あの男に会いたい。


そう思うと居ても立ってもいられなくなった女は、すぐさま行動に移った。

まずは現在の男の住所を調べ上げ、思い切ってその近くのマンションへと引っ越した。

幸いにも男は高校生活を送っていた当時と変わらず、ずっと地元で暮らしていたようだった。


それから男の様子をこっそりと窺う生活を一ヶ月ほど続け、やがて男がほとんど自宅と会社を往復するだけの生活を送っていること、そして朝は何時に家を出て、どれくらいの間家を空けて、何時に帰宅するのか、パターン化した暮らしぶりから簡単に知ることができた。


女はごく普通のコピー用紙に『同窓会の御案内』などとそれらしい文章を書き綴ってプリントアウトした物を、男が帰宅する30分前に郵便受けに直接入れて、少し離れた場所に身を潜めながら男の帰りを待った。

それから30分、ほぼ時間通りに帰って来た男は、郵便受けから取り出したその用紙をチラリと見て、特に不審に思ったような様子もなくそのまま家の中へと入って行った。


こんな物で男を誘い出せるとは思っていなかった。

だが男は指定された場所に、時間ぴったりに現れた。

男が入口の前に立ったところで、外でこっそりと様子を窺っていた女は声を掛けた。

ここへ来る前に想像していた通り、男は自分の名前を呼ばれたことにびっくりしていた。

改めて近くで見ると、これも想像していた通り、男は高校生の頃から少しも変わった様子はなかった。

もちろん外見の細かな所は女と同じだけの月日を重ねたことがわかる程度の変化をしていたが、常に俯きがちで、注目されると酷く居心地が悪そうにしている様子など、当時と重なる部分のほうが多かった。

敢えて変化したところを挙げるとすれば、男の表情や空気のようなものが、当時よりいくらか草臥れた印象を受けたというくらいだった。

そんな男に、女は自分の名前と、かつてクラスメイトだったこと、そして当時、教室の隅で読書をしていた自分が、同じように本を読んでいた男に対して特別な想いを抱いていたことを話した。


10分程立ち話をしたところで、女は男に二人で抜け出そうと提案した。

ここが同窓会の会場というのは真っ赤な嘘で、そもそも同窓会を開くという話自体出鱈目だったので、中に入られる訳にはいかなかった。

男はかなり動揺した様子で、僅かに目を伏せ、ぎゅっと拳を握り締めて………そして、しばらくの逡巡の後、「そうだね………行こうか」と返事をした。


その答えは女を驚かせた。


けれどそんな女以上に、男は自分自身の言葉に驚いた様子だった。


「行きましょう」


男の気が変わらないうちに、一刻も早くこの場を立ち去るべく、男の手を両手で包むように取ると、女は精一杯のさり気なさを装って、微笑んでみせた。

ずっと固く握り締めていた男の手はひんやりとしていて、不自然に指を伸ばしたまま、固まっていた。

まるで人形の手みたい――――女がそんなことを思っていると、不意に、その手がそっと握り返された。


女は男の自宅に上がり込むことに成功し、その翌日から、2人での生活が始まった。

男は自分の家の中を隅々まで掃除されて、家具の配置を好き勝手に変えられたり、挙句の果てには女の私物が次々に持ち込まれ部屋の大部分を占めるようになっても、全く口出ししなかった。

男は女に対してどこまでも従順だった。

女にはそれが新鮮で、いまだかつてない衝撃のようなものを感じていた。


これまで女が尽くしてきたのは、日常生活の世話のすべてを押し付けてきたり、まるで召使いや奴隷のように扱ったり、時には酷い暴力を振るうような連中ばかりだった。

そんな奴らは決まって、女を自分の“モノ”のように扱い、そしてある日突然捨てる。女が求める愛情を返さぬまま。


けれど男は違った。

こんなにも自分の思う通りに、胸の内から次々に溢れ出る愛情を注ぎ続けられる人間に出会ったのは初めてだった。

そんな男の世話をしていると女はしばしば物静かで大人しい、手のかからない息子を相手にしているような感覚になった。

その感覚が、女を喜ばせた。


私はこの男に必要とされている。この男には私がいなくては駄目はなんだ――――。


けれど、いつまで経っても母親と息子のような関係でいるわけにはいかなかった。

男は自分の気持ちを表現するのが極端に下手で、時々何を考えているのかわからなくなることも少なくなかった。

それでも女は、男がごくたまに自分を異性として意識している瞬間があるのに気付いていた。

女はその一瞬を見逃さないように常に気を配り、その時が訪れたら、さらにこちらに意識を向けられるように行動した。


男は滅多に感情を表に出さない。

けれど女にはわかっていた。表面からは見えないだけで、その水面の下にひとたび潜れば、様々な感情や想いが複雑に、荒々しく渦巻いていることに。


女も同じだった。

ただ女はそれを誰かに理解してほしくて激しいまでに表現するが、他人の目を気にし過ぎる男にはそれができない。

人知れず、静かに、密かに閉じ込め続けたそれは、きっとどうしようもなく渇き、飢えきっているに違いない。

男は他人から与えられる愛情に慣れていない。

たとえ男がこれまで、ごくありふれた家庭の中で両親からごく普通の愛情を注がれ、育てられたとしても、当の本人にその自覚がなければ何の意味も成さない。


「私ね、子どもがほしいの」


目に見える形であれば、きっと男も自分に向けられた愛情を正しく理解できるはずだ。女はそう考えていた。

だからこそ、子どもという存在は重要だった。

これ以上に2人の愛情を確かに形にできる手段があるだろうか。


最初に子どもがほしいと告げた時、男は優しく、「そうだね、僕もそう思うよ」と微笑んでくれた。

その答えに女は満足していた。やはり夫も同じ気持ちだったのか、と。


けれど、その時から二人の間に目に見えない溝のようなものが、ゆっくり、深々と広がるようになっていった。

何故かはわからない。ただ、避けられているという、空気のようなものを感じた。


女は焦った。どれだけ女が子どもを望んでいるか話せば話すほど、男の気持ちが自分から離れていくような気がした。

女にはその原因がさっぱりわからなかった。

仕事で疲れているから、と早々に背を向けて寝入ってしまった男のうなじ辺りをじとり、と睨むように見つめながら。


期待を裏切られたことへの怒りと、けれどそれ以上に自分を見てはくれないという寂しさから。

それらは暗闇をじわりと滲ませると、瞬きさえ忘れた目から一筋、また一筋と、熱い雫となって溢れ落ちた。


その瞬間、女は決意した。


嘘でも何でもいい。

ただ一度、私を見て、そして。

きっとあなたは、笑って、私を抱きしめて。


「おめでとう。これからは3人で、幸せになろう」


そんな言葉をかけてもらえると、信じて疑わなかった。



結果として、その願いは叶わなかった。



『子どもができた』という言葉だけで気絶するような無責任で、さらに愛する妻の“ちょっとした可愛い嘘”に対して烈火のごとく怒りだし暴言を吐くような、器の小さい男。

これが自分の全てを尽くして愛してした男で、子どもを授かりたいと願った夫なのかと思うと、どうしようもなく情けない気持ちでいっぱいになった。


一体私は何の為に、こんな“つまらない男”と一緒になろうとしていたんだ。

全て台無しだった。何もかもお終い。

結局この人も、私を愛してなどいなかった。

そして、そんな男に馬鹿みたいな夢を見て、愛情も時間も、これまでの人生の全てをかけて注ぎ込んできて、それが一番の幸せだと信じて疑わなかった自分が、堪らなく惨めで、哀れで――――――死ぬ程、悔しくて、仕方なかった。




「嘘つき」



恐怖と、憎しみと、それから悲しみがいっぱいに入り交じった――――そんな、深い深い色に濁った目で――――女が最期に見た男の顔は、




ああ、もう、全てが滲んで、



ぼんやりと、



して。






――――何も、わからない。


 



 


…………………。


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