第二話

「いつになったらここから出してくださるの? どなたか、話のわかる方はいらっしゃいませんか!」


 目の前に立ちはだかる冷たい鉄格子。

 それを両手でつかみ、莉璃りりは声を上げた。


 ――ここで、このようなことをしている場合ではないのに。


 そう。本来なら今頃、衣装の微調整や修正をしていたはずだ。

 なのになぜ自分は投獄されているのだろうと考えれば、途端に絶望感に襲われる。


「誰か……どなたかいませんか?」

 応えてくれる声はない。

 鉄格子越しに見える廊。その突き当たりにある扉の向こうには、警備の者が四、五人ほど立っているはずなのに。


 ――だめだわ。これ以上声をかけても、おそらく状況は変わらない。


 握った拳を鉄格子にあてながら、くずおれるように座り込んだ。

 牢に押し込まれる際に手荒く扱われたせいで、襦裙じゅくんのあちこちはぼろぼろ。体のそこかしこには擦り傷ができ、うっすら血がにじんでいる。

 どうにか抵抗しようと鉄格子に体当たりした結果、肩のあたりは打ち身で痛めてしまった。


 莉璃が今、閉じ込められているのは、御史台府ぎょしだいふの一角にある牢だ。

 罪を犯した官吏を一時的に拘束するのだろうと思える部屋が、三つ並んでいる。

 身分の高い者を収容する可能性もあるため、あまり質素にすることもできないのか、部屋の中に置かれた卓子や椅子は、繊細な柄が彫られた見栄えのよいものだ。床には薄手の絨毯が敷かれ、卓子の上には燭台が置かれている。


 一見して貴族の私室風。けれど窓がないため部屋の中は暗い。

 しかも廊側には一面鉄格子がはられていて、ここが牢であることを強調していた。


「お願い……お願いだから、誰か来て」

 祈るように呟きながら、鉄格子にもたれかかった。

 どれくらい時間がたったのだろう。三刻――いや、四刻くらいだろうか。寝不足と疲労のせいで頭の中がぼんやりしていて、時間の感覚を失ってしまっている。


 ――そういえば、零真れいしんはどうしているのかしら。


 ふいに彼の存在を思い出せば、胸が苦しくなった。

 あの時――ほう家の作業部屋で刻周こくしゅうに捕らえられた時、零真は莉璃の声に応えてはくれなかった。

 もしかして彼も、莉璃のことを疑っているのだろうか?

 この王宮で唯一、無条件で味方でいてくれると思っていた彼だからこそ、違うと信じたいのだが。


「……誰か助けて」

 ぽろりと本音をこぼせば、つい目頭が熱くなった。


 ――わたくしは衣裳を作りたいだけなのに。


 なぜ今、牢部屋に閉じ込められているのだろう?

 涙は今にもあふれてしまいそうで、莉璃の視界をぼやけさせる。

 けれど、泣いてたまるか、と歯を食いしばった。


 絶対に泣かない。こんな理不尽なことに負け、涙をこぼしてたまるものか。

 必ずこの窮地から脱し、貴妃の花嫁衣装を完成させてみせる。

 そして王家の花に選ばれるのだ。莉璃の、子供の頃からの夢を叶えるために。

 そのためには。


「お願い……誰か、話のわかる方をここに呼んでちょうだい!」

 誰か、誰か! と繰り返し叫べば、莉璃の脳裏に、王宮で出会った人々の顔が刹那的に浮かんだ。

 礼部のせい官吏、そう貴妃、主上、句劾くがい――次から次へとせわしなく浮かんでは、消えていく。

白影はくえいさま……」

 ふいに口からこぼれ落ちたのは、彼の名だった。


 こんな時だけ彼を頼ろうなんて、なんて勝手なのだろうと、自己嫌悪に陥る。

 彼が部屋を訪ねて来た際には素っ気なく応対し、仕事を続けられないのなら、どうにか彼との婚約を破棄できないものかと頭を悩ませた。

 だから自分は、彼に助けてもらう資格なんてないのだと、わかっていてもその名を呼ばずにはいられない。

 今すぐここに来て、この心細さから自分を救ってほしい、と。


「白影さま……」

 もう一度、声にした。

「白影さま!」

 今度は大きく、まるですがるように。


「――呼びましたか?」


 答えが返ってきたのは、予想外のことだった。

「え……?」

 まさか、と莉璃は目を瞬く。

 きっと気のせいだ。そんなに都合よく来てくれるはずがないわ、と。


 けれど慌てて顔を上げれば、目に映るのは琥珀色の瞳と白銀色の髪。

 少し怒ったような顔をした彼が、鉄格子の向こうに立っている。


「……どうしてですの?」

 とにかく驚いた。

「どうして呼んだらすぐ来てくれるのですか?」

「あなたを迎えに来たんです」

 白影は莉璃の前で膝を折ると、鉄格子の隙間からこちらに向けて手を出してくる。


「……罪な方」

 だってそうだ。この場面で呼んだら来てくれるなんて、反則だ。


 こんなことをされれば、彼の存在を心強いと思ってしまう。彼に心をゆるして、彼に頼ってしまいたくなるではないか。


「これは……莉璃姫、なぜこんなことになっているのですか」

 彼の長い指が莉璃の頬にふれた。

「ずいぶん怪我をなされて……永刻周に手荒くされたのですね?」

 親指でそっと頬を拭われ、初めて自分が泣いていることに気がついた。

「ですが、白影さまがお好きな髪は無事ですわ」

「そういう問題ではありません。それにもう、髪だけでは満足できないことに気づいたんです」

「え?」

 どういうこと? と、莉璃は首をかしげる。


「……私を呼んでくださったのですか」

 彼の手が、莉璃の頬、まぶた、額を順になでてきた。


「呼びましたけれど、でも本当に来てくださるとは思わなくて」

「どうにかすると言ったでしょう」

「ですが永刻周さまが、『ここは白影も立ち入れない場所だ』とおっしゃっていましたから」

 だからこそ今、白影が目の前にいることが夢のようだった。


「そんな規則はどうでもいい。あなたを連れていった彼が悪いのです」

 刻周にそうとう腹を立てているのか、白影は吐き捨てるように言った。

 彼の琥珀色の瞳の奥で、怒りの炎がちらちらと燃えている。


「白影さまは、わたくしのことを信じてくださるのですか?」

 どうかそうであってほしいと思った。

「わたくしがりゅう家の衣裳を盗んだと……そうは思われないのですか」

「何をばかなことを」

 白影はなかば呆れ気味に言った。

「私はあなたを信じます。今だけじゃありません。これからずっとです」

「ずっと?」


「莉璃姫……大切なあなた。これから先、あなたにどのような火の粉がふりかかろうとも、必ずや私があなたを守ると誓いましょう」


 その時、莉璃は打ち震えた。

 それは嘘偽りのない、彼の心からの言葉だと、そう思えた。


 たちまち鼓動が早くなって、やがて胸が痛くなる。

 彼のまっすぐな想いに、心を揺り動かされてしまいそうだ。


「白影さま、わたくしは……」

 それでも花嫁衣装の仕立てをあきらめることはできないので、あなたとは結婚できないかもしれません。だから守ってもらう資格なんてないのです。

 その言葉が、なぜか口から出てこない。

 まるで喉の奥に張り付いてしまったように。


「もう泣かないでください。今はあなたを満足に抱きしめることができません」

 白影は気を取り直すかのように、莉璃の頭をなでてきた。

「まずはここから逃げましょう」

「できるんですの?」

「主上の部屋から鍵をくすねてきましたから」

「そういうの得意なのですね……」

 彼の上衣の袷から、銀色の鍵の束が取り出される。

 しかしその時、廊の中に怒声が響いた。


「そこで何をしている!」

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