6−4(幼なじみ)

 車内は控えめに言って、氷河期の北極並みに凍りついていた。凍り付かせた本人だけがぼくの隣で体を後ろに持たせかけ、腹立たしいほど平然とふんぞり返っている。お前は雪の女王の親戚か何かか? オイミャコンにでも移住してしまえ。

 運転席ではあわれな青年が、固唾を飲んでぼく達の様子を伺っていた。スピードを上げてとっとと面倒な客を目的地へ追い出してしまえばいいのに、注意が後ろに逸れているからか車のスピードは明らかに後続車に深刻な忍耐を強いる速度で、まだ到着までには時間がかかりそうだ。

 ぼくはできるだけ冷静であろうとした。

 あの日の夜、ぼくを連れて帰ったのはブライアンだった。その事実が明るみに出たことでたくさんの疑問が浮かび上がってきたけれど、一つだけ逆に解けた疑問がある。刑事二人がかなり早い段階でぼくへの追求の手を緩めた理由だ。あいつら、とっくの昔にぼくのアリバイが証明されていることを知っていたに違いない。

 自分のすべきことリストに「サムとオリバーを問い詰める」を加え、ぼくは深呼吸をひとつした。

「悪いけど、お前の答えは何ひとつ意味がわからない」

「少しは人の言葉を理解する努力をしたらどうだ」

 勝手な言い分に、ぼくの頭に一気に大量の血液が駆けのぼる。苛立ちが否応なしに高まっていく。おそらくはブライアンのお望み通りに。

「お前……ぼくが努力をしていないとでも? ただでさえ訳がわからないのに、一つ質問したら訳がわからないことが百倍に増えたんだぞ! どうしろっていうんだ」

「お前の質問は、なぜ、おれがお前にあの日のことを黙っていたのかっていう意味だろう。お前を逃さないためだよ、何もおかしなところはない」

「……無茶苦茶だ。だいたい、真実がばれた瞬間に台無しになる計画だ。初めから終わってる」

「いずれ話はするつもりだったさ。お前のことを、法律でも人間関係でも住環境でも、きっちりおれの元に縛りつけてからな」

 ぼくの頭がアランのことや自分の過去のことでいっぱいになっている間に、こいつがそんなことに考えを巡らせていたなんて。

 身震いしたくなる衝動を抑えて、ぼくは眉間に力を込めた。

「その考えが、自分勝手だとは思わなかったのか?」

「思うはずがない。お前がおれにしたことを考えたら当然だ」目を釣り上げて反論しようとするぼくを遮り、ブライアンが続ける。「だいたい、おれは隠すつもりはなかったんだ。お前がまさか、あの日のことを忘れているとは思わなかった」

 苦々しさをたっぷり含んだ男の言葉に、ぼくは押し黙った。ぼくが当時のことを忘れていたからといって、ぼくに真実を話さなかったことへの言い訳になるとは思えなかった。けれどこいつの言う通り、確かにぼくがあの日のことを覚えていたのなら、そもそもこんな問題は起こらなかっただろう。

 諦めのため息をひとつついて、ぼくは改めて切り出した。

「あの日本当は何があったのか、今度こそきちんと話してくれ」

「それほど新しい事実を付け加えられる訳じゃない。おれはたまたま見かけたお前を家に連れ帰った、大筋はそれだけだ」

「……たまたまは嘘だろう、さすがに」

「さあな」

 一体こいつは探偵に向いているのかいないのか。

 曖昧な返答に、ぼくは苦虫を何度も何度も強く噛み締めつつ続ける。

「寝室に、ぼくの許可なく勝手に入ったんだよな。マティのことを知っているってことは」

 それまでふてぶてしく開き直っていたブライアンの目がようやく揺らいだ。ぼくは自分の寝室へのこだわりや、絶対に人を入れないことをブライアンに語って聞かせたことはなかったけれど、一緒にいるうちに彼も何かを察してはいたのだろう。

 やや気まずそうに、ブライアンが言い訳をする。

「……部屋の電気はつけずにお前をベッドに寝かせたから、誓って部屋の様子をまじまじと観察はしていない」

 けれど、ぼくの事務所を見て「意外ときれいにしている」という言葉が出たと言うことは、つまりはそう言うことなのだろう。

 顔をこわばらせるぼくを見て、ブライアンもまた苦しげに顔をしかめた。その表情にお似合いの硬い声で吐き捨てる。

「お前は、おれの名前を呼んだんだ」

「覚えてない」

「呼んだんだよ、何度もな。おれに会えなくて寂しい、まだ好きだと」

「嘘だ」

 さらに塗り重ねられた羞恥に咄嗟にそう口走ったけれど、その言葉を紡いだ記憶が、自分の唇の上に確かに残っている気がした。まだ好きだ、ブライアン。寂しいよ――覚えていないはずの泣き言がなぜか違和感なく自分の内側で再生されて、ぼくは思わず唇を噛み締める。

 ブライアンがその泣き言にどう答えたのかは、今は考えたくもない。

 話は終わりだと窓の外を向くぼくに、男がひどく癇に障る笑い声をあげて言った。

「嘘なものか。お前だって心当たりはあるだろう」

 その言葉を嗤い返そうとして、ぼくはふと嫌な予感に息を詰まらせた。乾き切った口がひとりでに唾を飲み込もうとする。喉が張り付いて苦しいだけの行為を、それでも二回繰り返す。

「……お前、まさか」

 我ながら少しも動揺を隠しきれない声に、ブライアンが冷ややかな顔で笑う。その顔を見てぼくは確信した。こいつは、ぼくとかつての恋人との別れの原因が、自分にあることを知っているんだ。

 あまりのことに、ぼくは言葉を詰まらせながら息絶え絶えに叫んだ。

「まさか、レオにまで話を聞きに行ったって言うのか?」

「当然だ。そいつはドリンクスパイキングの第一容疑者だった」

「とうの昔に別れた昔のボーイフレンドが、一体ぼくに何をしようって言うんだよ⁈」

「犯罪の動機のほとんどは金か痴情のもつれだよ」

 言葉を失うぼく――と片手で口元を押さえて必死に声を上げないように努めている運転手の青年――の視線を平然と受け止め、ブライアンが無知な相手に言い聞かせるように優しげに言った。

「まあ、彼はすでに調査対象から外れているが」

 ぼくは呆然としたまま男を見つめることしかできなかった。ぼくは一体誰と話をしているんだろう。一体誰と、この二週間を共に過ごしてきたのだろう。ぼくがかつて誰よりも誰のことよりもよく知っていると信じて疑わなかった同郷の友人は、一体どこに行ってしまったんだ。

 もしも、目の前の男が幼なじみでなかったなら。

 ――いや、もしこいつがブライアンでさえなかったなら、ぼくはきっと今すぐにこの場から逃げ出して、今夜中にブリズベンからも姿を消しただろう。ぼくは我慢強い方じゃない。プライバシーの侵害や束縛についてなんて理解したいとも思わない。それなのに、世界中に溢れかえっている全ての恋愛アドバイザーが間髪入れずに「そんな男からは今すぐ逃げろ」と忠告しそうな男を前にして、ぼくの中にはいくら引っ掻き回しても、少しの嫌悪感さえ湧いてこなかった。

 こんなのはちっとも正しくなんてない。こんなことを許すつもりなんてない。

 それなのに――これほどまでにぼくを堕としてしまっているくせに。

「どうして、ただぼくに正直に全部話してくれなかったんだよ! ぼくの心なんて片手間に奪ってしまえるくせに、一体これ以上ぼくの何がほしいっていうんだ‼︎」

「お前があんな風におれから逃げたからだろう!」

 ぼくの大声に煽られるように、ブライアンの声も跳ね上がった。ぼく達の大声に合わせて運転席の青年が飛び上がる。

「なあ、落ち着いて話をしようぜ、兄弟。建設的な話し合いってのは――」

「部外者は前を向いて運転していろ!」

 青年が最大限まで見開いた目でブライアンを振り返った。自分に対する敬意のなさが信じられないと言いたげに男を凝視した後、ぷいっと顔を正面に戻す。触り心地のよさそうな耳たぶをぐいぐい引っ張っているのは「耳が痛む」という抗議なのだろう。

 哀れな青年にフォローの一つも入れられないまま、ぼくは喧嘩腰で聞き返した。

「逃げたってどういうことだ。目玉の落書きの時の話か? セスの論文の方?」

「おれのリハビリが終わった時の話だ」

 もうとっくに終わったと思っていた話をこのタイミングで蒸し返されて、ぼくの頭に血が昇る。

「逃げるだなんて、あんまりな表現じゃないか? ぼくは少なくとも、お前がぼくの手助けなんて必要なくなるまで、きちんとお前に付き添って――」

 いらいらと言葉を重ねていたぼくは、その時運転席の青年が何か言いたげに視線を送ってきていることに気がついた。ぼくの表情に気がついたブライアンがその険しい表情を青年に向ける。

 ぎょっと身をひく青年の姿に、ぼくは非難を込めて幼なじみを睨みつけた。

「お前な、余裕がなくなると高圧的に振る舞う癖なんとかしろよ! かわいそうだろ。だから友達が少ないんだ」

「ぼくは君の味方だルーカス」

 絶対に聞こえているはずの青年の声を無視して、ブライアンが皮肉げに口を曲げた。

「風評被害もいいところだ。おれには人生を豊かにするだけの十分な友人がいるよ。どこかの誰かがいらん節介を焼いてくれたおかげでな」

「はあ?」

 意味が分からなくてただ眉を吊り上げたぼくだったけれど、そういえば以前、それこそブライアンが入院している最中に、このがんこな幼なじみと彼の友人の橋渡しのようなものをしたことを思い出した。

 当時のブライアンの友人達の悲壮な様子を思い出し、ぼくは少しだけ気を緩める。

「なんだ。ちゃんと彼らと続いているんだな。よかったじゃないか」

 この状況下であることを考慮に入れたら賞賛してしかるべき思いやりに満ちたぼくの言葉に、ブライアンはにっこりと笑顔を浮かべた。

「ああ。いらん節介だけ焼いて、おれから一番大事なものは奪ったやつのおかげだよ」

 ぼくの好意をまるで価値のないガラクタのように表現するブライアンに、ぼくの中にまたしても強い苛立ちが蘇る。

「……お前、告白してきた時は殊勝な態度で『傷つけた』とか言っていたくせに。実はめちゃくちゃ根に持ってるじゃないか」

「当たり前だろう、自分がおれにしたことを分かっているのか? おれの言葉よりお前がおれにしたことの方が、絶対に罪が重いからな」

 罪が重いとか子供かよ、と頭の片隅で思ったけれど、それを凌駕する熱量の怒りが腹の底から湧き上がってきて、ぼくの頭の冷静な部分を一気に吹き飛ばした。

「ぼくの方が悪いだって?! お前こそ、自分がぼくに何を言ったのか覚えているのかよ!」

「覚えていると言っただろ、お前はすっかり忘れていたがな、この鳥頭!」

「なんだと、くそったれのばかブライアン!」

 叫ぶと同時に窓の外の通行人と目があって、ぼくはようやく車が完全に停車していることに気がついた。青年の先ほどの視線の意味はこれだったのかと遅ればせながら気づいたぼくは、ぼく達のことをはらはらと――いや、わくわくと見守る青年に慌ててお礼を告げる。

「到着してたんだ、ありがとう。騒がしくしてごめんな」

「大丈夫。でもそいつとは別れた方がいいと思う」

 青年の言葉に、ぼくとブライアンが同時に叫んだ。

「付き合ってない!」

「大きなお世話だ!」

 青年がまたしてもぎょっと身を引いて、その拍子に彼の背中にあたったクラクションが辺りに鳴り響く。その音に我にかえったぼく達はようやくお互いを睨みつけるのをやめて、無遠慮な通行人の視線に晒されながら外に出た。

「車のドア、あんまり勢いよく閉めないでくれよな!」

「まさかおれに言っているんじゃないだろうな。おれがそんなことをするような人間に見えるとでも?」

 運転席の青年の言葉に、ブライアンがぶつぶつと文句を言う。確かにこいつはものを粗雑に扱うやつではないけれど、すっかり迷惑をかけた初対面の青年にそれを見抜けというのは無茶な話だ。青年を庇うように、ぼくはブライアンに嫌味を投げつける。

「見えるから言ってるんだろ。いい加減、自分が人からどうみられているか自覚しろよ」

「クールで頭が切れて頼りになる男前だ。そんなこと、十年前から理解している」

 ぼくの家の玄関よりかは丁寧にドアを閉め、ブライアンがうんざりしたように吐き捨てた。店に向かってずんずんと足を進めていたぼくは、思わず振り返って男の言葉をせせら笑った。

「何いってんだよ。傲慢で冷酷で、自分の気に触ったら平気で人を切り捨てる、なんでも自分の思い通りにしないと気がすまない面倒な男だろ」

「自己紹介か、ルーカス・ポッター」

「ぼくにお前ほどの傲慢な要素があるなら教えてほしいもんだ」

「自分の思い通りにならなければ平気で人を切り捨てて、すぐに逃げ出すじゃないか。後に残された人間がどんな思いをするのかなんてどうでもいいんだろう。お前は傲慢で冷酷なやつだよ」

「もしぼくが本当に傲慢で冷酷ならな、ブライアン。ぼくはフラれた瞬間にお前を殴りつけて、すぐにその場から立ち去ったよ! お前の怪我なんて少しも思いやりなんてせずに!」

「何が思いやりだ。だいたいお前は性格が悪すぎるんだ。気まずくなった次の日にも何もなかったようにやってきておれを安心させて、安心しきったところで姿を消して……! より効果的におれを傷つけるつもりだったんだろう? 思惑通りになって満足だったかよ!」

「な、な、な……!」

 怒りと衝撃のあまり頭が真っ白になった。まともに言葉も紡げないまま口の中で奇声を繰り返していたぼくだったけれど、ついにその怒りを爆発させて勢いよくカフェ・レキサンドラの扉を開け放つ。

「なんてことを言うんだよ‼︎ ぼくがどんな思いで、最後までお前のリハビリに付き合ったと思ってるんだ!」

「復讐の機会に胸を躍らせていたか? その時にはもうおれから離れるつもりだったんだろうからな!」

「はああああ?!」

 ぼくはまたしても怒りの咆哮を上げていた。店で談笑していた人、一人静かに飲んでいた人、カウンターで注文していた人、壁の絵や観葉植物に至るまで、店中の全ての人や物が唖然とぼく達を見ていたけれど、そんなことよりもこの分からず屋の大馬鹿野郎に痛烈な一言を叩きつける方が、この瞬間、ぼくにとって遥かに重要で何よりも最優先すべきことだった。

 相手の男を殴りつけたい一心で、ぼくは叫んだ。

「性格が悪いのはお前の方だ、くそったれ! 振られたからって、友達のことを簡単に見捨てる方がどうかしてるだろ。だからぼくは、悲しくて苦しいのを堪えて……」

「そしておれを依存させて、突き放したんだろ」

「なんだと、この根性まがり! 振られてすぐに見捨てた方がよかったっていうのかよ!」

「その方がよっぽど思いやりがあるというものだ!」

「ちょっと、ちょっと、ちょっと、あんた達……注文もせずに人の店で一体何事なの」

 すぐ間近から聞こえてきた呆れ返った声に、ぼく達はいつの間にか自分達がカウンターのすぐそばまで上がり込んでいたことに気がついた。二人揃って勢いよく声の主、レキサンドラを振り返る。

「レキサンドラ、ゴッドファーザーくれ!」

「やめときな。アンタ一気にいくつもりでしょ」

 ブライアンの注文を〇・一秒で受付拒否したオーナーに、今度はぼくが注文を重ねる。

「レキサンドラ、ぼくギムレット!」

「頭のネジぶっ飛ばした男にジンなんて注げるかボケ」

 ドアを乱暴に扱ったことをずいぶんと怒っているらしい。それでもレキサンドラは二つのグラスに、勢いよくオレンジジュースを注いでくれた。ぼく達はそれぞれ近い方のグラスを掴み取ると、睨み合ったまま店の隅へと移動する。当初の予定ではレキサンドラに間に入ってもらって冷静に、ブライアンの話に耳を傾けるはずだったのに。今ではもう、ぼくの頭にはいかにこいつをねじ伏せるかしか残っていなかった。

 かろうじて散り散りになっていた理性をかき集めて、ぼく達は店の一番片隅にあるテーブルを選んだ。オレンジジュースを呷り、二人揃ってそのグラスを置いた。

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