6−5(光と陰)

「よう相棒、そういえば思い出したぜ。お前ってば昔っから根性がねじ曲がってたよな」

「お前の性格の悪さだって昔からだ」

 ブライアンの言葉に余裕ぶった笑みを浮かべ――ようとしたぼくの表情筋が地滑りを起こした。かろうじて口角が上がっているだけの笑顔を引きつらせる。

「ぼくのどこが性格が悪いっていうんだよ。クソガキだったことは認めるけど、性格が悪いだなんて言われるような覚えはないぞ」

「こちらのセリフだ。近所でも評判の優等生を捕まえて、根性がねじ曲がっているとはどういうつもりだ」

「お前は昔から根性がねじ曲がったくそ優等生だったよ」

 ぼくはいらいらと意味もなくグラスの位置を移動させながら言った。グラスの側面には、うっすらと細かな水滴が浮かび始めていた。それも当然か。今夜もまたカフェ・レキサンドラは盛況だった。それにしては店内がいやに静かだけれど。

 眉を上げて目を細めるブライアンに、ぼくは続けた。

「昔からぼくにいじわるばかりして、それなのに周りのみんなは味方につけて。お前は都合よく忘れているかもしれないけど!」

「いじわるだと? おれがお前に?」戸惑いと嘲りが九:一でブレンドされた、絶妙に神経を逆撫でする怪訝な表情で男が顎を引く「おれが完璧な幼なじみすぎて、何ひとつ非難するネタが思い当たらないからといって捏造か」

「さっきからそのお前の自信はどこから来るんだよ! カルタゴを占拠した直後のスキピオだってもう少し自省の心というものを持ち合わせてるぞ!」

 ブライアンが鼻を鳴らしてオレンジジュースを手に取った。余裕ぶった顔をしているけれど、眉間には深くシワが刻まれ、頬骨は今にもひきつけを起こしそうなほどにこわばっていた。

 結露が張り付いた部分の、三分の二ほどに中身が減ったグラスがテーブルに置かれる。ところどころ染みがついた濃い木のテーブルには、新たに二重の水の輪が描かれていた。優しげでエレガントな店の雰囲気に、このいかにも無骨なテーブル板やそれを支える黒塗りの鉄製の脚は不思議とうまく調和していた。レキサンドラの選んだコーディネーターはうまくやった。やはりあの時、レキサンドラの依頼は断って正解だった。

 ほとんど忘れかけていたひと昔前の挫折を、ぼくは強く振り払う。

「中学の時、ぼくが友達と話しているのを見かけるたびに割って入ってきて」

「だから何だと言うんだ」

「ぼくにその友人を紹介しろって絡んで」

「友人を友人に紹介することに問題があるとは思えんな」

「しかもぼくのいないところでもことあるごとに絡んでたんだって? 大抵のやつは怯えてぼくを避けるようになるかお前に心酔するかでぼくから離れていくから、タフな心臓の持ち主しかぼくの周りに残らなかったんだ!」

「つまり、おれのおかげでお前は真の友人を手に入れたと。どういたしまして」

「何でだよ!」

 眉間にシワを寄せたまま平然と顎を上げる男に、ぼくはいらいらと叫んだ。勢いに任せて長年胸に秘めていた疑念を吐き出す。

「それだけじゃない。高校の時、ミスターブラウンにわざとぼくがゲイだとバラした!」

 ブライアンの眉間のシワが薄くなった。落ち着き払った仕草で再びグラスを手に取る。

「自意識過剰だ。おれはただあの人に、お前が好きな俳優について話をしただけだ。そもそもあの人は、お前の性的指向になんてとっくに気がついていたしな」

 どこまでも平然とした声にぼくの頬が思い切り引きつった。流れる川のように、もしくは壁を這う本棚ブックワームのように滑らかな答えに、ぼくの中でわだかまっていた疑念が確信に変わる。

「そういうところが根性が捻じ曲がっているって言ってるんだよ。『ゲイだとばらした』って言葉だけで何の話かわかる時点で、どう言い訳しようがお前にはぼくを傷つける意図があったんじゃないか」

「ひどい言いがかりだ。お前を傷つける意図なんてこれっぽっちもなかったさ」

「そうやって言い訳できるぎりぎりの範囲でぼくにいじわるをするお前のやり口が、ぼくは昔っから大嫌いだ!」

 ブライアンの顔色が一瞬にして変わった。男の中にかろうじて残っていた余裕のかけらが、ぼくの一言で全て燃え尽きたのがわかった。

「おれに言わせれば、自分でしていることを自覚しているだけで上等だ。意図的でなければ人を傷つけても許されるのか? お前はいつも無自覚に人を傷つけては、その振る舞いで何度も許されてきている。でもな、許されたからと言ってお前がつけた傷が周りの人間から消えるわけではないんだよ!」

 思わぬ幼なじみの反撃に、ぼくは喉の奥で唸り声を上げた。初対面で不躾なことを言って傷つけたマリアの顔が――いや、ぼくが今までついうっかり怒らせてきた人たちの顔が脳裏によぎる。ジェーンがぼくのことを「紹介する相手を選ぶ」とぼやく原因が自分にあることくらい、ぼくだってよく理解していた。

 言葉に詰まるぼくに、勢いに乗ったブライアンが続ける。

「初対面の相手に、感じたままの無神経な言葉を垂れ流して」

「最近は気をつけてるさ」

「相手が戸惑うほどずかずかとパーソナルスペースに踏み込んできたと思ったら、突然パタリと連絡を閉ざして」

「若かったんだよ、今はそんなことしてない」

「そうして相手の心をかき乱して、周りの人間を一人残らず誑かすんだ!」

「いや、だから、独立してからはぼくもずいぶんと――」

 言いかけたぼくは、やつがとんでもない結論に着地したことに気がついて飛び上がった。

「誑かす?! いや待って、どうしてそうなるんだよ!」

 愕然とするぼくの言葉を無視して、ブライアンが続ける。

「そもそもお前は人との距離が近すぎる! お前の友人達とも、ミスター・ブラウンとも、さっきのタクシーの運転手とだってそうだ!」

「タクシーの運転手だって?!」さらに訳がわからないブライアンの主張に声を跳ね上げたぼくは、すぐに首を横に振って続けた。「あんなのはただお互いが気分良く過ごすための処世術だよ。お前の態度のほうが、社会的には問題だよ。ぼくじゃなくてね」

「お前のいう、その処世術とやらは大したものさ」

 ぼくの言葉を、ブライアンが冷ややかに受け流す。

「心の奥底に仕舞い込んでいた気持ちに気づいてくれる、喉から手が出るほど欲しかった言葉をくれる。距離が近すぎると思えば椅子を引き、孤独に吐きそうな時にはただそばにいてくれる――それも測ったように心地よい距離でな」

 思わず顔をしかめた。そんなことできるもんかと勢いで言ってしまえたらよかったのに。

 足元が揺らいでしまいそうな感覚に、ぼくは眉間に強く力を込める。

「いいか、ブライアン。確かにぼくは自分でも戸惑うくらい才能に恵まれた天才デザイナーだ。その才能がぼくの魅力を底上げしてる可能性だってあるけどさ」

 ブライアンからの過大評価に引きづられ、知りたくなかったまさかの本音が自分の口から溢れた。

「それでも、ただここに存在するだけで片っ端から周りの人間を夢中にさせるなんてことができるもんか! そんなことできるのはお前か、映画の中のアラン・ドロンくらいだよ!」

「それならなぜお前はとっととおれのものにならない。だいたい、小学生の時には強くて頭がいい男が好きだと言っていたくせに、ミスター・ブラウンと仲良くなってから急に優しい男が好きだと言い出して」

 一体何のことかと考え込んだけれど、すぐにぼくは自分が高校時代、好みのタイプを「優しい人」だとか「思いやりのある人」だとか、とにかくそんなふうに答えたことを思い出した。

 当時のぼくにとっての「優しい」の代名詞が誰なのかを急に思い出し、ぼくは思わず顔を赤らめた。

「――ぼくの好みがちょっと変わったからって、何だって言うんだよ」

「そうやってすぐにお前がころころと意見を変えるから、周りが振り回されるんだ!」

「ころころ意見を変えるのはお前の方だろ!」

 憤慨と動揺に、ぼくはわざとらしいくらいに思い切り声を荒げた。

「忘れたとは言わせないぞ。裏庭でスターウォーズごっこをしていた時、じゃんけんに勝ったらオビ=ワン役だって言ったのお前のくせに、負けたらやっぱり負けた方がオビ=ワン役だってわがまま言ったじゃないか!」

 長きに渡りぼくが密かに根に持っていた渾身の恨み言に、ブライアン青灰色の目が鮮やかに燃え上がる。信じられないとでも言いたげに目を見開き、男が「ふざけるな!」と吐き捨てた。

「一体お前は何を言っているんだ。そもそもお前の方じゃないか、ことの発端は! 負けたらダース・ベイダー役だって約束していたのに、結局やらなかっただろう。おれは、ただお前のやり方に従っただけだ!」

 ブライアンの哀れな考え違いを、ぼくは自分が作れる一番嫌みったらしい表情で踏みつけにする。

「違うね、オビ=ワンの話の方が先だったよ」

「ダース・ベイダーだった!」

「この頑固やろう!」

「こちらのセリフだ!」

 ついにぼく達は、派手に椅子を鳴らしながら立ち上がった。細い金属製の脚が、耳障りな甲高い音を立ててコンクリートの床を滑る。お互いの手が、最短距離を通って相手の胸ぐらに伸びた。

 けれどその手が相手に届く直前に、ぼく達の体はものすごい力であっという間に引き離される。

「どうどう、落ち着けルーク」

「何するんだ、放せよ、あいつに一発わからせてやる……!」

 じたばたもがくぼくの向かいで、ブライアンの方もまた――いや、ブライアンの方は屈強な三体もの肉の壁にがんじがらめにされていた。完全にVIP扱いだ。ぼくとブライアンの力の差を見せつけられているようで、なんだか無性に悔しい。

 ブライアンを威嚇しながらぎりぎり歯噛みしていると、耳慣れた野太い声が、思いのほかすぐそばから降ってくる。

「……信じられる? この子達、これでシラフなのよ」

「レキサンドラ!」

「すぐに動いてくれて助かったわ。店の備品を壊そうものなら地獄を見せてやるところだった」

 その言葉に少し冷静になったぼくの背後で、ぼくを羽交締めにした男がレキサンドラの言葉に答えた。

「おれはいいけど、あちらさんに割り振られたやつらは哀れだね。三人がかりでも悲惨だ」

 気だるげでオーストラリア訛りの強いアクセントに、ぼくはようやく自分を押さえつけている男が誰なのかに気がついた。

「お前、まさかレオ? こんなところで何やってんの」

「酒を飲んでる。お前さんこそ何やってんの。あれが例のブライアンだろ? 寝言で呼ぶほど焦がれた相手と、なーんで喧嘩なんてしているんだよ。しかも控えめに表現しても、ごくごく最底辺レベルのさぁ」

 言われてみれば、何でこんな喧嘩をしてるんだっけ。聞くべきもっと大事なことが山ほどあったはずなんだけど。

 思わず考え込んでいると、三人もの男を相手にもがいていたブライアンがぼく達の様子に気がついて声を張り上げた。

「ルークに触るな、クソ野郎!」

「いやあ、レキサンドラ。ありゃやっこさん、もうすでに何杯かひっかけてるよ。シラフってことはねえわ」

 野生の本能をむき出しにしたクマに、背後の男が呆れてため息をつき――そしてぼくの方は怒りを再燃させた。

「ほら見ろ! そうやってお前はすぐぼくの保護者ぶってぼくの友人関係に口出すんだ。この偏屈男!」

「こっちもか……」

 レオのぼやきを無視して、ぼくは足をばたつかせた。

「だいたい、さっきからおかしいんだよ。なんで人との距離について、ぼくばっかりお前に責められてるんだ? いつもベタベタ人にひっつかれているのはお前のくせに!」

「おれの一体どこが……」

「学生時代、いったい何人とデートしていたか言ってみろ」

「誤解だ、ルーク。色々と噂になっていたようだが、おれはただ――」

「しかも今だって三人の男に押し倒されてるし!」

「これは不可抗力だ!」憤然と言い返し、男が続ける。「そもそも、おれはお前ほど人のために一生懸命になりはしない。お前は違うだろう。いつも人のことばかり考えて隙だらけだ」

「いいか、お人好しと評判のブライアン。お前にとってぼくは、いつまでも間抜けな子供に見えるのかもしれないけれどな。ぼくはお前と同じ歳の、成人した、自分のことは自分で決められる、一人前の人間なんだよ」

「そんなことは分かっている。お前は才能溢れる自立した魅力的な男だ」

「そのとおり」

 ぼくの自信満々の相づちに、ブライアンの表情が陰鬱な色に翳った。

「――でもおれは、たとえお前が才能に溢れてなんていなくても、お前が好きだ」

「うるさい、今そんな話はしてない!」

 反射的に言い返したぼくを、ブライアンがその青灰色の目で突き刺した。その真剣な眼差しに、徐々に、自分の顔がこわばっていくのがわかった。

 店の中の人々――二十代から六十代の幅広い年齢層だ――が、ぼく達を見守っていた。より正確に表現するならば、彼らは男の言葉に対するぼくの反応を固唾を飲んで待ち構えていた。誰一人としてもの音ひとつ立てなかったのに、どうしてだか彼らの押し殺した息遣いがぼくには感じられるようだった。空気がどんどんと重くなり、耐え難い重量でぼくにのしかかる。

 その空気に抗うのに、ぼくはありったけの勇気を振り絞らなければならなかった。周りのお望み通りに、「ぼくも好きだ」と言ってしまえたらどれほど楽なことだろう。

「……違うよ。お前だって本当はわかってるんだろ。ぼく達の間にあるのはただの執着と支配欲だ」

 ぼくの言葉に、ブライアンが顔を歪めた。

「執着だと? もう少しましな嘘をついたらどうだ」

「嘘なもんか。お前がぼくのことでむちゃばかりするのだって、結局は愛とは真逆の感情なんだろう」

「――嘘でないならどうしてお前は、メッセージをいつも返しそびれたり、いつも黙って姿を消したり、休みの日をおれ以外のやつとの予定で埋め尽くしたりできるんだ?」

 男の言葉を理解するのに、たっぷり三秒ほどの時間が必要だった。衝撃から立ち直るのにさらに二秒、ようやく開きっぱなしだった口から声を出せたのはそのさらに三秒後だった。

「そういう話をしてるんじゃないってば‼︎」

 拘束されたままの両腕を持ち上げて、ぼくは頭をかきむしった。誰よりも、おそらくは両親よりも通じ合えると思っていた幼なじみと、これほどコミュニケーションが行き違うなんて信じられなかった。たとえ何を考えているかわからなくたって、きちんと話さえすれば、こいつとは理解はし合えるのだとどこかで思っていた。これほどまでにブライアンとの意思疎通が成り立たないのは八歳の時の大げんか以来だ。あの時は川へと続く道が向かって右か左かで揉めに揉め、ぼくはブライアンの間抜けぶりと理解力のなさに頭をかきむしったものだった。

 ……まあ、蓋を開けてみればお互いが向いている方向が逆だったというだけの話で、どちらも間違ってはいなかったんだけど。

 噛み合わない会話に頭を抱えたまま、ぼくは続ける。

「執着と支配は愛と似てるけど違うって話をしてるんだよ!」

「分かってるさ、同情と愛だって別物だしな。お前のおれへの思いなんて紙切れ程度の軽さだと言う話だろう。尻尾を切られたトカゲを『かわいそう』だと思う程度の同情で、よくもおれに振られて傷ついただなんて言えたものだ」

「ふざけるな‼︎」

 度し難い幼なじみの言葉に、ぼくの全身が一瞬で煮え返る。

「どれだけぼくが、お前への気持ちで苦しんできたと思ってるんだよ! 同情だって? 何も、何も知らないくせに……!」

「簡単におれの前から姿を消してしまえるくせにか。お前のおれへの感情なんて、不要な紙切よりもどうでもいいものなんだろう。おればかりがお前を好きなんだ!」

「そんなわけあるか、くそったれのばかブライアン! 十二年だぞ、ぼくがお前に恋をしてから。お前の、アヒルの雛の洗脳程度の執着と支配欲より、ぼくのお前への思いの方がずっと純粋で、ずっとずっとはるかに苦しいんだからな!」

「ばかはお前の方だ、このくそ間抜け野郎! お前の思いの方がおれよりも苦しいだなんて、よくそんな世迷いごとを口にできたものだ。一体どうやったら、お前は状況を正しく測れるようになるんだ⁈」

「お前が信じられないよ、ブライアン。お前こそ何でこんな簡単なことが理解できないんだよ? ぼくの幼なじみはもっと頭がいいと思ってた!」

「おれは全てを完全に正しく理解している。おれが正しくて、お前が間違っているってな!」

「何だとお」

 体をがっちり押さえつけられていることも忘れて、ぼく達は再びお互いに向かって手を伸ばした。その瞬間、雷の直撃を受けたような凄まじい怒号が耳をつんざいた。

「ちょっともう、いい加減になさい、あんた達ッ‼︎」

 ぼくとブライアンは揃って、目を急角度に釣り上げたまま仁王立ちになっているレキサンドラを振り返る。

「だってこいつが!」

 口々に叫ぶぼく達を唖然と見下ろし、レキサンドラは苦々しくため息をついた。そのままぱちんと良い音を立てて、大きな右手で自分の額を押さえる。

「信じられない。あんた達、五歳の頃から何ひとつ変わってないじゃない!」

「そんな訳ない。ぼくは独立した才能ある若くて将来有望な人気インテリアコーディネータだ。ブライアンが勝手なことばかりして、ぼくの言うことをちっとも理解しないのが悪いんだ」

「おれは違う。万人が認める秀才でどんな組織に所属してもすぐに信頼を勝ち取り結果を出す有能な男だ。ルークが無茶なことばかりして、おれの話に耳を傾けようとしないのが悪いんだ」

 それぞれ好き勝手に反論を重ねるぼく達を、レキサンドラが吐き気を堪えたような顔で睨みつける。

「……オーケイ、分かった。アンタ達とりあえず一旦、物理的に離れな。状況はよくわからんが、お互いが冷静になって改めて話し合いでも殴り合いでもしてくれ。昔なじみのよしみでおれが仲裁に入ってやるから」

 レキサンドラの言葉にレオがぼくを拘束していた腕を緩めたのと、ブライアンが声を上げたのはほぼ同時だった。

「だめだ」

 その声は、つい三十秒前の言葉と同じ人物から発せられたことが信じられないくらい十分に冷静で、ついでにぼくの頭をもしっかりと冷やしてくれた。ぼくへの隠しごとが消えたからだろうか。そのいかにも強情そうな横顔に反して、たしなめるレキサンドラへ向けられたブルーグレイは、再会してからのこの二週間で一番明るい色に見えた。

 黒髪がいく筋か彼の少し日焼けした肌に落ちて、かすかに揺れていた。幼い頃、ぼくのような肌になりたいと言って、日焼け止めを塗ろうとするハンナから逃げ回っていた小さな少年。いつも遅刻しそうな時間に家を飛び出すぼくを、いくら先に行けと言っても律儀に家の前で待ってくれていた少年。ぼくが無理やり放り込まれたサマースクールに駄々をこねてついてきて、満足そうにぼくの隣で笑っていた少年。

 いつもは聞き分けがいいくせに、ぼくのことになると急にその頑固さを発揮するぼくの幼なじみ。

「あんたが教えてくれたんだろう。ルークは今、一人になるべきではない」

「おれがわざわざお前を一人呼び出して、直接情報を共有をしたのはね。あんたが一番、的確に状況を処理できる人間だと思ったからだよ」

 言葉を詰まらせるブライアンに、レキサンドラが続ける。

「信じなさい、今一番状況を正しく理解しているのはおれだよ。お前たちは、二人とも疲弊して正常な判断力を失っている。しかもそれぞれが違う目的に囚われて同じ方向を向けていない。まともな情報の共有すらままならない。おれが敵なら喜んでつけ込むね。方法は百通りは思いつくけど、聞きたいかい坊や」

「けれどレキサンドラ、例の犯人は」

 言い募るブライアンに、ぼくはなんとか自分を落ち着かせて口を開いた。

「レキサンドラの言う通りだ、ブライアン。ぼく達はたぶん一度落ち着いてから話をしたほうがいい」

「ルーク」

「ていうか、ごめん。ぼくがもう限界だ。ここまで無理やり連れてきたのはぼくだけど。また連絡する」

 途端に幼なじみの表情が引き締まった。

「だめだ。わかっているのか? お前の飲み物に細工してお前を追いかけ回したのは、おれじゃない。犯人は別にいるんだ。警察にもまだ捕まっていない」

「それは、もうちゃんと分かったから」じりじりと出入り口に向かって後退りながら、ぼくは小さく首を縦に振った。「気をつけて帰る。約束するよ」

「……お前は何もわかっていない。犯人の手口とサムのプロファイリングから、お前の友人が殺害された事件と、お前を狙った犯人は同一人物だとサムは考えている。おれも彼の考えを支持する」

 先ほどの事務所で、ブライアンに感じた恐怖と同じ種類の冷たさが首筋を掠めた。続いてぼくの二の腕や背中をぞくり、ぞくりとその冷たさがなでていく。頭の片隅でそうだろうとは思っていたけれど、やはりアランに手をかけた人物とぼくにちょっかいをかけていた人物は、同じである可能性が高いんだ。

 口をつぐんだぼくに、ブライアンが続ける。

「つまり、お前は人の命に手をかけた人間につけ狙われているんだよ」

 バーの中に緊張が走った。ぼく達を取り囲んだ店の客たちが息をのみ、彼らに出遅れたぼくはただ居心地悪く重心を右足から左足へと変える。無関係な人がこれほど溢れる中で情報を漏らすなんて、レキサンドラが指摘した通り、ブライアンの神経ももうとっくの昔に限界なのかもしれない。

 再びぼくの中に罪悪感が頭をもたげる。進んで首を突っ込んできたのはブライアンの方だとはいえ、ぼくの事情に巻き込んで随分と彼を疲弊させてしまった。ちくりと胸を刺す良心の呵責に苛まれつつ、ぼくは正直に自分の希望を口にした。

「……それでも、今はお前と離れて、頭を整理する時間が欲しいんだけど」

「今度はどの程度の時間が必要なんだ? 三年か、それとも五年か?」

 ブライアンの皮肉に、ぼくは口を曲げた。薄々とそんな予感はしていたけれど、中学の時にやや疎遠になったこともまた幼なじみはしっかり根に持っているようだった。

 言葉に詰まるぼくにため息をつき、ブライアンが続ける。

「……せめて家までは送らせてくれ。その間に、今度こそ必要な情報は全て共有するから」

 思わず視線を下げた。ブライアンの白いシャツからはお腹の辺りのボタンがひとつ消え、裾がスラックスから飛び出していた。その隙間から、形のいい腹直筋が見え隠れしている。こんなふうに乱れた服でもブライアンは隙なくぼくから逃げ道を閉ざし、優しく的確に呼吸を奪う。今すぐにでもきちんと自分の頭で考えるためのスペースがこいつとの間に必要なのだと、自分の身を多少犠牲にしてでもどうしても今すぐそれが必要なのだと、どうすれば伝わるだろうか。

 自分の希望を口にできそうにもない空気にぼくが押し黙っていると、それまでぼく達の会話を黙って聞いていたレキサンドラが猛獣のそれとそっくり同じ唸り声を上げた。

「……家までは、タクシーを使って帰りなさい。タクシーに乗り込むまでは監視もつけるわ。それがあんたをこの店から出す条件よ、ルーク。ブライアンもそれでいいか」

「レキサンドラ」

 またしてもぼくとブライアンの声が重なった。レキサンドラに引き寄せられていた視線を幼なじみに戻すと、彼は信じられないと言いたげに愕然とレキサンドラを見ていた。

「なぜ分からない。これは殺人事件が絡んでるんだぞ。おれだってルークの家に無理やり押し入って、長々と居すわるつもりもない。ただ、家までおれを連れて行けと言っているだけじゃないか」

「……やっぱりあんたはセスの息子だね。あんたの言っていることは確かに筋が通ってるさ」

「それなら――」

「けれど正論がいつでも誰にとっても正解というわけじゃないの」

 自分でも気づかないうちに、ぼくはじっと目を見開いてレキサンドラを見つめていた。目の端が乾燥にひりつくのを感じて慌てて瞬きをする。棒立ちになるぼくをレキサンドラが振り返り、出入り口に向けてその力強い顎をしゃくった。

 その瞬間、ぼくはようやく呼吸を思い出した。肺いっぱいに息を吸い込み、そのままくるりとレキサンドラとブライアンに背を向ける。

「よおルーク、兄貴の出した条件を忘れんなぁ」

 間延びした声がぼくのすぐ後ろを着いてきて、その奥で机と椅子がけたたましい音を立てた。

「……お前が信じられないよ、ルーク。お前は一体、どうしてこんなことができるんだ?」

「ブライアン、あの子のことはちゃんと送らせるから――」

「おれは、いつだってこの世界の何よりもお前の安全を願っているのに、お前はいつもいつもそうやっておれの願いを踏み躙るんだ。その度におれがどんな思いをするかなんて考えもせずに」

 ひりつくような幼なじみの声が、背後からぼくを殴りつける。それでも足を止められないぼくに、怒りと表現するにはあまりに悲痛な叫びが覆い被さった。

「お前なんて大嫌いだよ、ルーク……!」

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