3話

 セールになっていたティムタム——オーストラリアの国民的チョコ菓子——に伸びそうになる手をなんとか抑え、いくつかの果物と、よくわからないが何となく健康そうなミューズリーを選んでレジに通した。初めは戸惑っていたセルフレジでの量り売りにも慣れたものだ。

 そのことに少し気を良くしながら帰路につき、簡素な木の扉を開ける。その瞬間、礼一を待ち構えていたらしいイルカがぱっと礼一の前に躍り出て、その頬に自身の頬をすり合わせた。

「ただいま、いーちゃん」

 イルカの胸びれがパタパタと動く。その愛らしい様子に、思わずそのわき腹のあたりに手を添えた。この手を押し返す感触は確かにあるのに、空気に触れているような、境界が曖昧な不思議な感覚があった。開いた指の隙間から、イルカの光が柔らかく漏れ出している。

「……ねえ、いーちゃん。君はぼくに会いにきてくれたのかい」

 礼一の言葉に、イルカがそのつぶらな瞳で、何かを問うようにじっと礼一の目を覗き込んだ。

「どうして君は、ぼくのそばにいてくれるんだろう。何か、理由があるのかな」

 そうつぶやいて、じっとイルカの目を見つめ返してみる。どうやら答えをその目の中に見つけるのは難しそうだ。礼一はふっと苦笑を落とすと、わき腹においていた手でつるりとイルカを撫で、玄関へ続く螺旋階段を上った。

 夕陽が差し込む玄関を抜け、荷物をやや乱暴に部屋へと放り込み、空腹に促されるままに冷蔵庫を開ける。ひき肉とポテトとチーズ、やたら鮮やかな野菜炒め、アクアパッツァ、それに緑色をしたディップにスープ。ルームメイトが残していった惣菜を取り出しながら、礼一はどうしたものかと考えを巡らせた。正直なところ、このごちそうを前にしてしまったら、クリスが礼一を引き止めた理由など全てどうでもいいものに思えてくる。

 それでも彼を待つために、ソファ下のゲーム機を引っ張り出したのは、やはりハオランに同意されたことで、自分の中のルームメイトに対する疑問が、無視できないほど大きくなってしまったからだ。

 中のソフトを確認しないままゲームを起動させた礼一は、聞き覚えのある懐かしい音楽に思わず顔を上げた。目の前に展開されているのは、礼一の記憶が正しければ、今から二十年ほど前に日本で流行ったゲームのオープニング映像だ。最新のゲーム機用の改訂版が出たとは聞いていたが、まさかオーストラリアでお目にかかることになるとは。店の商品にしてもそうだが、クリスの趣味はけして悪くはない。ただ、とにかく古い物が好きで、かつ少々マニアックだ。

 あまりの懐かしさに、思いのほか熱中してしまったが、やはりいつの間にか寝てしまっていたらしい。

 ふと目を開いたとき、今ではだいぶ慣れつつある整った顔が、目の前にあった。

「ハイ、レーイチ。君の夢を邪魔して申し訳ないけれど、寝るのならベッドで寝た方がいい」

 ちょうど仕事から帰ってきたところなのだろう。セットされていたはずの鈍い金髪が、少し崩れかかっていてエレガントだ。

「ハイ、クリス。調子はどうです?」

 やや掠れた礼一の決まり文句に、クリスは肩をすくめてみせた。

「それが、思ったほど悪くないんだ。君の寝顔にうっかり癒されてしまった」

「はは、それは良かったですね」

 礼一の苦笑に、クリスもジャケットを椅子に放りながら笑う。

「同居人がいるというのは、やはりいいものだと思ったよ。それにしても、君がこの時間まで起きているのは珍しいね。ゲームで時間を忘れた?」

「ええ、うっかりしていました」礼一はクリスの様子をうかがいながら、さらっと付け加えた。「明日、いーちゃんが起こしにきてくれても、起きられないかもしれません」

 クリスの動きが、ほんのかすかに止まった後、何事もなかったかのように再開した。意識しなければ分からないほどの些細なものだったが、なるほど、ハオランの言う通りこれは普通のことではないらしい。

「イーチャンというのは、君が見えたイルカのことだね。君を起こしにきてくれるのかい?」

「ええ、毎日欠かさず。おかげで規則正しい生活が送れていますよ」

「君に、本当に懐いているんだね」

 言いながら立ち上がり、クリスがキッチンの方へと足を向けた。そして戸棚の中からガラス瓶に入ったハーブと、カップを二つ取り出す。

 どうやら特製ハーブティーのご相伴に預かれるらしい。

「そう言えば、ちょっと気になっていたんですが、クリスが見える生き物って、どんな子たちなのですか?」

 その問いかけに、クリスは困ったように「結構いろんな子の気配を感じることは出来るけれど、はっきり見える子の数は多くはないんだ」と答え、少し悩みながら続けた。 「鳥……? とか、馬? とかかな」

 彼にしては歯切れが悪い物言いだが、その気持ちはよくわかった。

 礼一が見える生き物のうちの一つは魚の尾を持つ鳥なのだが、当然図鑑には載ってはない。おそらく、何かの動物だと言い切るにはためらいを覚える姿をしているものも多いのだろう。

 そもそもイルカと魚にしたって、空気中を泳いでいるのだ。普通であろうはずもない。

 それにしても鳥と馬か、と礼一はしばし考え込んだ。

 共通点などあってないようなものだ。やはり、そこに何かの規則性を見ようとするのは無理があるのかもしれない。

 礼一は質問をかえた。

「クリス、ぼくが彼らを見えるようになったのは、この場所に来てからです。もしかしたら気づいていなかっただけかもしれませんが、少なくとも彼らの存在を認識したことはありませんでした」

 クリスが、ハーブティーの入ったカップを礼一に手渡しながら先を促す。

「あなたはいつから、彼らが見えるようになりましたか?」

「ぼくもはっきりと、その瞬間を説明できるわけではないんだけど」

 ハーブティーを口に含みながら、クリスが礼一の隣に腰掛けた。それに習って礼一もカップに口をつける。

「はじめは——そうだな、空気が動くときに、あれ、何か不思議な感じだな、と思ったのが始まりだった気がする。例えば風が頬をなでるとき、波が揺れるとき、草原の草がざわめく時にふと、今のは普通と違うな、と」

「普通と違う、ですか」

「うん。でもそれが何なのかは説明は出来なかったし、まあ気のせいだろうな、と思っていた。ただ、何となくその感覚が楽しくて、人には言わずに楽しんでいたんだ。ああ、今の風は違ったな、今のは普通の風だったなって」

 クリスの目が、遠くのものを眺めるようにふっと緩む。

「それがある時から、感情を持っているように感じられてきてね。楽しそう、だとか、慰められているのかな、とか。さすがにちょっと妄想が過ぎているだろうかと思い悩み始めたときに、鳥を見たんだ。普通ではない、鳥」

 礼一は、いつの間にか興味深く聞き入っていた。クリスがカップに視線を落とし、低く歌うように続ける。

「いつもの普通ではない風だと思って振り仰ぐと、鳥で——金色に輝いていた。青空に映えて、とてもきれいだったな……」

 クリスの目に深い憧憬の光が灯る。今でも輝く動物たちを目にするのだろうが、初めてそれを見た時の感動はどれほどのものだったのだろう。その表情が、ふっと苦笑に変わり、クリスは困った顔で礼一に向きなおった。

「君のケースとは全然違うから、あまり参考にならないな。ごめんね」

「いいえ」礼一はすぐにそれを否定する。「素敵な話をありがとうございます、クリス。あなたの大切な思い出を共有してくれたことに感謝します」

 年を重ねたからか、その時の彼の感動がわかる気がして、礼一は話の目的も忘れて聞き入っていた。感覚的なものの大切さをそれなりに学んできた今だからこそ、彼のその時の感動が本当に素敵なものだと思える。

 そんな思いを込めて、礼一はクリスの目をじっと見つめながら、静かに続けた。

「話を聞けて本当によかったです」

 そして、照れ隠しにカップを持ち上げて、ハーブティーを口にする。

 カップから口を離したところで、さりげなくクリスが礼一のカップを受け取った。男の手の下でソファが軋み、カップがテーブルに置かれた。

 カタリ、と静かにテーブルが音を立てる。——流れるような仕草だった。

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