2話
礼一が掃除を繰り返した結果、かなりましにはなったものの、まだまだ雑然といった印象が拭えない店内。
その狭い店内を器用に歩いてくる青年は、アジア人にしてはかなり体格がいい。この国では埋没してしまう身長も、東アジアの国々にあっては目を惹くだろう。髪こそクレヨンで塗りつぶしたような墨色だが、広い肩幅と淡い亜麻色の瞳は、何となく近い世代で遠い地域からの血が入っているのではないかと想像させられた。
「もしかしたら、万一、この店が十時オープンだと知っている人が、その時間にくるかもしれない可能性だってないわけではないでしょう」
礼一はそう言って、早々に本を読む準備を始めたハオランに、もう一枚の雑巾を投げつける。
それを危げなく受け止めながら、ハオランはあきれ顔で口を開いた。
「お前……自分だってそんなこと信じていないくせに」そう言って、自分のつかんだ雑巾を見やり、うんざりと肩を落とした。「くそ、なんでおれがこんなこと」
「どうせ一日中暇なんですから、少しくらい仕事したって良いでしょう」
ハオランがしぶしぶ机を拭き始めたのを目の端で確認してから、礼一は初日に買ったガラス用の洗剤で、通りに面したガラスを磨く。途端に、店内がより明るくなった気がして満足感を覚えた。
振り返ると、ハオランもカウンター周りを一通り拭き終えたようだった。
不衛生な環境に身を置くのが不快なだけで、大して勤勉でもない礼一は、さっそく本を読み始めたハオランの隣に腰掛けると、今度は何も言わずに自分も英語のテキストを取り出した。
今でこそある程度働くようになったが、礼一の出勤初日のハオランの勤務態度は、なかなかひどいものだった。
その日、十時前に店に着いた礼一は、彼の遅刻のために炎天下の中、四十分も待たされることになったのだ。
クリスに店が開いていないことを報告後、暑さに耐えかねて買ったスムージーを片手に帰ろうか帰るまいか考え込んでいたところで、店の鍵を持ってのんびりハオランが出勤してきた。
その日が、礼一の初出勤日だということを、完全に忘れていたらしい。
さすがに悪いと思ったようで、はじめこそ殊勝な態度で店の注意事項やら会計の仕方やらを教えてくれたものの、すぐに開き直り、あまりの汚さに掃除を始めた礼一を尻目に、さっさと読書を始めてしまった。
ただ、それだけなら礼一も特に何も思わなかっただろう。掃除は自分がきれいな場所で働きたいから始めただけであって、それを誰かに強制するつもりはなかった。それに、年下とはいえ、相手はこの店の先輩だ。もめる方が面倒に思えた。
ところが、そんな礼一にいらぬちょっかいをかけてきたのはハオランの方だった。「……全く、日本人は怒らせると怖いっていうことを忘れてたぜ」 自らの初出勤日を思い出していた礼一の隣で、ハオランがぼそりとつぶやく。
「あなたが日本人の何を知っているというんです。あなたは香港国籍でしょう」 礼一がテキストから顔をあげもせずにぼそりと返した。
「国籍はオーストラリアだって言ってんだろうが。そもそも、香港国籍なんて存在しないだろ」
「香港と中国でパスポートが分けられているからそう言っただけです。そもそも、オーストラリア人だって言うのなら、英語名を名乗ったらどうです、ウィリアム?」
「やめろ、そんな紅茶臭い名前なんか、柄じゃねえ」
「……全世界のウィリアム氏に失礼ですよ」
あまりの発言に呆れて、礼一はため息をついた。
「とりあえず英国王室に謝ってください」
礼一の言葉に、ハオランはふん、と鼻を鳴らしてそっぽ向いた。
だが、また読書に飽きてきたのだろう。再びぼそっと口を開く。
「そもそも、何を言われても怒らなかったくせに、ちょっとジャッキーについて触れたぐらいで激怒するなんて」
「映画界のスターを、あんなおやじ呼ばわりするからですよ。それに、激怒なんてしていません」
「あんたが、好みのタイプをジャッキーだとか言うからだろ。それに、あの発言の直後から写真を撮り始めたの、覚えてるんだからな」
今度は礼一が、ふいっとそっぽ向く。
確かに、あの日「あんなおやじのどこがいいんだ」と笑われて、少々むっとさせられた。だから、掃除途中の店の写真を撮り、あらかた掃除を終えた後の写真を収め、さらにしょっちゅう外へ出かけるハオランの姿も保存しておいた。
その上で、簡単ではあるが営業努力も行った。打ち捨てられていた看板に、売れ筋商品の情報や他店よりも安い商品の金額を載せただけだったが、掃除によってガラス越しに店内がよく見えるようになったこと、怪しい雰囲気が和らいだこと、後半とはいえシーズン中だったこともあり、思いのほか簡単に売り上げが伸びた。
そのビフォーアフターと、ハオランの勤務態度をレポートにまとめた上で、彼に迫ったのだった。
これをクリスに提出されたくなくば言うことを聞け、と。
「写真を撮っていることには気づいたくせに、隙を見せ続けるのが間抜けなんですよ、坊や」
「あんた、おれに対して遠慮がなさ過ぎないか」
さすがにむっとしたようで、ハオランが本から顔をあげて礼一を見る。
「そもそもジャッキーが好みなら、おれだって好みの系統に入るはずだろ。カンフーやってるし、チャイニーズの血なんだから。もう少し優しく接してもいいんじゃないか」
その発言にむっとして、礼一もテキストから顔を上げる。
「あなたとジャッキーの共通点なんて、国籍くらいじゃないですか」
「——だから、国籍はオーストラリアだって言ってんだろ!」
「では共通点なんてないってことですね!」
しばらく至近距離でにらみ合ってから、ぷいっとそれぞれの手元に目を戻す。
「……そもそも、怒らせて相手の性格を探るだなんて、方法が稚拙です。ティーンエイジャーじゃないんですから」 テキストをめくりながら礼一が言うと、本を見つめるハオランの眉間にしわが寄った。
「分かってて乗るあんたは、本当にいい性格してると思うぜ」
顔をしかめつつもどこか楽しそうなハオランの声に、礼一はやれやれ、とため息をついた。
その後、暇ながらも客足はそれなりにあり、一昔前の古いが趣味のいい人形や、地味に人気のある怪しげな軟膏などが売れていく。
礼一に接客を任せきりのハオランも、商品の補充や在庫チェックなどはそれとなく終わらせている。やる気がないだけで、仕事はできるタイプなのだろう。
そんな、いつもののんびりとした朝の時間が過ぎていき、互いに時間を見つけてそれぞれ昼食を食べ終わった所で、ふと客足が途絶えた。礼一はしばし逡巡すると、先ほどからあまり進んでいないテキストに視線を落としたまま口を開いた。
「ところでハオラン、あなたにいくつか聞きたいことがあるんですが」
できるだけさりげなく切り出したものの、この青年は礼一の声のトーンに気づいているだろう。それが分かる程度には、この数日間、くだらない話でお互いを探り合った。
ハオランからの返事はなかったが、耳を傾けていることは分かっていたので、そのまま続ける。
「一つ目は、ダニエルについてです。あなたは彼と同じ家だと聞きました。彼とはメッセージのやり取りしかしたことがないのですが、どのような人ですか?」
頬に、ちらりと視線を感じる。
「なんでおれに聞くんだ。クリスにさらっと聞けばいいじゃねえか」
「生活時間が合わなくて、なかなか話す機会がないんですよ」
建前をさらっと口にすると、ハオランがため息をつきながら本をめくる気配がした。
「紅茶くさい、気障な英国野郎だよ。この国の真夏に、スーツ着てホットティーを飲むなんて頭がおかしいぜ。気候を考えろってんだ」
いつものように、ひと通り悪態をついてから、さりげなく付け加えた。
「自分にも人にも、厳格なくらいフェアで嘘がないやつだから、色々事情を聞きたいのなら適任なんじゃねえの。融通が利かないアホだが、その辺は信頼できると思うぜ」
礼一の知りたいことをきっちり把握しつつ、的確な答えをくれた。一瞬絶句した後言ったありがとうは、不本意ながら、心からのものだった。
「それから、ハオラン、あなたが見える生き物は何ですか? いつから見えるようになりましたか?」
「ほぼ全部」 ハオランが短く答えた。
「きっかけも時期も覚えてねえ。物心ついた時には見えてた」
彼の言葉に、礼一は驚いた。クリスが、入居の条件を「この生き物たちのどれか一つでも見えること」と表現していたため、みんな礼一と同じように二、三種類の生き物が見えるだけだと思っていたのだ。
「ああ、でもお前に懐いてるらしい、だっせー名前のイルカはあまりよく見えねえな。なんとなく、空気が歪んでみえる程度だ」
こいつは、いちいち悪態をつかないと喋れないのか。
礼一は「いーちゃんと言うのは仮名です」ときっちり念を押してから、質問を重ねる。
「他の方は、どうなんでしょうか」
「ダニエルはおれより見えるぜ。きっかけは、アメージンググレイスを感じた時からとか何とか、わけわからねえこと言ってたぞ」
その表現に、礼一は思わず吹き出した。ずいぶんと興味深い人物のようだ。まだ会ったことはないが、好きになれそうだ。
「きっかけや見える種類の規則性が知りたいなら、クリスの話が参考になると思うぞ。あいつも、このくらいのことなら素直に答えるだろう」
「…………」
「何だよ、そっちが本音だろう?」
第一印象で感じた怜悧さは、やはり彼の本質の一部であるようだ。建前と本音を見抜くだけでなく、何気なくそれを突きつけてくる。
「……だってこの売上でしょう」
礼一が諦めてそう答えると、ハオランが人の悪い笑みを浮かべた。
「人を雇う必要なんてないよなあ」
明らかに礼一を引き止めるためのポジションだった。そこまでして自分を引き止める理由は、家賃収入だけでは説明がつかない。
「ひとつ教えておいてやる」
いつの間にか体ごとこちらを向いていたハオランが、礼一の顔を覗き込みながら言った。
「あいつら、自分のことを認識してくれる人間に対して多少、好意的ではあるが、お前のところのイルカみたいに、懐いて追っかけ回すなんてところは見たことがない。しかも状況的に、あいつはあんたに会いに、わざわざやって来たように、おれには思える」
「ぼくに会いに、ですか」
「木を吹っ飛ばしてただろ。あんな風に不器用に物にぶつかるのは、この次元に慣れてない証拠だ。あいつは、自分の住んでいるところからここまで降りてきたんだと思う。目的はあんただ。たぶんな」
「それは、珍しいことなんですか?」
次元、という言葉のイメージを掴みきれないまま問いを重ねた礼一に、ハオランは慎重に言葉を選びながら口を開く。
「通常は、ありえないことだ。あんたを引きとめようとあいつがとっさに判断した事情は、そのあたりにあるんじゃないか?」
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