第6話
「お帰りなさい、あなた」
はっとして顔を上げると、そこには何一つ変わらない妻の姿があった。
「ああ………ただいま」
反射的に返事をして、まじまじと妻の顔を見詰める。
妻は「どうしたの?」と照れたように笑う。
「遅かったわね、こんな時間までお仕事大変だったでしょう」
妻にそう言われて、たった今仕事から帰って来たといわんばかりの自分の恰好に気が付く。
「お腹空いてるわよね?待ってて、すぐお夕飯の準備するから」
いつものように優しい微笑みを残し、妻はくるりと踵を返して部屋へと入っていった。
その背中をゆっくりと追いながら、男も部屋に入って行った。
キッチンでは妻がせっせと食事の準備を進めていた。
男はテーブルのそばでぼうっと立ち尽くしたまま、忙しなく動き回る妻の姿を目で追った。
先程から、うたた寝しているところで突然揺り起こされたような、軽い混乱が続いている。
状況から見て、おそらく男は仕事から帰宅したばかりなのだろうが、何故かそれ以前の記憶がすっぽりと抜け落ちている。
思い出せる最後の記憶は、『あの店』だった。
そこから、ぶつ切りの場面同士を無理矢理繋ぎ合わせたような綺麗な違和感で、現在に繋がる。
まるで悪夢の最中で飛び起きて、唐突に夢から醒めたような感覚だ。
そしてたった今まで見ていたはずの夢の内容が目覚めた瞬間から忘れていくように、もやがかかった記憶はどんどん遠ざかって消えていく。
私は、夢でも見ていたのか……?
そうこうしているうちに、食卓は様々な料理が盛り付けられた皿で瞬く間に埋め尽くされ、まるで何かの祝い事やパーティーでも始まるのではないかと思う程華やかになっていった。
「お待たせ、これで最後よ」
テーブルの中央に綺麗にラッピングされたケーキボックスを置いて、妻は突っ立ったままの男に座るように促した。
「本当はまだスープがあるんだけど、テーブルの上いっぱいだから、また後で持ってくるわね」
「これは………すごい料理の数だな。今日何かあったかなぁ………?」
「あら、何か特別なことがないとご馳走作っちゃ駄目なの?私だって色々料理できるのに、特別な日だけなんて勿体無いじゃない」
男は改めてテーブルの上に盛り付けられた料理達を見た。
一人で作るには大変な量であることには間違いないし、いくつか凝った料理も並んでいて、盛り付け方や飾り付けに至るまでどれも美しく仕上がっている。
私の妻は、こんなにも料理が上手かったのか……。
毎日食べていたのだから、妻の料理の腕くらいわかっていたつもりだった。
いつも妻の料理は美味いし、男の健康を気遣い、バランスの摂れた食事を用意してくれた。
妻の全てをわかっていたはずなのに………それでも男は、自分の妻である女の料理の腕に改めて感心した。
「さぁ、食べましょ」
「ああ………いただきます」
美味しい。
妻の作った料理はどれも男の好みの味付けで、妻と暮らすようになってからすっかり慣れ親しんだ味に、張り詰めていた緊張の糸が解れるような安堵感が広がった。
どうやら余程疲れていたようだ。
そのせいでぼんやりしているのだろう。
「美味しい?」
「ああ、美味いよ」
「そう、美味しいのね…………良かった」
目を細めて微笑む妻の笑顔に釣られて、男もぎこちなく笑う。
何だか今日の妻はやけに機嫌が良い。
「君は食べないのかい?せっかくのご馳走なんだから、二人で一緒に食べた方が美味しいと思うんだけど………」
「あなたの為に作ったんだから、私はいいの。…………それに私が食べても、意味無いもの…………」
沢山の料理に彩られたテーブルの向かい側に座る妻はそう言って、男が食事する様子を眺めていた。
妻の言葉に微かな違和感が過ぎるが、その正体が何なのかわからず、男は一先ず納得した様子で食事を続けた。
「そろそろスープ持ってくるわね」
「いや、でも………」
男の言葉を遮るように「いいの、いいの」と優しく制して、妻はそそくさと席を立って行った。
男はテーブルの上に並べられた食べきれない程の料理を見ながら、妻に聞こえないように小さくため息をついた。
まだまだこんなに残っているのに、さらにスープまで追加されては腹が持たない。
ちらりとキッチンの様子を伺うと、どうやらスープを温め直しているところのようだった。
男はもう一度小さくため息をつき、そっと席を立った。
別にこそこそする必要はないが、鍋のスープを掻き混ぜている妻の背中は見るからに上機嫌で、申し訳ない気持ちにちくちくと胸が傷んだ。
「なあ………そのスープ、もうお腹いっぱいだから、また明日――――」
妻がくるりと振り返る。
きょとんとした妻の顔の向こうから、“ふっ”と視線を感じた。
鍋の中身と目が合った。
えっ?
おかしなことが起こった。
今、自分は何と思った?
スープと、目が合っただって………?
どういうことなのか。
男はつい反らしてしまった視線をもう一度鍋に戻す。
そこにはごろごろと野菜が浮かんだスープが、クツクツと音を立てているだけだった。
「え?なに、どうしたの?」
妻が不思議そうな顔で覗き込んでくる。
男は呆然としたまま、「いや、何でもないよ……」と踵を返した。
今のは、何だったんだろう?
幻でも見てしまったのだろうか……。
「あなた、顔色が悪いわ。ひょっとして具合でも悪いの?それとも、私の料理、美味しくなかった………?」
妻が心配そうに男の顔を覗き込んできた。
その表情から、妻が夫の体調を心から気遣っていること、そして、自分の非から夫を煩わせているのではないかと不安げに思っていることがありありと伝わって………その顔を見て、どうしようもない愛おしさが込み上げた。
「本当に何でもないんだ。ちょっと仕事の疲れが出ているのかもしれないけれど………君の料理は本当に美味しかった。料理だけじゃない。家のことは完璧にこなしてくれるし、いつも僕を気遣ってくれている………これ以上の幸せはないよ」
「ちょっと、なに?急にそんなこと言って、照れるじゃない………」
照れ笑いを浮かべながら視線を逸らす妻の両肩にそっと手を置き、無言で見つめれば、妻もおずおずと男を見詰め返した。
「憂子、いつもありがとう。君と一緒にいられて、僕は本当に幸せだ」
妻の潤んだ瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
男は両手を添えて妻の顔を包むようにすると、親指の先で優しく涙を拭った。
涙はちっとも止まらなかった。
だから男は妻を目一杯抱き締めた。
妻はわんわんと、声をあげて泣いていた。
よしよしとまるで子供にするように妻の頭を撫でて、その手を柔らかな髪に滑らせ、頬に触れて、唇を寄せた。
「お帰りなさい………やっと、帰ってきてくれたのね………!」
妻にとってそんな言葉が出るほど、いつしか男との間に大きな気持ちの距離ができていたのだろう。
「今まで、本当にすまなかった。僕はどれだけ君を傷付けたことか………どんなに謝ったところで、決して許されることじゃないのはわかっている。けれど、何度でも謝らせてくれ。許してほしいとは言わない。ただこれからも、ずっと君の傍で、生きていきたい。君の望むとおり、新しい家族と一緒に………」
いつの間にか、男もぼろぼろと涙を零し、泣いていた。
情けないくらい涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で、それでも、精一杯の気持ちを込めて、いままで伝えきれなかった言葉を、必死で訴えた。
そんな男の手を、妻はそっと両手で包み込むように取ると、ゆっくりと首を横に振った。
「もういいのよ。あなたの気持ち、じゅうぶん伝わったから」
ありがとう、あなた。愛してるわ。
今度は男が泣きじゃくる番だった。
まるで迷子になった子供が、ようやく母親の許に戻ることができ、長い不安と孤独から一気に開放された時のように、わんわんと泣いた。
そして妻は、そんな子供をあやす母親のように、自分よりひと回り大きいはずの身体を縮こませ、泣きじゃくる男の背中に手を回し、ぎゅうっと抱き締めていた。
そうして男の涙が止まり、落ち着きを取り戻すまで、そのままでいてくれた。
男は今更ながらその状態に恥ずかしさを覚えて、そのひどく心地良い感触や温もりを名残惜しく感じつつも、ゆっくりと身体を離した。
ふと、目が合い、お互いに『ふふっ』と小さく笑い合った。
さて、何と言うべきか。
このくすぐったい気持ちから、男はまず何と口にすべきか、迷った。
とりあえず、『食事の続きをしようか?』――――それとも、『場所を変えて、もう少し話そうか』だろうか。
「またあなたと新しい気持ちで始められる。ねえ、あなた。これで最後だから、お別れの挨拶してあげて?」
最初に口を開いたのは妻のほうだった。
やれやれ、やはり妻には敵わない。
それにしても、お別れの挨拶とはなんだろう。
けれど男はあまり深くは考えず、「そうだね、これで最後だものね」と頷いた。
きっと気持ちを新たにこれからの生活を送るのに良い区切りになる、再スタートの為のけじめや、儀式のようなもののことを言っているのだろう。
妻に手を引かれ、たっぷりのスープで満たされた鍋が置かれたコンロの前まで移動する。
「よく見て」という妻の言葉に従い、鍋の中を覗き込む。
すると、
スープ鍋の真ん中にプッカリと浮かんだ、男の頭部と、目が合った。
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