6-2 (ドリーム・ア・ドリーム)

 もちろん、仕掛けたのはぼく自身だ。戸惑いなんて一瞬ですりつぶし、ぼくはすぐに両腕を男の肩に伸ばして彼のキスに応える。ぼくの動きに合わせて彼の右手が、ぼくの体をたどり降りていく。薄く筋肉のついた背中をさぐり、やや細めの腰のラインを確かめ、そしてその下へと手をすすめる。下腹部に重い熱が巡る。かろうじて残っていた理性でそっと腰を引くと、それに気がついた男がぼくの臀部を鷲掴みにして引き寄せ、自分のものを強く押し付けた。なけなしの理性をあっさりと覆い隠し、鈍い情欲が頭をもたげる。エサを求める魚のように浅い呼吸を貪っていたぼくにもう一度キスを落とし、ブライアンがぼくの耳に唇を押し付けた。

「……お前からキスをしてくれたな」

「なんだって?」

 酸欠と陶酔ですぐに意味を理解できないぼくに、男が続ける。

「こういうことをしようと思えるくらい、お前にも、少しはおれに対して幼なじみ以上の好意があるんだな?」

 思わず首を捻って男を見た。ぼくがこいつに気があるかなんて、そんな当たり前のことをなんで今さら確認したがるんだろう。

 爪先立ちしていた足を地面に下ろし、ぼくは両手でブライアンの頬を包んだ。目を背けていた男が、ぼくの手に誘われるように、ためらいがちにぼくを見た。

「そんなの、当たり前だろ……」

 ぼくの言葉が本物だと理解したのだろう。男の両目が優しい形に歪む。熱い吐息をついてブライアンが再びぼくを両腕に抱き込み、ぼくもまた良心の呵責を振り切るように彼の背中に手を回した。

 男がぼくの首に口をつけ、深く満足げに息を吐いた。

「……嬉しいよ。お前も、おれを欲しいと思ってくれているとは」

 ぼくは男の胸の中でとびっきりの笑顔を作った。背中に回した両手に力を込め、だめ押しとばかりに力強く頷く。

「もちろんさ」

 その瞬間、ブライアンの両腕がぴくりとこわばった。ぼくの額に、なぜかじわりと汗がにじむ。

 しなやかな胸筋越しに、彼の心音に大人しく――そして冷や汗を流しながら――耳を傾けるぼくを、男の両腕がさらに強く抱きしめた。

 そして、そのままぎりぎりとぼくの背骨を締め上げ始める。

 きっと感激しているんだよな、と自分に言い聞かせつつ十秒耐えた後で、ぼくはついにたまりかねて声を上げた。

「痛い痛い痛いよ、ミスター・インクレディブル! お前の愛はちょっおと時々ぼくには激しすぎるかもなんだけど!」

「この程度の愛で降参か?」

「いやいやそんな。……でも、せめて、直前の雰囲気が損なわれない程度の強さでお願いしたいっていうか」

「なあ、おれはお前に散々言ってきたよな」

「『お前は世界で一番魅力的だ』って?」

「おれにくだらない嘘をつくんじゃないってな!」

 男の腕の中で身じろぎしていたぼくは、その言葉にふと以前から思っていた疑問を口にした。

「そういやお前、なんでぼくの嘘分かるんだ? お前とばーちゃんくらいなんだけど、ぼくの嘘を見破ってくるの」

 ブライアンの腕にさらに力がこもった。ぎゃっと悲鳴を上げたぼくから手を放し、ブライアンがよろめくようにキッチン台に手をつく。前髪をくしゃりと片手で乱し、うらめしげな目でぼくを睨みつけた。

「お前……おれをからかうのもいい加減にしろ……」

「なんだって? ぼくがふざけてこんなことしているとでも⁈」

「うるさい、こういうことで嘘つかれると傷つくんだよ、くそったれ!」

「嘘なんて言ってない……!」むっと言い返して、ぼくは言い訳をするようにぼそぼそと続けた。「……まあ、百パーセント純粋な気持ちかって言われたら、ちょっと自信がないけど」

 ブライアンが深々とため息をついた。キッチン台に腰を持たせかけ、がりがりと二の腕をかきむしる。遠ざかってしまった体温、寒々しく思える七月のブリズベンの気温に途方に暮れたまま、ぼくはぼんやりとそんな男の様子を見つめていた。

 肩で呼吸しながら、ブライアンが続ける。

「それで、おれにこんなことを仕掛けた、不純な方の理由っていうのは、一体何なんだ……」

「別に、ちょっとお前に触ってみたいなって思ったんだよ」

 男がやや血走った目でぼくをじっと見つめた。ぼくがもう一度ちょっかいをかけたら、今度こそブライアンはぼくを暴く手を止めたりなんてしないだろう。

 少しの欺瞞も許そうとしない男のおなじみの眼差しに気圧されて、ぼくはつい視線を外して言葉を吐き出した。

「もう何も考えたくない」

「……お前がそう思うのは当然だ。ルーク、お前は見ず知らずの相手に悪意を持って追っかけ回されたんだぞ」

 ぼくは落としていた視線をさらに背けた。理性的で思いやりに溢れる言葉だ。けれど、優しく紡がれたその言葉の端々に、隠しきれない悩ましげな響きが見え隠れしている。そのもどかしそうに強ばる筋肉の動きで、吐息で、男はぼくが欲しいのだと訴えていた。この抗いがたい波を押しとどめるのがどれほど厄介か、ぼくだって理解しているつもりだ。だからこそ不思議だった。

「どうして我慢なんてするんだ? 何も考えずにぼくと寝た方が、お互いとって簡単じゃないか」

「……安易で即物的な方法が、二人にとってのベストとは限らない」

 難しい顔をしたブライアンが、身を守るようにその長い腕を腕を組んだ。

「いいか、おれは別に優しい男ではないからな。お前のことはそのうち、根こそぎ全て手に入れるつもりだというだけだ」

 その言葉は、こいつになら寝室を見せられるかもしれない、とふと思ってしまうくらいぼくの胸を打つ素敵なものだった。けれどどうしてだか、ぼくがほとんど無意識のうちに口にしていたのは、感激とは真逆の言葉だった。

「なあ、もしかしてお前、今何か嘘をついてる?」

 ブライアンが腕を組んだまま、その視線で床の一部を凝視した。地下を這いずり回るようなざらついた声で、穏やかに答える。

「今言った言葉に嘘などひとつもないさ、いつもの状態ならな。おれの今の本音が聞きたいか? 今すぐお前とやりたいよ。好きなだけお前に触れて、おれの手でお前を喘がせて、思う存分おれをお前に刻みつけたい。なあ、ルーク。おれはずっと、お前のことが欲しいんだよ」

 キッチンの心許ない暖色の灯りが、ブライアンを真上から照らしていた。その灯りが床を見つめる男の表情に少し影を落としている。こんな時なのに彼に見とれてしまう自分のことが、ぼくはほんの少し嫌になった。アランのことも黒のベースボールキャップの男のこともひとまず脇に置いて、ブライアンがくれるぼくへの慈愛だけをただ貪っていられたらいいのに。

 でもブライアンは、ぼく達にとっての正しい方を選ぼうとしているんだな。

 だったらアランのことも自分のことも、ぼくは自分で解決しなきゃいけない。そんな当たり前のことに気づかされて、ぼくは諦めと憔悴のため息をついた。

「……わかった。お前の言う通りにする」

 ブライアンが顔をあげた。腕はきつく組まれたままだったけれど、それでも表情には緩やかさが戻りつつあって、現金なぼくは少しだけ残念な気持ちになる。

「お前の言う通り、まずはちゃんと休息をとることにするよ」

「ああ、そうしろ」

「お前のことを利用しようとしたのは、本当にごめん」

 気にするなというように首を横に振る男に向かって、ぼくは続ける。

「あのさ、ブライアン。今はまだ、お前のそばにいるだけでぼくは結構満足しちゃってるんだ。でも、いつかそれでは足りなくなったらさ、その時は――」

「分かった、分かったから」

 ブライアンが顔を引き攣らせてぼくの言葉を遮った。

「とりあえずお前は、シャワーでも浴びてこい。今すぐに」

 まあそれが今の最善だろうな、と今度こそブライアンの言葉に従って、ぼくはキッチンを後にした。

 そして洗面所とベッドルームの間にある壁に埋め込まれた引き出しから、へたれて手触りの荒いタオルを一枚取り出して、そのざらざらとした感触を何度か手のひらで往復する。

 ほうきを失っても大切なものは何も失われなかった、とアランには言ったけれどひとつだけ、あの時ぼくの中から失われたものがあった。それは、未来に夢を見ることだ。それがぼくの人生に影を落としたとは少しも思っていない。そのおかげで、ぼくはその時その時のベストを尽くすことを覚えたし、こうして自分の想像を遥かに超えたところまでやってこれたのだから。

 それなのに今になってブライアンは、ぼくに自分との未来を考えろという。無責任にただ楽しめて、そして後からしっかり楽しんだ分の対価を取り立てていく甘美な希望、もしくは欲望。

 ついさっきまでぼくのものだったブライアンの体温と、そして自分自身で向き合っていかなきゃいけないたくさんの宿題を思い出し、ぼくは思わず苦いため息をついた。

「……夢を見るってちっとも優しくない」

 ぼくの悪態をかき消すように、その時ブライアンの低い悲鳴が事務所から飛び込んできた。

「ブライアン⁈」

 ぼくの呼びかけに、ぼくの名前らしきくぐもったうめきが答える。ぼくは使い込まれたタオルを放り出して、慌てて事務所にとって返した。

 ソファのそばに立ち尽くしていた元刑事がぼくを振り返り、先ほどの甘い雰囲気を完全に吹き飛ばした憤怒の表情でテーブルを指差した。

「おま、お前、お前というやつは……!」

「え、なになになに」

「一体なんなんだ、この手紙は! こんなものを受け取っておきながら一人で外出したって言うのか⁈」

 それが例の手紙のことだとすぐに気がついて、ぼくは「ああ」と顔を緩める。

「誤解だよ、ブライアン。そいつを受け取ったのはちょっと前のことで」

 ブライアンが愕然とした表情で口をぱくぱくさせた。見ていて感心するほど、ものの見事に言葉を失っている。さすがのぼくもちょっと気まずさを感じながら、右手で後頭部をくしゃくしゃかき混ぜた。

「えっと、そういえばぼく、まだその手紙のことをお前に言ってなかったっけ。ちょっと存在を忘れててさ」

「一体何を、どうしたら、こんなものの存在を忘れられるんだ‼︎」

「だって怖かったんだよ、仕方ないだろ!」

「それが言い訳になると本気で思っているんじゃないだろうな」

「……ごめんってば」

 我ながらそれほど誠意の感じられないぼくの謝罪に、ブライアンは諦めたように鼻を鳴らしてキッチンへと戻っていった。そしてすぐになみなみとお茶の入ったカップを二つ持ってきて、テーブルの空いたスペースに乗せる。意外にもその動きは優しくて、やっぱりこいつは育ちがいいんだよなあと妙に感心した。

「座れ。とりあえず今すぐ、おれに事情を説明しろ」

「さっきはもう休めって言ったくせに」

 ぶつぶつ言いつつ、ぼくは大人しくソファのそばに置いてある椅子に腰掛けた。まあ、この怒りも心配の裏返しってことくらい、ぼくにだってわかるさ。

 ぼくは、こいつこそが凶悪犯なんじゃないかって人相でぼくの言葉に耳を傾けるブライアンに、一週間くらい前にメーガンに促されてこの手紙を見つけたこと、怖くなって封印していたけれど、手紙を見たいというクロエの希望を叶えるために今朝取り出したことをかいつまんで説明する。

 話を聞き終わったブライアンが、エンジェル・フォール並みの深いため息をついた。一日にこれだけ何度もため息ばかりついていれば健康にも恵まれそうだ。

 肺中の空気を吐き切った礼儀正しいクマが、投げやりな声で言った。

「……当然この話は刑事にはしていないんだろうな」

「そりゃあもちろん」

 ブライアンがまたしても深いため息をつく。血中酸素濃度測らせて、とお願いしたい衝動に何とか耐えて、ぼくは男の信頼を回復するべく言い訳をした。

「手紙を受け取ってすぐ、ぼくはお前に連絡をしようとしてたんだよ。デスクまでデバイスを取りに戻ったし。ただ、その時にうっかり別のことに気を取られちゃっただけなんだ」

「別のことっていうのは?」

「それはまじで覚えてない。一週間くらい前のことだし」

 ぼくの言葉にひとつ頷いて、ブライアンがテーブルの上に視線を戻した。ぼくの言い訳が効いたのか、探偵に相応しい冷静な視線を取り戻している。

「この手紙を見たがったのは?」

「大学生の一人。唯一の女性で、手紙にあるロゴがクイーンズランド大学のものだとか、手紙の書き出しは冷静だったとか、筆跡を変えようとしてるとか、そんなことを推理していったよ」

 大学生と聞いて小言を言いたそうにしていたブライアンが、その推理を聞いて「ほう」と感嘆の相槌を漏らす。

「なかなか将来有望だ。警察でも探偵事務所でも重宝されそうだ」

「将来有望な物理学者のたまごだからその未来は来ないと思う。お前と一緒で目立つ子だから、探偵には向いてないと思うし」

「……仕事の時には地味に立ち振る舞っているんだよ」そう言って嫌そうに顔をしかめ、ブライアンは喉の奥で咳払いする。「それで、この青いガラス玉も一緒に、封筒に入れられていたのか?」

「いや、それはばーちゃんからもらったお守りなんだ。この手紙を封印するのに使――まあつまり、ぼくの持ち物ってこと」

「ああ、だから見覚えがあったのか」

 マティに見覚えがあった? そいつは意外だ。ぼくはばーちゃんに出会うまでこんなお守りの存在は知らなかったし、たとえ誰かの家で見かけていたとしても気がつかなかっただろう。

「ぼくは人目につくところにおいた覚えはないから、南ヨーロッパに旅行にでもいった時に見たんじゃないか? 世界中を旅して回ったんだろ」

「まあそうかもな」

 腑に落ちなさそうにそう言って、ブライアンが――手に取ってもいいものだと判断したのだろう、マティを摘み見上げてまじまじと眺めた。

「それか、ばーちゃんの家で見かけたかだな。お前、ばーちゃんの家に来たことあったっけ?」

「アメリアの家に行ったことはあるが、こいつを見かけた覚えはないな」

 そう言って少し考え込んでいたブライアンが、ふと顔を上げて小さく頷いた。

「ああ思い出した、お前こいつをベッドにくくりつけていなかったか?」

 男の言葉に、ぼくの頭が少しの間一時停止する。その脳裏に、ベッドのヘッドボードに無理やり飾っていた青い目玉の飾りがはっきりと映し出された。

 表の事務所とは正反対の伝統色の強い寝室、場違いな地中海のお守り。離れていても見守ってもらえるように、そしていつでも初心に帰れるように。手紙を受け取ったあの日、確かにぼくは恐怖のままにベッドルームからあの青いガラスを掴み出した。

 あの時のことを思い出した瞬間、全身が一気に粟立った。

 同時に、口の中が一瞬にして干上がる。

「ベッドにくくりつけていなかったか?」――こいつは今、そう言ったのか?

 息を呑みたくなる衝動を必死に堪えて、ぼくは慎重に細く息を吐いた。心臓が痛みを伴うほどの早鐘を打ち、一方で体感温度は急速に下がっていく。体の芯から自分の中のあらゆるエネルギーが一気に流れ落ちた。

「ルーク?」

 戸惑ったようにぼくに呼びかける聴き慣れたはずの声が、全く見ず知らずの人間のもののようにぼくの耳に響いた。体が震えないよう必死に両手を組み、目を伏せる。からからの口を何とか開いて、ただ「くくりつけてたよ」と告げた。

 ああ、確かにぼくはお守りをベッドにくくりつけていたよ、ブライアン。

 けれどそれは、ぼくが実家からもばーちゃんの家からも離れて、一人で暮らし始めてからの話だ。ばーちゃんの家を離れてからは、かつての恋人にだって、寝室への立ち寄りを遠慮してもらったんだよ。

 ――揺れる視界の中で規則正しく地面を蹴る、磨かれた焦茶色の革靴が再び脳裏に蘇る。ぼくが何か泣き言を言うたびに答えてくれた声が、今、はっきりとブライアンの声で再生された。

 なあ親友、お前はぼくが落とし穴に落ちた日に初めてぼくの事務所に入ったんだよな。

 それなら一体どうして、ぼくがマティをベッドにくくりつけていたなんてことを知っているんだ?

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