第7話

――――男の喉から声にならない悲鳴が上がった。


反射的に妻の手を跳ね除けて飛び退き、勢い余って後ろにあったテーブルに思い切りぶつかった。

背後でいくつか食器が割れる音が響いた。

だが、今はそんなことに構っていられる余裕などない。

男には確かめなければならないことがあった。

今にも腰が抜けて倒れそうなところを必死で踏み止まり、男は髪ごと鷲掴みにするように自分の頭に触れた。

それから顔中をペタペタと、執拗に、何度も何度も手を這わせ回った。


ある。顔がある。私の顔はここにあるぞ………!


では、あの鍋の中にある頭部は何なのか?

凄まじいパニックで、身体中から汗が噴き出し、ガタガタと全身の震えが止まらない。


「あらあら、そんなに震えちゃって、可哀想に。でも安心して、それはあなたの“頭”だけど、あなたとは“別の頭”なの」


うふふ、と少女のように無邪気な笑みを浮かべる妻に、男は理解が追いつかない。

妻は何を言っているのか。

訳がわからず呆然としている男を他所に、妻はテーブルの中央に置いてあったケーキボックスの蓋をすっと引き上げながら、ニコニコしている。


笑っている………。


「何が………そんなに、楽しいんだ………?」

「楽しいわよ。だって、ケーキ………そう、誕生日ケーキみたいなものだもの」


ぼそぼそと独り言のつもりが、妻からはしっかりと返事があった。

けれど男には、その言葉にどんな意味があるのかわからない。

考えようにも、目の前で次々と起こる事態に思考が追いつかない。

ただ、妻の姿を目で追うことしかできなかった。

そんな男の目に映った、真っ白な箱の中から顔を覗かせたモノ。

それもまた男の頭部だった。

ひいっ、と男の口からまた悲鳴が上がった。

一緒に敷き詰められていたらしい薄桃色の小さな薔薇がテーブルの上に散らばって、それらは料理が盛り付けられた皿の中にも零れ落ちた。


トマト煮込みのロールキャベツ…………特別な日に妻がよく作ってくれた、男の好物のうちの一つ…………少し冷めてしまっただろうか…………こんな時なのに、ついどうでも考えばかり浮かんでしまう。

そうでもしなければ、目の前で起こっている事態にとても耐えられない。


どうしてこんなことになってしまったのか。

あんなに幸せな食卓を囲んでいたのに………。

別の頭とは何だ?

そんな嘘みたいなことが、信じられるわけがない。

この家で、特に毎日妻の手料理がテーブルに並べられる食卓は、男にとって幸せの象徴と呼べる光景だった。

それが目の前でぐずぐすと溶け落ちるように崩れていく。


私の愛する妻の手で作られた料理で、私の愛する妻が作った料理が壊されてゆく。


何と言うことだ。

そんなことがあるはずは…………


そんな……………

















…………………………………………………………料理?





スープの鍋。

ケーキボックスの中。


そして、

食べきれないほどの、



たくさんの料理“達”―――――。




「やっと、気付いてくれたのね」



妻が少女のように笑っていた。


「全部、あなたのためよ。あなたに食べてもらうために、たくさんのあなたで作った、あなただけのお料理なの」



何を。なにを、言っている。

妻は、何を言っているのか?

全く理解できない。

妻はおかしくなってしまったのか。


男と瓜二つの顔を持つ頭部が二つも存在し、さらに妻は“たくさんのあなた”で作ったと言った。

テーブルの上に隙間なく並べられた料理の数々…………これにもし、妻の言う“たくさんのあなた”が、全ての皿に満遍なく使われていたとしたら。


私が、つい先程まで食べていたのは、“私自身”だった………?


何。なんだ、それは。一体。



「あるお店でね、お願いしてつくってもらったの」



嗚呼、何ということだ。

その店の事なら知っている。

妻の肉の複製を作り出し、調理し、極上の料理へと変えてくれる店――――。

妻を思うばかりに、私の妄想から生まれた、現実には有り得ない架空の存在。そのはずだった。


男は必死で考えた。


この状況。男が見た夢や、妄想の物語。愛する妻。

自分という存在。そして今。

思考する。目を見開く。震えの止まらぬ身体。

それが、果たして他ならぬ自分自身の肉体であるという確信が、有るのか、無いのか。


現実、夢、妄想。

一体、何が正しいのか。


がくんっ、と脱力した身体が、膝から崩れ落ちるようにして床に倒れ込んだ。

両手を着いて、綺麗に磨き上げられたフローリングの床を見下ろす。綺麗好きな妻は、掃除に一切手を抜かない。

妻のほっそりとした指が、するりと男の首筋を撫でた。

ゆるく巻き付くそれに、まるで蛇が這っているような錯覚に襲われ、ぞわりと全身の産毛が逆立つ。

男は動けない。この女が怖い。

やがて女は男の背中にぴったりと身体をくっ付けると、男の耳元でこう囁いた。


「あなたが悪いのよ。私を拒むから。これは罰よ」


ふふ、と笑うような気配がして、首筋にじっとりと絡みつくような吐息が熱い。

次に、恐らく唇を滑らせているような感覚。

がり。痛みは感じない。全くの無痛ではない。感覚はある。けれど、それ以上に恐ろしいものがそこにはあった。


男は渾身の力を振り絞って女を突き飛ばした。


立ち上がろうとしたが足が縺れ、男は仕方なく尻餅をついた姿勢のままじりじりと後ろに下がった。

女は床に伏せったまま動かず、妻のお気に入りだった、少しくすんだ薄桃色のスカートから伸びた両足が妙に生めかしく見えた。


「ほら、また私を拒んだ。だからいけないのよ」


ずるりと亡霊のように身を起こした女がこちらを見た。

私を拒んだ罰………女は呪文のように、そう繰り返した。

うっとりと、蕩けるような笑みを浮かべながら。


「なあ………答えてくれ………君は私の愛する妻なのか?本当に、あの憂子なのか………?」


何かの間違いであってほしかった。

確かに妻は多少ヒステリックなところがあったが、たとえ男に一切の非がなくとも、こちらが謝ればすぐに機嫌を直してくれたし、なによりそんな事が些細なものに思えるほど男にとって女は完璧な妻だった。

何よりも夫を優先し、心から尽くしてくれる、まさに理想の妻。



「あなたの憂子は死にました。あなたが殺したんです」



蕩けそうな笑顔から、ふっ、と一瞬真顔になると、妻はうっすらとした微笑みを浮かべた。

そして、まるで眠りに就く前の小さな子供に物語りを読み聞かせるようなやわらかな声で、そう告げた。


「最初に“こんなふうにした”のはあなたよ。私はただ、あなたと同じことをしただけ」


まさか――――。


その瞬間、頭の中の何かが、“ぐらり”と歪んだ。


いけない。それに気付いては駄目だ。



「往生際が悪いのね。全部思い出したくせに」


激しい混乱の片隅、何かが触れた。柔らかな感触。続いて、熱と、じっとりと湿り気を帯びたモノが“ぬるり”と這入ってきて。それにどんな言葉も音さえも塞がれ、閉じ込められて、ああ。呼吸さえも。


「………ふふっ、不思議。私を裏切ったあなたなんか、もう絶対に好きになれないと思ってたのに。今は、こんなにも愛おしい」


憎しみも、恨みも、嫌悪感も、信じられないくらい溢れ出しそうなのに、本当、不思議ね?


微笑っている。


男の知る顔で、しかし全く別の、男の知らないカオで。


「あなたも私もお人形。肉の塊を繋ぎ合わせただけの。けれど、身体だけは人間よ。中身は、どうだか判らないけど。でも、こうして会話もできるし、手足だって思いのまま動かせるし。

ね?ちゃんと人間でしょう。生きてるって、言えるでしょう?」


そんな筈あるものか。

ただの肉のパーツをくっ付けて繋ぎ合わせただけの、肉の人形。

そんなモノが人間と呼べるはず無いじゃないか!



『人間には血も肉も骨もあります。そして、首から上だけになって喋ることが出来る人間など、存在しません。

ましてや中身が空洞な人間など、有り得ないのです』



黒服の言葉は何も間違ってなどいなかった。

やっと目が醒めた。

男は自分の身勝手な理不尽さで妻を殺し、その罪の意識から逃れる為、妄想の世界に逃げ込んだ。

自分は妻を殺してなどいない。そもそも人間はバラバラにしても修理可能な人形で、人間が“死ぬ”という概念すら間違いであると――――。

だから男は妻の肉料理を食べたあと、また新たに妻の肉のパーツを注文し、さらにそれらを人の形に繋ぎ合わせるよう、あの店に依頼した。


あの不気味なオブジェのような動物から生えていた、人間の部品から。

人間の模造品に組み立て…………それがあたかも、本物の妻であるかのように、悪趣味極まりない“ままごと”に興じていた。

嗚呼、なんとおぞましい………!


「子供はね、もういいの。あなたがこうして、服を着て、歩いて、食事して、話して………ここまで元通りになるまで、あなたのお世話をしていたら、もう子供なんてどうでもよくなっちゃった。赤ちゃんみたいなあなたを育てられて、わたしは、いままでの人生で一番満たされているの」

「もし今度も間違っても、また壊して、つくり直せばいいんだもの」

「そうしてまた、始めからやり直せるのよ。それって、とても素晴らしいことだと思わない?」

「これから先、きっといつか喧嘩したり、擦れ違ったり、うっかりまた殺しちゃうこともあるかもしれないけど、でも、いいの。それでまた、新しいあなたと出会えるなら」

「私が何度でも教えてあげる」

「さあ、お別れのご挨拶よ。古いあなたを残らず全部食べて、新しいあなたのなかに全て残すの。そうすれば、あなたはどこにもいかないでしょう?」


私を裏切ったあなたを、全部残らず食べてね。

私を裏切ったあなたなんかもう要らないけれど、それじゃあ、あなたは解ってくれない。

古いあなたを、新しいあなたが食べる事で、あなたがどれだけ私に酷い事をしたか解るでしょう?

あなたが悪いのよ。

それでも私はあなたを愛してるわ。

だからどんなに悪いあなたでもチャンスを与えるの。

これも愛よね。

私はあなたを“ちゃんと”愛してるわよね………?



妻は延々と何事か喋り続けている。

だが男にはそれが意味のある言葉として何一つ耳に入ってくることはなかった。

全ては無意味な音のまま、するりするりと通り過ぎるばかりで、つまり男には妻を理解できる要素が全く無いのだった。


「さ、食事の続きをしましょう」


そう言ってにこりと笑いかけてくる女は、もはや男の知る妻ではなかった。


「ば、化け物………」


普通ではない状態の相手に対しての暴言など火に油を注ぐようなものだとわかってはいても、そう口にせずにはいられなかった。


「狂ってる、イカレてる………お前は、おかしい………!」


案の定、女は目を大きく見開き、男の顔を穴が空くほど凝視してきた。

やはり失敗だったか。

すると女は僅かに目を伏せると、口元に手を当て、何かを考えるような仕草をした。


「そう………そうね、おかしいわよね………そうよね……」


頭の中にあるものを一つずつ整理するように、女はぽつりぽつりと呟いた。


「ねえ、あなた。あなたは私がおかしいって、そう思ってるのよね?」


真っ直ぐにこちらを見て問い掛ける女の目は、男がよく知るそれと変わらないものだった。

正気に戻ったのだろうか?

だが、一度抱いてしまった不信の芽は、そう簡単には消え去りはしなかった。


「あ………ああ、そうだ。お前はおかしい。狂ってる。イカレてる。どう考えても、異常だ………」


男の愛した妻は、男に対してどこまでも優しく、どこまでも慈しみに溢れていて、そしてどこまでも尽くしてくれる、これ以上ないと思えるほどに最高の存在、理想の妻だった。

時には手が付けられないほどヒステリックに喚き散らしたり、ほんの些細なきっかけで烈火のごとく怒ったりしたりしたことも数え切れないほどあった。

けれど、その怒りの根本にあるのは必ず男への愛情だと、知っていたから。だから自分に一切非が無い場面であろうと、男は妻を責めることなく『僕が悪かったよ』と、妻の機嫌が直るまで謝り続けた。


もし、目の前にいるのが紛れもなく自分の妻であるなら。憂子なら。


『ひどいわ、何てこと言うのよ!』

『あなたが謝るまで、絶対許さないんだから!』


そうだ。

妻ならきっと、そう言い返してくるはずだ。

さあ好きなだけ怒ればいい。喚き散らせばいい。私を責め立てろ。

それが妻だ。私の愛する憂子だ。

さあ、さあ。早く。

あとで気が済むまで謝るから。

何度でも、何度でも。

だから、頼む。

私を、



「嬉しい」



縋るように見上げた先にあったのは、酷く穏やかに微笑む女の顔だった。

男の心に深い絶望が広がった。


「そう、私はおかしい。普通じゃない………狂ってる………あなたが言うんだから、きっとそうなのね」


どうして笑っていられる?

普通の人間だって、あんな罵声を浴びせられたら怒り出したり、文句の一つくらい言い返してきてもおかしくないはずだ。

それが、『嬉しい』?

『あなたが言うんだからきっとそう』だって………?


「どうしたの?そんな顔して。私はあなたに“私はおかしい”って解ってもらえて、本当に嬉しいのよ。

だって、これからは、もうどんなにおかしいって思われるようなことをしても、“おかしくない”でしょう?

もう無理矢理“普通の中”に押し込めたり、“普通の形”にねじ曲げたりせずに済むでしょう?

私は、私のままでいていいのよね。そうでしょう?」


女の話していることは、相変わらず意味が解らない。

目の前にいる人物が、どんどん得体の知れない生きモノへと変貌していく様の、そのおぞましさ。

ぶくぶくと泡のように恐怖心が膨らみ、かさを増していく。


「違う………お前は、憂子じゃない………」

「自分でつくっておきながら随分勝手ね………」

「こんなつもりじゃなかった。僕は、ただあの頃の優しい君に帰って来てほしかっただけなんだ………」

「だから、こうして帰ってきたじゃない。食事だって、お掃除だって、あなたのことを考えて、あなたに喜んでもらいたいって気持ちでいっぱいで。全部、全部、あなたのためを思って………」

「違う、違う………それでも、違うんだ。お前は、憂子じゃない………!」


これはいけない。駄目だ。

またつくり直さなければ………。

何故だ?どうして上手くいかない?

確かに私は衝動的に、たった一度の過ちを犯した。

夢や妄想などではなく、妻を殺した。

それは事実だ。

しかし、生き返らせた。

いくつかの肉塊に変えて。それもすべて食べ尽くした。

あの店で。培養人肉店は確かに存在していた。

私は妻にもう一度会いたかった。

だから再び妻の肉達をつくり、集め、一つにした。

そして妻は甦った。


だが違った。

どこをどう間違えたのかわからない。けれど、私は何かを間違えた。


私は、ただ、妻にもう一度会いたかっただけで………。



「あなたって本当、つまらない人ね」



腹が、熱い。


鋭い痛みが深々と男の腹目掛けて、何度も、雨のように降り注ぐ。

焼け付くような痛み。とても、とても、駄目だ。耐えられない。


男の意識は急速に遠のいていった。



「結局私達、夫婦に成りきれなかったのよ。おままごとみたいな関係すら、出来損なった。普通の人間らしいことすら。


そういうの、向いてなかったのよ」



いつの間にか、あれほど腹を苛んでいた痛みに何も感じなくなっていた。

ぼんやりとした視界が滲んでいく。

妙に静まり返った空間の中、男の耳にかろうじて届いた言葉の意味を考える。


考える、が、わからない。痛みも、声も、妻の困ったような、今にも泣き出しそうな顔も、すべて遠くへ消えてゆく。


そう言えば、前にも同じようなことがあったような気がする。

こうやって何度も何度も、私の腹目掛けて抉るように………そう、何度も何度も、雨のように………何度も何度も………。


いや、有り得ない。そんなことをされたら死んでしまう。


ほら、今みたいに………


何度も何度も………


何度も…………ああ、いけない。



この………まま…………


で、は……………死 ん、




で………………し………………





「普通の人間らしさに向いてない。だから失敗した。

けど、これからは違う。

私とあなたは、普通の人間じゃなくなったんだから。

生まれ変わったの。あなたが言うところの、化け物に。




この世界で、私達、たった二人だけよ」

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