第四章 いたずらなくちづけ

第一話

 時は過ぎる。


 莉璃りりが王宮に入ってから十日が過ぎた。

 つまり明日の朝が貴妃の花嫁衣装の図案の提出日。締切は巳の刻の正刻ちょうどまでと取り決められていた。


「やはり母さまの衣裳に似せた案のほうが間違いないかしら……」


 蝋燭の火がちらちらと揺れる深夜。

 莉璃は仕事場で、二つの図案を左右の手に持ち、何度も見比べていた。


 右手にあるのはかつて母が製作した衣裳に似せた図案――月華館ならではの形だ。

 刺繍を満遍なく刺した生地を使用し、胸下から裾に向けて広がるような意匠にする。おそらくかなり豪華な印象になるだろう。


 そして左手にあるのは、貴妃にきっと似合うはずと莉璃が考えた、わりと独創的な図案だ。

 全体的にかなり細身だが、くんの腿の辺りから緩やかに膨らみ始め、裾にいたっては引きずるほどに広がる形となる。刺繍は裾に近づくほど多く刺す予定でいた。


 前者は豪華で古典的な印象。後者は華やかで大人びた印象の衣裳になるだろう。


 ――そう貴妃は均整のとれたお体をしていらっしゃるから。


 対襟の上衣を主にし、首元や胸元をあらわにした細身の衣裳がきっと似合うのではないか、と、後者の案も考えたのだが。


「……いいえ、やはりこちらだわ」


 さんざん迷ったあげく、莉璃は右手に持った衣裳の図案を選択した。

「母さまの衣裳に、可能な限り近づけたほうがいいに決まっているもの」


 かつて多くの花嫁が涙を流して喜んだ、月華館の――母の衣裳だ。

 独創的な細身の衣裳よりも、気に入ってもらえる可能性は高いだろう。


「お決めになられたのですか」


 ふと背後で低い声がした。

「ずいぶんと悩まれていたようですが」

 振り返ればそこには、数枚の書類を手にした白影はくえいが座っている。


「話しかけないでくださいませ」

「ひと息つく時くらいはかまわないでしょう?」


 言われて、たしかにそうだと納得した。

 莉璃が仕事を持つことを認めてくれさえすれば、彼とは夫婦になるであろう間柄なのだ。非社交的な態度ばかりで接していては、事態は好転しない。


「……白影さまはお仕事、終わられたのですか?」

 穏やかな口調で問うてみれば、彼は「いえ」と顔を上げた。

「これはただの調査報告書。仕事ではないのです」

 ちらりと見せられたそれには、細かい文字でぎっしりと何かが書かれている。


「結局、そちらの案は却下されたのですか?」

 白影はふいに卓子たくしの上を覗き込んできた。

「最初からこちらの案にしようと考えてはいたのです。こちらは予備というか」

「私は予備の案のほうに惹かれますが」

「え……なぜですの?」

「意外性や斬新さがあって目を惹かれます。なにより貴妃に似合いそうだ」

「あ、ありがとうございます」


 予想外に褒められれば、莉璃の胸の内は途端に浮き足だった。

 自身の髪を褒められるより何より、仕事を評価されるほうが何十倍も嬉しいのだ。


「ですが、なぜ予備の案も考えたのです?」

「いつもそうしているのです」


 そう。新たな衣装を製作する際、莉璃はいつも図案を二通り考える。

 ひとつは母の作品を真似た案。そしてもうひとつは、自身が好きに描いた独創的な案だ。

 けれど後者は、いつも誰にも見せずに机の引き出しにしまう。

 莉璃が目指すのは、『月華館の衣裳を着れば、必ず幸せになれる』とまで評された母の衣裳。

 だからこそやはり。


「こちらの案を明日、提出いたしますわ。これなら今度こそ、母さまのような衣裳が作れそうですから」

「……? 母親のような?」

 どういうことですか? と問わんばかりに、白影は眉をひそめた。


 よし、決まりだわ、と、莉璃はもう一方の図案を卓子の引き出しにしまう。

 息を吐きながら両手を天井に向けてのばし、ゆっくり下ろした。


 ――ようやく完成したわ。間に合ってよかった。


 口から自然と安堵の息がこぼれおちる。

 けれどすぐに、机上に数枚の紙を並べ、視線を落とした。

 衣装の前面や背面の図のほかにも、頸鏈けいれん耳環じかんやかんざしの案、さらに衣装の細部に刺す予定の刺繍の柄を描いてある。


 自分で言うのもおこがましいが、素晴らしく華やかな衣装の図案ができあがった。

 これならきっと、『何か違う』や『似合わなそう』と評価されることもないだろうと、机上の図案を眺めながら、ひとり悦に入った。


「一段落したのならまずは寝てください。もう何日もまとに寝ていないでしょう」

 白影が、やや怒ったような様子で言った。

 なぜ? と振り返ってみれば、やはり彼は不機嫌そうな顔をしている。


 莉璃が王宮に滞在するようになって十日。

 一応の婚約者である白影は、宣言どおり、毎夜、莉璃の部屋を訪ねるようになっていた。

 初日同様、この部屋に朝まで滞在し、ここから仕事に行くという生活をおくっている。

 だからこそ知っているのだ。莉璃がここ数日、いくらかの睡眠しかとっていないことを。


「莉璃姫、私の話を聞いていますか? 今すぐ寝てください、とお願いしているのです」

「もちろん今夜はきちんと寝台で寝ますわ。でも明日の準備もしなければならないし、片付けもしなくてはならないし」


 卓子の周りには、墨が入ったままの硯や汚れた筆、過去に製作した図案など、たくさんの物が散乱している。


「そのようなことは明日にしてください」

「ではこの本だけ。これだけ片付けます」

 大切な資料を抱えて立ち上がると、白影が苛立たしげに息を吐いた。

 彼は莉璃のあとを追うようにして立ち上がり、莉璃の右肩をとん、と押してくる。


「な、何をなさるの」

 そっと押されただけなのに、足もとは簡単にふらついた。

 両手に資料を持っているからだろう。平衡感覚を失い、背後に倒れ込みそうになる。


「やはり。もう疲労の極地でしょう」

「あ……」

 すんでのところで白影に抱きとめられ、そのまま体を軽々と抱え上げられた。

 気づけば膝の裏と背に、彼の腕がある。鼻先を、薄荷葉のさわやかな香りが掠める。


「何をなさるつもりですの!」

「いいから今は黙って。少しおとなしくしていてください」

「嫌ですわ」

「それはこんな男に抱き上げられるのが、ということですか? もしそうだとしても、今はどうか我慢していただきたい」


 って、そういうことではないのだけれど、と莉璃が考えている間に、白影はすたすた歩き出す。

 やがて降ろされたのは、莉璃の部屋の寝台の上だ。彼は莉璃の身体に毛布をかけると、腕を組んで凄みをきかせてきた。

「――さっさと寝てください」


 ああ、そうか。

 自分は心配されているのだ、と認識すれば、もう抵抗することなどできなかった。


「まったく……いくらなんでも根を詰めすぎでしょう」


 ふと寝台が軋み、白影の声が近くなった。

 彼は寝台の端に腰を下ろし、呆れたように腕を組んでいる。

「あなたは、いつもこんなにも夢中で仕事をしているのですか?」


 莉璃は「ええ」とうなずいた。

 月華館にて、客に図案の提出をする直前であれば、やはり今回と同じように徹夜を繰り返すことは常だった。


 莉璃の目に、白影の凛とした後ろ姿が映る。

 下ろされたままの白銀色の髪が、蝋燭の火に照らされ、時折金色に光る。


「……主上と貴妃が気に入ってくださるといいですね」

「? 何をですの?」

「あなたの図案です」

「え……どうしたんですの、急に」


 莉璃が王家の花に選ばれては困る。

 そう考えているはずの彼なのに、なぜ優しい言葉をかけてくれるのだろうか。


「あなたが四苦八苦する姿を見てしまったので」

 白影は相変わらず背を向けている。

 だから彼がどのような表情をしているのか、莉璃からは見て取れなかった。


「……ありがとうございます」

 彼の想いを素直に受け入れれば、なぜだか胸の内がほのかに温かくなった。

 それで気が抜けてしまったのだろう。疲れ切った体から、徐々に力が失われていく。

 彼に自分の努力を認められ、満足してしまったのかもしれない。なにせこの三日間、ほとんど睡眠をとらずに卓子にかじりついていたのだ。かなりの疲労が溜まっている。


「ですが、勘違いなさらないでください。だからといって、あなたの仕事を認めるわけにはいきません。今件が無事に済んだのちには必ず私の妻になっていただきますから、どうぞ今からお覚悟を」

「ですからわたくしは……」

 仕事をあきらめるくらいなら、あなたとは結婚いたしません。

 もう何度目かわからない台詞を口にしようとした。


 けれどおっくうになってやめる。

 まぶたが重くなり、視界がぼやけ始める。

「わたくし、眠くなってしまって……そろそろ休みますので、今日こそ帰っていただけますか?」

 絞り出した声にはあくびが混じった。


「寝てください。朝までまだ時間はあります。私が責任を持って起こしてさしあげますから、今はゆっくりお休みください」

 夢か現か。白影の大きな手に、前髪をそっと撫でられたような気がした。


「でしたら白影さまも……」

 向こうの部屋で休んでください。

 そう言い切るより先に、莉璃は巨大な睡魔にのみこまれていったのだ。

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