6話

 それはほんの一瞬の触れ合いだった。だが、触れた唇から甘い痺れが全身に広がっていく。礼一はそのあまりの甘さに身震いしそうになるのを、眉をぎゅっとひそめて耐えた。礼一のあごをとらえていた指が、様子をうかがうように頬に触れ、まぶたを撫でる。

 その指に促されて、そっと目を開くと、濃い青緑色の瞳がじっと礼一を見つめていた。

 ぼんやりと見つめ返す礼一から目をそらさないまま、分厚い手のひらが腕を撫で上げ——そして二の腕をぐっとつかんだ瞬間、礼一は我に返った。今にも自分に噛み付こうとする男を慌てて遮る。

「エド、待ってください!」

 避けた唇がそのまま首筋に埋まって、礼一は飛び上がった。一体こんなところで何を始めるつもりだ——というニュアンスの言葉って英語でどう表現するんだっけ。礼一は必死で自分を落ち着けてから、口を開く。

「これ以上は困ります」

「なぜ」

 すかさず問い返してきたその、少し掠れた低い声。耳元で発せられた甘い響きに、体がびくりと震えた。

 これは、卑怯だろう。

 内心でうめきながら、なんとか呼吸を繰り返す。

 長い腕が伸び、礼一を取り囲むように、大きな手がプールサイドの側壁を握りしめた。目の前に迫る大胸筋に、礼一は思わずうろたえる。

 ええと、なんでこの状況に困ってるんだっけ——自分の中に浮かび上がった疑問に、礼一は頭を抱えそうになった。完全に流されかけている。今さらだが、この人はゲイだったのだろうか。無愛想な上に距離の詰め方が独特で、警戒心を抱く暇もなかった。——ああ、なんでもいいけれど、とにかくその、水を滴らせながら生々しく動く胸鎖乳突筋をしまってくれ、目の毒だ!

 その時、男がふと顔を伏せた。水に濡れた前髪が彼のターコイズブルーの目を隠し、黒髪が礼一の目の前で揺れる。その瞬間、冷たい震えが体の奥を走り抜けていき、全身をぞっと粟立たせた。パニックを起こした頭が、そこから逃げろと指令を出し、力強い腕に囲まれた体はその指令を受け止めきれずに、ただただ身を竦ませる。

 そんな礼一の反応を敏感に感じ取った男が、顔を上げて礼一の目を見つめた。その青い瞳を見た途端、ほっと体から力が抜けていく。ばくばくと早鐘を打ち続ける心臓が落ち着くには、もうしばらく時間が必要なようだが。

 二人の間に気まずい沈黙が訪れた。その沈黙を振り払いたくて——というよりも、今の自分の反応をごまかしたくて、礼一はもの問いたげにこちらの様子を窺う男に向かって苦笑した。

「人がいないとはいえ、ここは公共の場ですから」

 そんな礼一の笑顔をしばらく見つめていた男だったが、やがて諦めたように礼一を囲んでいた腕を放してため息をついた。

「おれの行動が気に障ったのなら謝る。だからそんな顔をしないでくれ」

 その言葉に、礼一の愛想笑いがほころぶ。歪みそうになる顔を、それでもなんとか取り繕って続けた。

「気に障ったというわけでは……。ただ、ぼくが少し保守的なだけで。ええと、特にオーストラリアの文化からすると」

「——国だの文化だのはどうでもいい。レーイチ、おれは君を怯えさせたんだろうか」

 ごまかしの利かない静かな眼差しに、礼一は空笑いを諦めて首を振る。

「——いいえ」

「不快だったか」

「いいえ——不快なわけではないんですよ、本当に。少し、驚いたのは確かですが」

「そうか」

 礼一の言葉が、本心だとわかったのだろう。エドもまた、礼一の隣でほっと息をつく。相変わらずのポーカーフェイスながら、彼が安堵を覚えているのはなんとなく伝わってきた。男が続ける。

「それならいい。恋人がいるのに、悪かったな」

 その言葉を消化するのに、少し時間がかかった。再び訪れた沈黙の中、男の言葉をしばし吟味してから、礼一が口を開く。

「えっと、恋人ボーイフレンドってなんのことです?」

「君の恋人のことだ。わかってはいたが、おれは——」

 驚きのあまり、礼一は男の言葉を遮りながら声をはね上げた。

「ぼくはこの国に来て、まだ一ヶ月ですよ。相手なんているわけがありません!」

「なんだって? いるわけがないって……」

 男が唖然とした様子で、おうむ返しに礼一の言葉を繰り返す。そして三秒ほど絶句した後で、ひどく慎重な口調で続けた。

「それは……いや、待ってくれ、それは一体どういう意味なんだ」

「……その、気づいているかもしれませんが、ぼくはゲイなので。好意を持った相手に好かれるという可能性が、人より少ないんですよ。ほら、そもそも母数が少ないから」

 三十代も目の前の男が何を言っているんだろうと、やや気恥ずかしさを覚えながら礼一は頬を掻いた。

「恋人なんて、まあそう簡単にはできません」

「君、正気か」

 礼一の説明を、だが男は無表情にばっさりと切り捨てた。

「君は、一体さっきの人魚の話を何だと思っているんだ? そもそもあの男は君の——?」

 もどかしげに早口の英語で何かをまくし立てていたエドだったが、すぐに「オーケイ、理解した」とため息をつく。

「悪かった。おれは色々と勘違いをして、焦りすぎていたようだ。おれは君にステディな相手がいるのだと思って——君に少しでも隙があるのなら、つけ入ろうと思っていたんだ」

「ぼくに相手がいるだなんて、おかしな勘違いです。ああ、もしかしてオーストラリアだと、恋人がいない人の方が珍しいのかな。日本より同性愛に寛容なようですしね」

「……君は、それを本気で言っているんだな」

 ぼそりとそうつぶやき、男が礼一の答えを待たずに続ける。

「まあいい。つまり君にはボーイフレンドがいない。それで間違いないんだな?」

「ええと、はい」

 余裕なく頷く礼一に向かって、男が畳み掛けた。

「どうやらよくわかっていないようだから、言っておく。おれは君が無料船に初めて乗ってきた時から、君に興味を持っていた。君は、何と言うかとても印象的だった」

「……エド、正直に言わせてもらえれば、それは信じられません」

 はっきり言って、『いつもの無料船の船員さん』には無愛想でぶっきらぼうだと言う印象しかない。

 だが礼一の答えに、男はしれっとした様子で「そもそも、目に留めてなければ、一日何百人もいる客の一人の顔なんて、覚えない」と肩をすくめた。

 そんなものなんだろうかと押し黙る礼一に向かって、エドが低く続ける。

「レーイチ。おれは、君の特別になりたい。君はどう思う」

 そのあまりにストレートな言葉に、胸の中心を撃ち抜かれた気がした。自分でも分かるくらい、頬が熱を帯びる。

「——でもオーストラリアでは、まずはデートをするのが普通なのだと、ぼくは聞いていたんですが」

 あがくように言った礼一の言葉に、男は目を伏せて低く笑った。そして再び手を水面から引き出し、長い指で礼一の頬に張りついていた髪をすくい上げる。

 その指に促されて顔を上げた礼一は、息を止めてターコイズブルーを見つめ返し——そしてそのまま、観念して目を閉じた。

 再び唇が触れ合った時、今度は胸が締め付けられるような、苦しみを孕んだ陶酔が体を走り抜けた。男の大きな両手が礼一の首をゆるくホールドし、熱い舌がゆっくりと口腔にねじ込まれる。

 エドとの関係が本当に新しく始まったのだと、そのキスによって理解させられた気がした。



 昨日のものより一回り小さい会議室に足を踏み入れた時、目の前のテーブルには、食欲を刺激する色とりどりの朝食セットが準備されていた。ここ二日で好みを把握されていたのだろう。新鮮で瑞々しいフルーツの盛り合わせに、ポテトサラダが添えられたレタスとルッコラのサラダ、クラムチャウダー、白身魚のカルパッチョ等、統一感はないが礼一の好みのものばかりが並んでいる。

 ダニエルに促されて席に着く。ほぼ初対面の男と二人きりで向かい合っているというのに、不思議なほどに心がしんと穏やかだ。——おかげで、緊張感のない自分の意識が、自然と料理の方へ向かう。

 葛藤する礼一の様子を見て取ったらしい。ダニエルが笑いながら両手を広げた。

「レーイチ、今日はまだ時間に余裕がある。話は朝食を頂いてからにしよう」

 ありがたい。

 礼一はほっとして、その言葉に甘えることにした。

 昨晩夕食を抜いたこともあり、料理は瞬く間に姿を消していく。ナイフとフォークで食べるサラダに苦戦しつつも、礼一の皿は次々に空になり、空いた皿はウェイターの手によってきれいに片付けられた。

 やがて真っ白なテーブルクロスの上に食後の紅茶が置かれ、ウェイターが静かに会議室を去る。

「さて、昨日の依頼に対して、何か答えは出たかな」

「はい、ダニエル。申し訳ないのですが、お断りさせてください」

 礼一の言葉に対して、特に動揺することもなくダニエルがうなずいた。

「もちろん君に断ってもらって構わないのだけれど、その理由を聞いても差し支えないだろうか」

「ぼくは戸惑っています」

 自分の心情を素直に語ることに、ためらいはなかった。

「自分が何であるのかについて、今はまだ、全く受け入れられる気がしません。けれどあなたは、ぼくの受け入れられない部分に価値を見出して、手を貸してほしいと言いました。ぼくはそこが引っ掛かっています」

 ダニエルが相づちを打ちながら、先を促す。

「それに、ぼくはいざという時に身を救ってくれるのは、自分自身で必死に学び、磨き、つかみ取ってきた能力と経験だと思っています」

 礼一はダニエルの深い、哲学的な目を見つめながら続けた。

「——あなたの命がかかっています。知りもせず、磨いてきたわけでもなく、それどころか受け入れられてすらいないあやふやな能力では、いざという時にあなたを守れるとは思えない。当てにしてもらうわけにはいきません」

「君の言いたいことはよく分かった。気持ちを率直に語ってくれたことに感謝をする」

 ダニエルがにっこりと笑って言った。

「君はどこまでも健全で、芯の通った考えをするね。わたしが一番当てにしているのは、君のそのような部分なのだが——そう言ったところで、君は納得しないだろう。人魚の素質を当てにしている事実も否定できない。そこで提案なんだが」

 ダニエルはそう言って紅茶を口に含み、礼一は心持ち身構えた。

「君は、君自身の人魚の素質を受け入れられないと言ったね。そしてその能力を磨いてきたわけでもないから、当てにしてもらっても困ると」

「ええ、その通りです」

「では、その素質をまずきちんと知り、向き合い、磨いてみないかい。わたしの依頼は、その上でもう一度考えてみたらいい」

 ダニエルが、こともなげに言った。

「遅かれ早かれ、結局はしなければならないことだろう」

「それは、確かにそうですが……」

「ただし、わたしもそんなに時間があるわけではない。申し訳ないのだけれど、できたら君に集中して、真剣に取り組んでほしい。そこで」にこりと、ダニエルがさらに笑みを深める。「君は、ジャッキーの最新映画がもうすぐ公開予定だということを知っているかい?」

 礼一は一瞬面食らった後で、答えた。

「ええ、はい」

「実は知り合いにスポンサーがいてね。彼が実際にやってくる試写会のチケットが、ただで手に入るんだよねえ」

 このやり取りには、覚えがあった。礼一は自分が今の部屋へと越してきた経緯と、部屋で仕事をしているだろう華やかなハウスメイトを思い出す。

「向き合ってみた結果、結局受け入れられなければ、それでも構わない。最終的にこの依頼を断ってくれてもいい。どちらにしても、このチケットはお渡ししよう。君の努力への感謝として」

 礼一の黒い目とダニエルの焦げ茶色の目が交差する。

「わたしの懐は痛まない。君にとってはそれなりに価値がある。レーイチ、このチケットで君のベストを尽くしてもらうことはできないだろうか」

 数秒だけ考えるそぶりを見せてから、礼一は肩の力を抜いて苦笑した。

「依頼内容と、そしてぼくが具体的に何をするべきなのか、教えて頂けますか、ダニエル」

 もちろんだ、と答える彼に向かって、礼一は頷いた。

「とりあえず、ぼくにできる最善は尽くしてみます」

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竜と水面に光る街・上巻 秋月ひかる @Hikaru_akiduki

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