くと、


「多分ない。欲しいのはDNAだけみたい。あの人の家、みんなエリートらしくてね、その子供もエリートになれる素質がないとダメらしいんだ。結婚して、子供がエリートになったことを見届けたら、私はもう必要ないんだって。離婚でも何でもしていいらしい」


「あの…さぁ…」


僕は藍子の口から言葉が出てくるたびにパニックになった。そんな結婚が、現代に存在するのか?そんな結婚が許されるのか?藍子はどうして拒否しなかったんだ?

頭の中は疑問形の言葉しか浮かんでこなかった。


「琉生にはさ、どうしてこんなふうに言えるんだろうね。なんか安心して何でも話しちゃうよ」


藍子の口からまともな、それも僕にとってはかなり嬉しい言葉が出てきて、僕のパニックは一気に消滅した。


「腐れ縁だからじゃないの?別に気負う必要もないし、気取る必要もない。まして、相手の言いなりになる必要だってないんだからさ。腐れ縁の特権ってやつだよ、多分」


「そっか。あの人とこんなふうに会話が続くことはないからね。でも琉生だと普通に言葉が出てくるよ」


藍子はにこっと微笑んだ。そうだ!この顔だよ。僕の母親が知らない藍子の感情。僕は何度も感情を出した顔を見ている。藍子だって普通に喜怒哀楽を出したっていいのに、どうしてそれを抑えて生きなくちゃいけないのか、僕は無茶苦茶切なくなった。


「じゃあね」


僕があれこれ考えているうちに、僕たちは自宅に到着してしまった。


「おう…」


何とも情けない声で、僕は答えると藍子はそのまま家の中へと消えていった。残された僕は、交際と腐れ縁の違いについて、何となく考えながら自分の家に入った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る