5話

 考えさせてください、とダニエルに告げてから会議室を出た時には日は傾きかけ、空の色はやや赤みを帯びていた。あっという間の時間だったが、身体が覚えた疲労感と同様の時間はしっかり流れていたらしい。

 明日もう一度、今度は礼一のために時間を取ると約束したダニエルが、別の商談に立ち会うため足早に、だがあくまで優雅に会議室を去っていく。

 そんなダニエルの後ろ姿を見送ってから、礼一はあと二時間ほどでスタートするであろう夕食を断り、四人とは逆方向へと足を進めた。スコーンが詰まった胃はまだ食事を必要とはしていなかったし、何より考える時間が必要だった。

 それにしても、人魚とは。

 人魚って一体どんな存在だっただろうか、と考えてまず浮かぶのは子供向け映画の画像だったが、礼一はその映画を見たことがなかった。しかもより印象に残っているのは、人魚の少女ではなく黄色の熱帯魚の方だという有様で、知識としては全く役に立たない。

 あとは地元に人魚の骨が祀られている神社があるが……彼女の全長が百メートル越えだったという言い伝えが衝撃的すぎて、他の情報を一切覚えていなかった。

 ——泳ぎでもすれば、何か分かるだろうか。

 ふとそんな考えが思い浮かぶ。廊下に掲げられた館内図に目を走らせると、この船内にはプールが四つ設置されており、そのうちの二つが屋内プールとのことだった。もうすぐ夕食が始まる頃合いだ。しかもサンセットが楽しめる今の時間帯に室内プールを利用する乗船客はそれほど多くはないだろう。そう考え、礼一は室内プールのひとつへと足を向けた。

 フロントで水着を購入し、クリーム色と金色で統一されたシャワールームを抜け、そして礼一は感嘆のため息をついた。

 つくづく、ダニエルの趣味はすばらしいと思う。

 おそらくは青の洞窟をイメージしているのだろう。ドーム状の天井に、真っ青なプール。全体的に薄暗い印象だが、窓から差し込む光がシャンデリア型のサンキャッチャーに反射し、絶妙な明るさに淡く輝かせている。そしてプールサイドの床とデッキチェアは、幻想的な青色を引き立てるような焦げ茶色の木製で、少しもこの雰囲気を損ねていない。

 読み通り、人はほとんどいなかった。礼一は他の利用者の迷惑にならないよう静かにプールに身を沈めると、そのままゆっくりと泳ぎ始める。

 少しずつ水に受け入れられていく感覚を覚えながら、礼一は同時に、水に洗われ、頭の中から無駄なものが流れていくのを感じていた。頭がクリアになり、そして、今考えるべきことが明確になっていく。

 そうだ。自分はなぜあの時、ダニエルの頼みを受け入れず、保留にしたのだろう。

 今の礼一には、時間の余裕など有り余るほどあるし——ダニエルは何かしらの謝礼はすると言っていたが——それを当てにせずとも当面は生活していけるだけの、金銭的な余裕もあった。ダニエルの人柄にも好感を持っている。

 いつもの礼一なら、自分にどのようなことができるのかを尋ねた上で、それが可能であれば即答で受け入れただろう。こちらの余裕があるときに、目の前の困っている人を放置できない程度には、自分も他利の心というものを持ち合わせていたはずだ。

 あの時、何かが引っかかっていた。だからダニエルが自分に何をしてほしいか聞きもせずに、その話を終わらせたのだ。その引っかかった何かが分かるまで、返事はできそうにない。

 水中をぐるぐる回りながら思考の海に沈んでいた礼一は、光に誘われるように水面に顔を出し、そしてその時、いつの間にかプールから誰もいなくなっていることに気がついた。自分と、あともう一つの人影をのぞいては。

 そうか、もう夕食の時間だと思いながら、その人影の立つプールサイドへと身を寄せた。

「……いつから見ていたんですか? エド」

「そんなに長くはない。十五分くらいか」

 平然と答える長身の男に、礼一は呆れてため息をついた。

「充分長いですよ。声をかけてくれれば良かったのに」

「つい見とれていた」

 本当だろうかと疑いたくなるような淡々とした口調で、エドは言う。思わず言葉に詰まった礼一に向かって、男が続けた。

「君はこういった幻想的な雰囲気がよく似合うな、人魚姫」

 彼の言葉に、かっと頬が熱を帯びる。衝動に突き動かされるままに、礼一はプールサイドに佇む長身の男を睨み上げた。

「あなたがそんなことを——」あなたがそんなことを言うのか。同じだと、分かると言ってくれたくせに。

 自分の言おうとした言葉と、思いのほか荒れた声に驚いて、礼一はそのまま押し黙る。言葉を交わすようになって二日目の人間相手に、一体何を言おうとしているのか。そもそも自分はそんなに感情に振り回されるタイプではないのだが——この男と関わると、どうにも感情が揺さぶられがちで、調子が狂う。

 ため息をついて水中に沈もうとした礼一は、いきなり大きな手に二の腕をつかまれ、そのまま再び水上へと引き上げられた。驚いて見上げた視線の先で、憮然としたターコイズブルーが青い光に照らされて、きらきらと光っている。

「おい、そこで怒るのをやめるのか」

「——どういう意味です?」

「君は、たぶんもっと怒った方がいい。無理に感情を飲み込もうとすると、思考が消化不良を起こす」

「ぼくを怒らせようとしたんですか……」

 男はその言葉に答えず、ただ黙って礼一の二の腕を放してから、プールサイドに腰掛けた。

 どうやら話を聞こうとしてくれているようだ。礼一の言葉を促すようなその視線に、礼一は怒りを忘れて苦笑を漏らす。

 なんて荒っぽくて、不器用な親切だろうか。だがそんな男の態度に、不思議と礼一のこわばった体から力が抜けていく。

 しばし逡巡した末に、改めてプールサイドに背を寄りかからせながら、礼一は切り出した。

「……怒るのって、しんどいでしょう」

 礼一の言葉に、男は肯定するでも否定するでもなく耳を傾けている。

「それに怒りを表現することで、状況が悪化することはあっても、良くなることはない。それなら一端、なかったことにしてしまった方が楽なんですよ」

「まあ、言いたいことは分かるな」

 礼一の隣で、ふくらはぎから下だけを水に沈めた男が頷く。

「まわりの状況も考えずに感情に身を任せて許されるのは、若いうちだけだ。自分自身のコントロールを簡単に感情に引き渡していると、いつか人生を壊されるだろうよ」

「ええ。それに、感情に支配されて平気で理不尽を働く人が、ぼくは恐ろしい」礼一が、水面を指ではじきながらため息をつく。「ぼくは、彼らとは違う人間でありたい」

「なにか、理不尽な目にあったのか」

「…………」

「まあいい。なあ、レーイチ。君の言いたいことはよく分かるんだが、それでも怒りを感じるという事実は、無視しない方がいいとおれは思う。自分の心の動きを無視していると、感性が鈍る。感性が鈍ると思考だって鈍るんだ。そのうち、自分が本当は何を望んでいるのさえも分からなくなるぞ」

「自分の望み……」

「怒りに身を任せるのは論外だが、なぜ自分が怒りを感じているのかと向き合うことは、自分自身を知るいい手段だ」

 礼一は自分の内面に目を向ける。なぜ、自分はエドに「人魚」と言われてあんなに腹を立てたのだろう。

「そうか」礼一がつぶやく。「ぼくは、自分が人魚かもしれないという事実を、まだ少しも受け入れられていないんですね」

「たかが三時間程度でそれができる人間がいたら、おれはそいつの頭を心配するよ」

「はは……。でもぼくは、あなたが理解を示してくれたことで、それを受け止められた気でいました。単に頭が冷えただけだったようです」

 そう考えると、自ずと先ほどの疑問がほどけてきた。

 まだ少しも受け入れられていない、自分の中の人魚の要素を、ダニエルが当てにしていたから。だから彼の提案に、受け入れ難いものを感じたのだ。

「ダニエルのリクエストに、即答できなかった理由も分かりました」

「ああ、あれな。胸くそわるい」ただでさえ無愛想な顔を、思いっきりしかめてエドが言う。「まともな神経持ったやつなら、反発を覚えて当然だ。もっと怒ってやれ」

「……あなたが怒ってどうするんですか」

 思わず吹き出したら、止まらなくなった。ははは、と遠慮なく口を開けて笑っているうちに、どんどん体から力が抜けていく。

 そんな礼一を、傍の男が眩しそうに、そしてひどく優しく——微かに微笑みながら見下ろしていた。礼一はいつの間にか微笑み返している自分に気づき、照れて視線を逸らす。そういえば、この男の笑顔を見るのは初めてだ。

「あなたが笑うところを、初めてみました——」

 言いかけた礼一の言葉を遮るように、隣で水しぶきが上がる。驚いて目を向けた礼一の視線の先で、いつの間にかパーカーを脱ぎ捨てて水中へと飛び込んできたエドが、髪からしたたる青い幻想的な水の光を、首を振りながら無造作に払っていた。

 その犬のような仕草にくすりと笑みを深めた礼一だったが、次の瞬間、至近距離から見下ろしてきた男の目の色に思わず息を止める。

 彼は礼一の目を射抜いたまま、ぽちゃん、と妙に澄んだ音を立てて腕を水面から引き上げると、ひどくゆっくりとした動作でその大きな手のひらを礼一に向かって伸ばした。その意味に気がついて、礼一は視線を逸らす。

「エド、ぼくは」

 男の手が顎にかかる。その指先に促されて顔を上げ——自分を見据えるターコイズブルーに見とれた次の瞬間、唇がそっと重なっていた。

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