6-3 (あの日の夜の男について②)

 ブライアンにしては珍しいことに、彼はぼくの動揺にすぐには気づかなかった。

 男の様子を節目がちに観察し、ぼくは表情を悟られないようにすぐにその視線を床に落とす。相変わらず暴れ回る心臓の音に邪魔されながらも、必死に頭を回転させた。

 本当にブライアンがあの日の夜の男なのか?

 なぜぼくに嘘をついた……

 でも防犯カメラの映像は別人だった。こいつのことを見間違えたりなんてしない。

 そもそもあの男を調査をしていたのはブライアンだ。あの防犯カメラの映像自体が嘘ではないとどうして言える。

 浮かんでは消えていく言葉の数々に眩暈がした。いかに自分がこの一連の事件について従属的だったかを痛感して唇を噛み締めるぼくに、ブライアンが訝しげな視線を向ける。

 意識して体から力を抜き、ぼくはさらに頭を絞り続けた。

 黒のベースボールキャップの男は実在していたし、ぼくを追っかけてきた。

 でもそれは、ドリンクスパイキングした男がブライアンじゃないという根拠にはならない。

 ブライアンがあの日の夜以外の日に、ぼくの寝室に入った可能性は?

 その疑問は、すぐに「あり得ない」と言うぼく自身の声にかき消された。この家のことだけは、隅々まで把握している。その逃げ道は元々閉ざされていた。焦燥が募る。この場から逃げるための嘘が、のどの上部にまで――いや、舌のすぐ奥まで迫り上がってきた。

『ごめん、ブライアン。何だか急に疲れが出てきたみたいだ』

『さっきまでは大丈夫だと思ってたんだけどなあ』

『今日はもう、そろそろ休もうかな』

 この場を取り繕って逃げ出すための調子のいい言葉と表情を、けれどぼくはすんでのところで飲み下す。

 こいつのせいにして、責任を押し付けて、何もかも投げ出せたら楽だ。けれど今逃げたらぼく達は、また三年前の二の舞になる。

 ――あの病院でだって、ぼくは本当はわかっていたはずなんだ。

 小さく息を吸い、そして深く吐き出した。震えをこらえて、ブライアンの目に真正面からの鋭い一瞥を投げつける。

「――立て」

「何だって?」

「出かける準備をしてくれ、ブライアン。今すぐに」

 ぼくの言葉に戸惑いを見せた男だったが、ぼくが立ち上がりながらデバイスをポケットに突っ込んだのを見て徐々に顔を険しくしていった。

「……まさかお前も外へ出るつもりじゃないだろうな」

「そのつもりだよ」

「お前、今自分がどんな顔色をしているのか分かっているのか?」

 有無を言わせぬ態度を取り繕おうとしたのだろう。けれど男の表情と声は、取り繕いきれずににじみ出した当惑に揺らいでいた。

 男の言葉を受け流して、ぼくは歩きながら外した腕時計をデスクの定位置に置いた。アナログに設定している文字盤はあと数秒のうちに夜の八時五十分を示しそうだ。時計と入れ違いで、ぼくは古風な形状の鍵を手に取ってそのまま玄関へと向かう。

「待て、ルーク。お前正気なのか⁈」

「自信はないな。お前の目にはどう映ってる?」

「おれから見たお前は常にいかれてるよ」

 その声は、ぼくのすぐ背後から聞こえた。はっと振り返ったぼく越しに、男が開きかけていた玄関のドアを力任せに閉ざした。普段はごく丁寧に扱われているドアが、ぼくの真後ろで派手に抗議の声を上げる。

「お前は今すぐにこのドアの鍵を閉めて、シャワーを浴びて、それからベッドに横になるんだ。寝物語が必要なら、おれが掴んだ情報を話して聞かせてもいい」

 ぼくは、自分を睨みつける二対のブルーグレイを見つめ返した。混乱を拭い去れてはいないけれど、それでもここからぼくを逃さないという決意だけはしっかり固めている。決意を押し通すだけの自信もあるようだった。パニックに陥った顔色の悪いぼくが相手ならそうだろうさ。

 彼の変化を見逃さないよう視線を固定したまま、ぼくは口を開いた。自分でも意外なことに、ぼくの声にはどこか穏やかな笑みが混じっていた。

「マティを――あの青いガラスのお守りを、お前はいつ、ぼくの寝室で見かけたんだ?」

 ぼくの質問の意図が、ブライアンは分からなかったようだ。――始めの一瞬だけは。

 男の黒いまつ毛が微かに震え、二回の素早いまばたきが彼の目を覆う。喉の奥で鋭く息を吸う気配。それを皮切りに、自分の犯した間違いに気がついた男の顔色がゆっくりと変化していった。息をうまく吐き出せないまま眼球を忙しなく動かし、言葉を形作ろうとして失敗した残骸を、色の薄い唇から漏らす。そんな微かな動揺の気配から少しずつ色が抜けて、やがて恐ろしいほどの無表情が男の顔を覆い尽くした。

 アイスグレーの目が焦点を失い、そして再びぼくの目でその焦点を結んだ時、男の顔にぼくがこれまでの人生で見たことがない、形容し難い笑みが浮かんで消える。

 なるほど、理解したよ。

 後ろ手でドアノブに手をかけ、閉ざされた扉をもう一度開く。

「……お前の嘘を見抜くのは、どうやらぼくにもできそうだ」

 そのまま振り返って外へ出ようとしたぼくの肩を、ブライアンの手が掴んだ。自分でも制御できない恐怖に、ぼくは思わず体を凍り付かせる。

「おれの話を聞いてほしいというのは、過ぎた願いか?」

「お前の話を聞くために、外に出るんだよ」

 みっともなく声ががたつくのはどうしようもなかった。こわばり切ったぼくの体に気がついたブライアンが、引きつれを起こしたように顔を歪める。腕を掴む手に強い力がこもったが、ぼくが自分の暴れる心音を五回数えた辺りで力が抜ける。

「ルーク、おれは……」

「でも、ここでは何も聞きたくない!」

「それなら」冷静な男の声が、喉に何かが詰まったように途切れた。唾を飲み込み、そのまま掠れた声で続ける。「それなら、おれが、ここを出ればいいだけだ。お前は家にいろ」

 男の提案に、ぼくは自分が落胆するのを抑えることができなかった。この後に及んで、ぼくは一体彼に何を期待していたんだろう。

「この三年間を、また繰り返すのか」

「そんなつもりはない。状況が落ち着いたら、改めてまた話をするつもりだ」

「ぼく達に、また改めて話をする機会があると思っているんだな」

 乾いてひび割れたぼくの皮肉に、それでもブライアンは冷静だった。

「今はお前の身の安全を、何よりも優先するべきだ」

「ぼくは確か、自分の身を守るためにボディガードを雇っていたはずだけど」

「おれではお前を守りきれないかもしれない」

 思わず笑いが漏れた。とんでもなく滑稽じゃないか。それともこいつなりのユーモアのつもりか?

「お前が、ぼくを守るって? 一体誰からだよ」

 攻撃性を剥き出しにしたぼくの答えに、ブライアンの頬がさっと赤らんだ。

「お前は、おれが本気でお前を傷つけると……!」荒げた声を、けれどブライアンは苦しげに抑え込んだ。「いや、お前の身に起こったことを考えれば、それも当然だ」

 自分に言い聞かせるような男の言葉に応えないまま、ぼくはただ自分の二の腕を掴んだ彼の手を強く振り払おうとした。男がそれに気がついて再び手に力を込める。

「お前が、おれを信じられないなら今はそれでもいい。だが家は出るな、自分の身を大事にするんだ」

「うるさいな、どうして自分のことなんて大事にしなくちゃいけないんだよ! もううんざりだ‼︎」

 隣に住むアールシュが家にいたら飛び上がっていそうな大きな声で、ぼくは吐き捨てた。

「ぼくは、お前の話を聞くって決めたんだ、ここではない場所でな。それ以外に選択肢なんてない。そのために自分の身に何かあったって、知るもんか。後悔なんて絶対にしない。お前がそれが嫌だっていうなら、お前がぼくを守ればいいだろ!」

 喚き散らすぼくに、ブライアンがあっけに取られた様子で手の力を緩めた。その一瞬の隙に、ぼくは今度こそ男の手を振り払う。

「次はお前が選べ、ブライアン。お前に残された選択肢は二つだ。ぼくに今度こそ洗いざらい全て話すか、このままおとなしくタリンガにある自分の家に帰って、ここ二週間であったことを、全てなかったことにするか。今、ここで選べよ」

 呆然としたまま、ただぼくを見ていたブライアンの目に葛藤が浮かんだ。けれど、ぼくがどちらにせよ、ブライアンを殴ってでも外に飛び出すつもりなのだということを理解したのか、低く「わかった」と答えてぼくのそばをすり抜ける。ぼくはその答えに小さくため息をつくと、男が扉をくぐるのを待って鍵をかけた。

 本当はエレベーターにだって別々に乗りたい気分だったけれど、さすがにそれは言い出せずに、ぼく達は二人で狭い箱に乗り込む。グランドフロアのボタンをぼくの指先を、ブライアンがちらりと横目で見た。

「行き先は?」

「レキサンドラのとこ」

「おれの車――」

「いやだ」

 そう切り捨てるぼくにブライアンさらに顔をこわばらせた。そんなブライアンの様子と張り詰めきったエレベーター内の空気に、ぼくのほとんど凍りついてしまった胸が少しだけ罪悪感に疼いた。

 どんな時でも相手を信じて心を開くべきだろうか、それが自分の親友や恋人ならばなおさら? でもぼくだってどうしようもないんだ。こうして強がって、強い言葉で武装して、自分を奮い立たせ続けなければ怖くて頭がどうにかなりそうだった。

 ブライアン、お前がぼくを連れて帰ったというのなら、お前は今まで一体なんの調査をしていたんだ。

 あの防犯カメラの男は一体誰だっていうんだよ。

 刃物を持ってぼくを追っかけてきた黒のベースボールキャップ男は? ――まさか、あの男もお前の関係者なのか。

 違う、ぼくはそんなことが聞きたいんじゃない。

 ぼくが今、こいつの胸ぐらを掴んで、揺さぶってでも聞き出したいことは一つだけだ。

 ひどくのろのろと進むエレベーターがようやくグランドフロアに到着し、ぼくとブライアンを大急ぎで吐き出した。メーガンとめずらしくこの時間に受付にいるワイアットを視界の隅に映しながらエントランスを通り過ぎ、エレベーター内から手配したシルバーのホンダの到着を待った。不幸な運命が確定したホンダは、ぼく達がアパルトメントの自動ドアを出て二分ほどで迎えにやってきた。

「……どうせこれだって、お前自身のためじゃないんだろう」

 それまで黙ってぼくに従っていたブライアンが、ぼくの背後でぼそりとつぶやく。車に乗り込みながら、ぼくは思わず顔を顰めて男を振り返った。彼は、暗くて静かな湖面のような視線を車に落としていた。

「お前のこういうところを、三年前からおれは、全て破壊しつくしたくなるほど愛してるよ」

「ようやく本音が出てきたな」

 愛を語りながらむしろ憎しみが溢れた男の言葉に、ぼくは顔をひきつらせた。

「乗れよ。別にお前のためじゃない。とっとと話を終わらせたいだけだ」

「わかっている。おれの脚を労ってくれてありがとう」

 ブライアンの声も徐々に刺々しくささくれ立っていく。ぼく達の間に流れる張り詰めた空気と自分の運命にまだ気がついていないお気楽な青年ドライバーが、笑顔で「ルーカス?」とぼくを振り返った。

「行き先は、ええと、カフェ・レキサンドラだね」

「うん、よろしくね」

「おれが捕まったのはラッキーだったよ。今は道路のあちらこちらで……」

 青年の感じのいいおしゃべりを、低く容赦ない声でブライアンが叩き潰した。

「それで、おれと二人きりではない場所という条件は満たしたが、話は聞いてくれるんだろうな」

 青年が目を見開いて、勢いよくブライアンを振り返った。自分が乗せてしまったのがやばいやつなのか見極めようとする青年をほったらかしにして、ぼくは顔を歪める。

「せっかちなやつ」

「何から聞きたい」

 ぼくの言葉を無視してブライアンが重ねる。こいつ、完全に開き直っていないか?

 偉そうな男の物言いにぼくはむっつり口を曲げ、運転席の青年は自らの運命を嘆くように天を仰いだ。

 そのまま彼の言葉を聞き流してしまおうかと思ったけれど、どうしても我慢できずに、ぼくは言葉を絞り出した。

「……店に着くまでに、一つだけ確認させてくれ。本当にお前なのか? ブライアン――あの日、アランが死んでしまった日の夜に、酔い潰れたぼくを家に連れて帰ったのは?」

 ほとんど百パーセントの確信を持っているのに、ぼくの中には切実な祈りがあった。ただの勘違いだと、マティのことを知っていたのもさっき垣間見えた表情にも、何か別の意味があるのだと、ブライアン本人に笑い飛ばしてほしかった。

「そうだよ」

 ぼくの祈りも虚しく、ブライアンはただ淡々とぼくの言葉を肯定する。

「あの日、あのダイニングバーから、眠りこけていたお前を引き摺り出して家まで送り届けたはおれだ」

「――どうして!」

 さまざまな意味をはらんだぼくの「なぜ」に、ブライアンが静かに答える。

「お前を、今度こそおれのそばから逃さないためだ」

 情熱と狂気の狭間を揺らめく男の言葉に、ぼくと、運転席の青年はただ鋭く息を呑んだ。

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