2章 日常の始まり 1話

 朝一番に耳にする音が鳥の声だと、どんな朝でも何となく爽やかなものに思えてくる。

 まどろみの中、鳥たちのオーケストラに耳を傾けながら、今日はどんなことをしてすごそうか思いめぐらせるのが、礼一の朝の日課になりつつあった。

 夢の狭間の心地よい時間を味わっていると、ほっぺたを優しくつつかれる感覚を覚えた。ここ数日ですっかり慣れ親しんだ感覚に、ぼんやりと目を開く。

「……はよ、いーちゃ……」

 かすれた声で挨拶をして、目の前の光るイルカに手を伸ばしかけた礼一は、その手をぱたんとクイーンサイズのベッドに沈めた。そのままぱたぱたと手を動かして目覚まし時計を探り、薄く開いた寝ぼけ眼で時間を確認する。——五時四十五分。

 ため息をついてそのままベッドの海に潜り込んだが、ますます盛り上がりをみせる鳥たちの大合唱と、優しくとも容赦ないイルカの攻撃に、すぐに白旗を揚げて起き上がる。いくらでも自堕落に生活できそうな環境にあって、礼一の生活は、会社員の頃より遥かに規則正しく、健康的だった。

 うがいをして水を飲み、軽くストレッチと掃き掃除をする。それでもまだまだ時間に余裕があったので、スーパーで買ったキウイを食べながらのんびりパソコンでニュースをチェックしていると、礼一がゲイだということをすっかり忘れているらしい半裸の男が、ふらふらとリビングに現れた。

「モーニン、レーイチ。調子はどう?」

 さわやかさが半減している代わりに、色気が二倍増しなクリスの大胸筋と腹直筋にちらりと目を走らせてから、礼一は「最高」と短く返した。

 それは良いことだ、と言いながら青汁らしきものを口に流し込んでいるクリスに「今日は早いんですね」と声をかけると、「今日は朝から会議があるんだ」と、彼にしては珍しく顔をしかめて言った。

 彼の朝はたいてい、アルバイトの身の礼一ですら羨ましくなるほど優雅だったが、どうやら今日は例外らしい。

「それより、レーイチ。店には慣れた?」

 ようやく目が覚めてきたらしいクリスが、シンクに腰をもたれさせながら従業員の様子を伺ってくる。

「あまり心配はしていないけれど、楽しんで働いてくれたら嬉しいよ」

 爽やかさの比率が増してきた笑顔に「ありがとう、オーナー。そうします」と苦笑まじりに答えた。

 正直なところ、あの店で何かを楽しむようなやりがいを感じるためには、ある種の悟りが必要だと思ったが口にはしない。

 首相の決断力のなさを嘆くオーストラリアの記事を読み終わり、ついに礼一はそれ以上時間を潰すのを諦めた。

 近くのチョコレート専門店で、チョコレート入りのアイスモカでも買ってから、店に行くことにしよう。

 そう心に決め、椅子に引っ掛けていたバックを手に取る。

 漂い始めたコーヒーの香りの向こうから、「良い一日を」と声がかけられる。その言葉に「あなたも」と答え、礼一は玄関をくぐった。

 無地のシャツにジーパンという、学生時代に戻ったような軽装で、庭に面した共用部の階段を駆け下りる。無惨なパティオはそのまま放置されており、何となく、これはこれでありなのかもしれないと思うようになっていた。

 そのまま五分ほどの道のりを経て乗船場へとたどり着くと、いつもの無愛想な船員が、ヒゲだらけの口元をかすかに動かしながら、むっつりと乗船者に声をかけていた。さわやかさのかけらもない Good morning に、なけなしの愛想笑いで応じてから、船に乗り込み、二階へと上がる。九時台のこの時間は、観光客用の二階の人影はまばらだ。

 まだこの街に来て二週間も経っていない自分には、二階に座る権利があるはずだ——そんなことを自分に言い聞かせ、礼一はいつもの定位置に座った。水面に反射した光がキラキラと差し込み、船の出航と同時にわき上がった涼やかな風が、むき出しの肌を撫でていく。

 通勤時間は約二十分。

 街の中心から、心持ち離れた場所に、その店はあった。

 店の鍵を開けて中に入り、窓という窓を開け切ってから、ほうきとモップで床掃除を手早く終える。扉の立て札を「OPEN」にかえ、水で絞った雑巾で棚や商品、照明器具を一つ一つ拭いていたところで、扉についた鈴の音が鳴った。

 雑巾を握りしめたまま、礼一は顔をしかめて入り口を見やる。

「おはようございます、ハオラン。遅刻ですよ」

 開店時間から十五分ほど過ぎてやって来た青年に、礼一は半ば投げやりに声をかけた。

「こんな朝っぱらから、いったいどんな客が来るってんだよ」

 クリスの完全な趣味で運営されている怪しげなアジア雑貨屋。その唯一の同僚、李浩然(リー・ハオラン)が、あの日と同じ、面倒くさそうな顔で答えた。

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