第10話:二人の距離は、変わっていく。

 後ろを振り返る事なく、俺は車に乗り込んだ。


 落ち着かない。



 それでも振り返らない、振り返れない。それを見てしまったら俺は……。


 エンジンをかけ、車を走らせる。

 背中に残る感覚がさっきの出来事を、夢ではなく現実だと教えられる。小さな手に掴まれた背中、小刻みに震えていた手。


「はぁ……」


 溜息が車の中を埋め尽くしていく。派手に音楽でも流せば、現実逃避できるだろうか。


 そう思った俺は、カーナビに手を伸ばした。


 ジャカジャカとなり始める音楽。


 ……だが、好きな音楽でも耳障りでしかなかった。すぐに止め、エンジン音だけが聞こえる車内へと変わる。


 信号は赤。それが俺自身を投影しているように思えた。


 停滞。


 止まっている。進み出した一歩を立ち止まらせている。


「はぁ……」


 プップー!!


 後ろからクラクションを鳴らされ、我に返った。

 アクセルを踏んで、車を進める。


 それでも思考は止められないのだ。

 どうしたらいい。どうしたらいいんだ。


『変な期待させないでくださいよ』


 祐介の言葉が不意に過った。あいつは知っている、どちらの事も。だけどどちらの事を言っているのかまでは分からない。


 妙に刺さるのだ。あの目と声音。


「じゃあどうしろって言うんだよ!」


 意味もなくハンドルに怒りをぶつけてしまう。お前なら……お前ならどうするんだ、教えてくれよ……。





*****





「先輩! おっそい! タバコ買いに行くだけでどんだけ時間かかってんですか!」

「悪い……」

「……どうしたんですか」

「何でもない。ごめん」


 何に対する謝罪なのか、自分で言っていて分からない。


「先輩? 何かありました?」


 本当に察しが良すぎて困る。それ程までに俺はおかしく見えるか? 態度が、表情がそう思わせているのだろうか。


「何もない。ちょっとタバコ吸ってくる」

「嘘じゃん……見たら分かりますよ」


 蓮水の声を無視して、ベランダに出た。

 ベランダに置いてあるアウトドアチェアに腰を下ろし、タバコに火をつける。

 大きく吸って煙を吐くと、紫煙が風に乗って流されていく。


「先輩、これ」

「ありがと」


 蓮水は後ろから缶コーヒーを手渡してくれた。

 プルタブを開け、口へ運ぶ。

 コーヒーを渡すと、彼女は俺の隣にちょこんとしゃがんだ。


「花宮先輩ですか?」

「ブフッ!」


 図星を突かれ、コーヒーを吹き出してしまった。


「やっぱり図星かぁ……」

「なんでわかった……?」


「電話。お風呂で会話してたの少し聞いちゃいました。それからすぐ出て行った先輩が嘘をついてるのも何となく分かってましたよ」

「ごめん」


「全く信じられません。私と居るのに。……でも私は良い女ですので、許してあげる代わりに明日デートしてもらいますからね」


「雫っていい女だよな。年下の癖にさ、包容力っていうか、寛容っていうか……。俺のが年上なのに情けないわ」

「褒めても何も出ませんよ」

「褒めるとかじゃなくて、本音」


「私は先輩が好きなんです。好きだから許しちゃうんです。何もかも『いいよ』とは言いませんが、大抵は許しちゃうんです。それがいけないって分かっていても、嫌われたくないし傍にいてほしいから。私の良くないところだと頭では理解していても、行動に伴わないんです」


 本当は家に俺が帰ってくるか心配で落ち着かなかったのかもしれない。自意識過剰かもしれないけど、こう言ってくれてるからこそ、悪い事をしたと余計に思う。結局俺自身の気持ちは何処にあるのか。雫か花宮さん、それとも二人にそういう感情はないのだろうか。


 考えている時点で、どちらかなんだろう。整理が付かない。


「俺だったら嫉妬してる」


「もし私がそうなっていたら先輩はどうするんですか? 困りません? 付き合ってもないのに、勝手に嫉妬して怒って……。私だって人間ですからそりゃ嫉妬します……、黙って嘘ついて、花宮先輩の家に行かれたら。本当は……辛いんです……よぉ……わかってよぉ……ばかぁ」


 ぽこっと腕を叩かれ、気持ちが段々と零れるように鼻を啜り、涙を流した。


「本当にごめん。雫の気持ちを知っていながら、軽率な行動だった」


 彼女の頭に手を置き、優しく撫でる。

 これがいけないと分かっていても、そうしてしまう。


 結局自分は意気地なしで、どちらかを選ぶ事が出来ないのだ。好きという感情さえ、失っているように感じてしまう。


 目の前で涙を流している彼女に何もしてやれない。

 好きであれば、寄り添ってあげるのが普通なのかもしれない。だがそれも出来ない。これは花宮さんだとしても同じ事しかできないのだろう。


 どっちつかずだ。


「でもね、でも……先輩は今私の隣にいます。ちゃんと帰ってきました。何があったかは知りませんけど、ちゃんと私の隣にいます。だから今はそれだけで十分です」


 涙を瞳に浮かばせながら、ニカッと笑った。

 その笑顔が眩しくて、つい顔を逸らしてしまった。心の琴線に触れるようにドキッとしてしまった。

 今、俺の顔はどうなっているのだろう。


「なんでそっち向くんですか? もっと私を見てください」

「む、無理……」

「何でですか!」


 ばっか。顔が火照ってるからだよ!


「こっち向けぇ!」


 両頬をがっちりと掴まれ、無理矢理顔を戻される。


「ち、近いんだけど……」

「ちかっ、近づいてるんだから当たり前です……」


 俺達は何をやってるんだろうか。


「顔赤いぞ」

「先輩もです」


「当たり前だろ、こんな至近距離で顔近づけられたら恥ずかしいに決まってる」

「私だって同じですよっ! 悪くないですけどね」


「離してくれ」

「嫌です。もっと柊先輩が……見たいんです。触れていたい……例え恥ずかしくても————」


 何時しかも同じような事があった。


 他の誰もいないこの空間。


 それでも感じる初夏の風は心地が良くて。火照っていく体温を冷ましてくれる。


 受け入れてしまう自分もどうかしている気がする。

 それでも隙間を埋めてくれるような気がした。


 この中途半端な気持ちを。

 

 それは停滞している自分を無理矢理動かす為の、スパイスだったのかもしれない。







*****






 私の初恋は終わった。

 

 涙は止まらない。


 こんなにも辛いなんて想像もしてなかった。


「——先輩! ——宮先輩!」


 誰かの声が聞こえる。


「花宮先輩!!」

「山田君……」


 彼はとても心配そうに私を見ていた。


「全然戻って来ないと思ったら、何やってるんですか」

「……振られました」

「えっ……」


 そう、ついさっき終わった。


「佐伯君が来たんです。でも、ダメでした」

「とりあえず中で聞きますから、立ってください」


 山田君に手を引っ張られ、立ち上がった。

 涙は未だに止まらない。

 重力に引かれるように、ボタボタと下に落ちていく。


「僕の胸なら貸しますよ」

「……」


 何も言わずに、私は山田君に抱きついた。


「うぅっ……」


 顔を彼の胸に預け、嗚咽をこぼす。


「俺はいつもこうだな。佐伯先輩よりいい男だと思うんだけど」


 彼の手は私の頭の上に置かれ、ゆっくりと撫でてくれる。


「止まらなくなっちゃいましたか?」


 こくりと頷きだけを返す。質問の意図は分かっているつもりだ。


「でもさ、それでいいと思うんだよ。言わずに後悔より、言って後悔。俺はそっちのがスッキリすると思うんです。何も伝えられず、終わる恋ほど辛いものはないですから」


 自分は何も言わないくせに、一丁前にそういう事だけは言う。


「俺が言えることじゃないんですけどね。分かってますよ」


 口に出してしまったかと思った。


「どうですか? ちょっとは落ち着きました?」


「はい……」


「じゃあここでじゃなくて、家の中で抱き合いましょう」

「それは遠慮します……ありがとう山田君」

「いえいえ、佐伯には困らされますね。お互いに。あっ、今のも内緒でね」


 山田君から離れ、重い脚を動かして家の中へと入って行った。

 リビングに移動して、椅子に腰を掛ける。


「はい、コーヒーです」

「ありがとう」


 こうやって飲むコーヒーは佐伯君を思い出してしまい、また涙が出そうになるが必死にこらえた。


「お互い失恋ですかね」

「ですね」


「どうですか、いっその事、俺と」

「無理です」

「うわぁ、きっつー。あはははは」


 ケラケラと笑った。

 これも山田君の優しさなんだろう。


「私、気持ちが先走っちゃいました。なんかもう止まらなくて。帰ってきてほしかったんです。私の隣にいてほしかったんです」


「わかります」


「だからメールじゃなくて、電話をしたんですけど。会いたいって言っちゃって……」


「それで?」


「電話を切りました」


「は?」


「だって……そんなこと言っても迷惑だから」


「いや、もう言っちゃってるし……でも、来たんですよね?」


「はい。あの後の電話で外に出てって言われて。外に出たらいました」


 山田君は超嘆息を付き、肩を落とした。


「本当に振られたんですか?」

「はい。気持ちには答えられないと」


「ほんとかよ」

「本当です!」


 大声を上げると、ビクッと肩が跳ね、驚いた顔をした。


「びっくりした……」


「……すいません。私これからどんな顔をして、佐伯君に会えばいいんですかね」

「普通でいいんじゃないですか? 一緒に住む前に戻っただけです」


 あの日に戻るだけ。

 彼を好きになる前に戻ればいいだけ。


 言葉にするのは楽だけど、実際に出来るかどうかはまた別の話で。


 いずれ佐伯君は帰ってくる。


 その時、私はどんな顔をして、どんな気持ちで、どんな態度で、彼に接したらいいのか。

 

 いつも通りになんてできない。

 

 いっそ嫌いになれたらいいのに……。

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