勝敗の行方

 少し背の低いなじみの顎を持ち上げる。

 ゆっくりと、ゆっくりと、どちらからともなく顔が近づいていく。

 毛先が頬をくすぐり、鼻先も重なり合っていた。


 唇の距離はもう1センチメートルもない。

 なじみの乱れた吐息が、俺の肌を舐めるように流れてき、熱く火照った体温と混ざり合う。

 熱力学的にはもうキスしてるといっても過言ではない。そんな距離だった。


 そんな距離で、俺はためらっていた。


 これがなじみじゃなかったら、迷わなかったのかもしれない。

 普通の女の子だったらためらう理由はなかっただろう。


 でもそんなのは無意味な仮定だ。


 目の前にいるのはなじみだ。

 ただのかわいい女の子じゃない。

 幼い頃から一緒に過ごしてきた、ほとんど家族のような、世界で一番大切な女の子なんだ。


 なじみのためなら何だってできる。

 だからこそ、あらがいがたい欲望にもあらがうことができた。


 恋人同士でしたいことは後でいくらでもできるんだ。

 だから、今この瞬間だけは、俺はガマンしなければいけなかった。


 俺からキスすることはできない。

 なじみからキスをさせるんだ。

 それでこの勝負は決着する。晴れて結婚もできる。

 キスでも、その先のことでも、何でもできるようになる。


 ふれあうまであと数ミリメートル。

 吐息にすらさわれる超至近距離で、最後の一押しを与えるために、俺は口を開いた。


「なじみは俺とキスがしたいんだろ?」


 なじみが少しだけむっと頬を膨れさせた。

 せっかくそっちからしてくれるって思ってたのにこの期に及んでヘタるとかほんと男らしくない、と思ってる顔だった。つらい。


「そういうコウだって、どうしてアタシをこんなところに呼びだしたの?」


「わかってて来たんだろ?」


「全然わからないからコウの口から教えてほしいなあ?」


「そういうわりには、耳まで真っ赤だぞ。つまり恥ずかしいことをするってわかってるってことじゃないか」


「そういうコウだって顔が熱いよ。心臓の音だって全部聞こえてるんだからね。アタシとキスをしたくて仕方ないんでしょ」


「心臓はいつだって動いてるだろ。俺はなじみとキスすることなんて何とも思ってないから、今でも平常心だしな。でもなじみは違うんだろ?」


 なじみの顔がむむっとしかめられる。

 なじみの負けず嫌いな性格を考えたら、こんな風に挑発したら反発するに決まっていた。


「ぜ、全然そんなことないし。まったく意識してないから、キスくらい余裕だし。な、な、なんなら、してあげよっか?」


 意地を張ってそんなことをいう。

 そう言われたら俺だって引き下がれるわけがない。


「ほ、ほーう。俺だって全然意識してないから、キスくらい余裕だしな」


「ふうーん、あっそう。じゃあ本当にするからね……?」


「お、お、おう。俺はいつでもいいぞ」


「いっとくけど、本当になんとも思ってないからできるんだからね……?」


「わ、わかってるよ。俺だってなんとも思ってないから、全然気にしてないしな」


 ウソです。さっきから心臓がバクバクいってて破裂しそうです。

 そしてなじみの表情を見れば、向こうもウソをついてるのは明らかだった。


「……ねえ、ほんとうに、するの……?」


「……そりゃ、俺たちは一応、付き合ってるんだし、それくらい……」


「アタシ、不安だよ……」


 か細い声が響く。


「コウは、アタシとキスすることに、本当になにも思ってくれないの……?」


「そんなわけないだろ!」


 気が付けば声を大にしていた。


「大好きな彼女とキスしたくない男なんかいるわけないだろ。しかも相手は世界一かわいい女の子だぞ。そんなものしたいに決まってる」


「アタシだってそうだよ!」


 気が付けばなじみも声を上げていた。


「大好きな人とキスするのは女の子の夢なんだから! しかも相手がコウみたいにかっこいい男の子ならなおさらだよ!」


「……そうだよな。それが普通だよな」


「……うん、そうだよね。アタシたちなんでこんなに意地張ってるんだろう」


「わからない。でも今くらいは忘れていいんじゃないか」


 なじみがはにかむように笑った。

 相変わらず顔は真っ赤だったけど、でも、恥ずかしさとはまた別の温かな色だった。


「うん、そうだね。だってアタシたち付き合ってるんだし」


「そうだよな。どっちが好きとか嫌いとかじゃないよな」


「うんうん。だから、その、コウがしたくなったら、いつでもしてくれていいんだよ……?」


「そういうなじみだって、無理しなくても、したいならいつでもしていいんだぞ」


「そういうコウこそガマンしないで男らしくしたらどうなの」


「お、俺は別に、ガマンなんて、してないし……。なじみとキスとか、なんとも、思って……ない…………から………………」


「あ、あ、アタシだって、コウとキスしないなんて、全然、本当に、なんとも……うぅ……」


「本当は、なじみとキスしたいけど……なじみがキス顔で待ってるから……」


「アタシだってコウとキスしたいけど、コウがエッチな顔でアタシの唇ばっかり見てるから……」


「うう……」

「うう……」


 結局、そのまま俺たちは動けなくなった。

 やがてチャイムの音が響く。

 昼休みが終わる五分前の予鈴だ。


「チャイム、なっちゃったね……」


「そうだな」


「また授業サボっちゃう……?」


「どうせ数学だしな」


「ならこのままでいっか」


「このままでいいのか?」


「……。よくない」


 なじみが揺れるような動きで首を振り、そっとささやく。

 目の前の俺でもギリギリ聞こえるくらいの小さな声で。



「もっと近づきたい」



 心からの願いだとすぐにわかった。

 見栄も打算もすべて忘れて、本心からそれだけを望んでいる。


 そんななじみが愛しくて愛しくて、そのまま抱きしめてしまいたかった。

 残りわずかなこの距離を強引にゼロにしてしまいたい。


 俺だってそうしたいんだ。

 でもできない。

 ここで自分からキスしたら、ガマンできないくらい好きだと認めることになってしまう。

 それだけは、どうしてもダメなんだ。


 だけどこの状況でなにもせずに離れたら、それはそれでなじみを傷つけることになってしまうだろう。


 もし今なじみが平然と離れたら、本当に俺とのことをなんとも思っていなかったのかと、きっとめちゃくちゃショックを受けるだろう。

 そんな悲しい思いをなじみにさせるわけにはいかない。


 好きだから近づけず、好きだから離れられない。

 俺たちは一歩も動けなくなってしまった。

 やがて本鈴のチャイムも鳴る。

 ついに昼休みも終わってしまったらしい。


 そのとき、誰もいないはずの体育館裏に別の声が響いた。


「二人とも、授業はじまってますよ! こんなところでなにしてるんですか!」


 教育指導の斧塚先生だった。

 小さい体なのに、大柄の生徒にも臆することなく指導を行える熱心な先生だ。

 その体格と行動から、一部では「斧塚ちゃん先生」と呼ばれるくらいには人気でもある。

 まあとにかくそういう先生だから、俺たちを見つけてもすぐに注意をしてくれたらしい。


「こんな時間までなにを……って本当になにをしてるんですか!?」


 そういえば俺たちは顔をくっつけて抱き合ったままだったな。

 ほとんど触れそうでギリギリ触れてない距離だったが、先生から見たらくっついてるように見えるかもしれない。


「ねえ、見つかっちゃったよ」


「そうだな」


「離れないとマズくない?」


「だったらなじみから離れてくれよ」


「そんなことできないよ」


「そんなに俺のこと好きなのかよ」


「うん。だからコウから離れてよ」


「そんなことできるわけないだろ」


「そんなにアタシのこと好きなんだ?」


「当たり前だろ。大好きだよ」


「えへへ、アタシも大大大好きだよ」


「怒られた直後なのによくイチャイチャできますね!?」


 小柄な体が俺たちのあいだに割って入る。

 両手を伸ばすようにして俺たちを引き離した。


「不純異性交遊をするな、とまではいいませんが、授業はちゃんと受けてください!」


 まるで先生みたいな理由で怒られてしまった。まあ先生だしな。


 とはいえ感謝しないといけない。

 でなければ俺たちは一生あのままだったかもしれないからな。

 おかげでなじみともキスをしないですんだし。


 本当に感謝しないとな。

 本当に……キスを……しないで……。


 ………………。

 ………………。


「うあああ~ん……コウとキスしたかったよおおおおおお~っ!!」

「俺だってなじみとキスしたかったんだあああああああああっ!!」


 したいのにできない、近くて遠い俺たちの距離。


「本当に、なんなんですかあなた達は……」


 地面にふせってむせび泣く俺たちを前にして、斧塚先生が戸惑うように立ちすくんでいた。

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