第29話 外伝 ハルコ之章④

 きゅうちゃんがハルコさんの相手をしてくれているうちに、僕はそっと席を立つ。せっかく用意してくれたのだ、料理も食べなくてはなるまい。

 それに、飲み比べの結果は観なくてもわかる。ハルコさんの圧勝だ。



「貫之さん、ハルコさんとは一体どういう方なのでしょう?」


 酒のつまみとは思えない程の美味しそうな料理を眺める僕に、静かに尋ねたのはマチコだった。


 どういう人物か? それは僕にも見当がつかない。ただのお嬢様でない事は確かだが。


「職場で何か嫌な事でもあったのかい?」


 と、僕。


「いいえ。ハルコさんは私にとてもよくしてくれます。ですがあの方には、何か常人には無いような力を感じます」


 なるほど、マチコが言うのは単に力が強いとかそういう類いの事ではあるまい。


「そうだね。ハルコさんには特別な何かを感じるよね。僕はそれを安心感だと思って頼りきっちゃってるけどさ」


 だから……怖い。ハルコさんが僕を僅かでも頼ってくれなくなった時、それは僕にとって彼女との決別を意味していた。決める事の出来ない僕の、それは決定事項で。

 そして僕は、彼女と別れたくなかった。


「そうなんです! 私もこのまま頼ってしまっていいのかな、って。私には特別な力はありませんから」


 そう言ってマチコは寂しそうに笑った。


「心配しなくても大丈夫だよ」


 そう、大丈夫だ。それが解っていればハルコさんがマチコを見捨てる事は有り得ない。それくらいには僕はハルコの事を信頼している。

 そして、マチコの事も。


「ふふ、ありがとうございます。ハルコさんは貫之さんの慰労会だと仰っていました。せっかくの会なのに、つまらない事を言ってしまいましたね。さあ、まだまだ飲みましょう」


 マチコがその艶やかな黒髪をさらりとかきあげる。微かに朱がさした白い首筋は、この世のものとは思えないような妖艶さを孕んでいた。



 僕がカウンター席に戻ると、きゅうちゃんがテーブルに突っ伏していた。絵に描いたような決着、最初の脱落者はハルコさんに無謀な一騎討ちを挑んだ黒野旧作だった。


「貫之クン、姿が見えないと思えば。マチコ君に手を出したらいくら君でも許さないからね」


 そう言って可笑しそうに笑うハルコさん。いつの間にか、その手にあった筈のショットグラスは大きめのロックグラスに変わっている。


ほぅよそうよ! ふぁんじぃ貫之。あぁんたわ、わたひのためにぃ、ほうひゃをひれへれはひぃのよ紅茶を淹れてればいいのよ!」


 ぐでん、とねっとりした視線を向ける真理は、もう呂律が回っていない。

 ああ、なんて役に立たない子なんだ、真理! 旧作はあれでも彼なりに頑張ったんだ。

 ……とすると、もう頼みの綱はマチコしかいないじゃないか!


「はひよぉ、はひほばっかりみひゃっへぇ。ほのむっふひふへへへへアハハハハ!」


 もう駄目だ。はひふへほって、あんたバイキンさんか! うん、ゆっくりお休み。せめていい夢を。


 そうして僕がその頭を一撫ですると、彼女は途端に寝息をたて始めた。


「あらら、彼女寝ちゃったね。まだ始まったばかりなのに」


 そう、始まったばかりなのに、もう二人が脱落した。まだ夜は長い。


「ハルコさんが飲ませるからですよ。皆が皆、ハルコさんみたいに強い訳じゃないんだから」


「嫌だね、貫之クン。あたしが飲ませた訳じゃないさ。それに彼女はそれほど飲んでいないよ」


 うん、ハルコさんのそれほどがどれほどかは知らないが、真理子はグラスを嘗めた程度だった筈。元から飲める口じゃなかったのかも知れない。だとしたら無理なお願いをしちゃったかな。

 一瞬だけど、ハルコさんの事を知っているような素振りを見せた彼女。もう少し話を聞きたかったけど、今日は仕方ないか。


「それじゃ、改めて乾杯といこうか、貫之クン」


 カチン、と三つのグラスが触れ。僕とハルコさん、それにマチコがカウンター席に並ぶ。第二ラウンドのゴング、といったところか。


「マチコ君はよくやってくれているよ。君の紅茶が飲めなくなったのは残念だけど、代わりに美味しい抹茶が飲めるようになった」


 そう言ってハルコさんが紫煙を燻らせる。


「それで君の方はどうなんだい?」


「何もしてないですよ、相変わらず」


 そう、僕は何もしていない。まるで、ずっと前からそうだったように。


「ふぅん、まあそれもいいさ。あれからまだ一月、変わるもの、変わらないもの、色々あるさ」


 ハルコさんが、すぅっと目を細める。その様子にマチコが口を開いた。


「いいんですか、ハルコさん、そんな事言って。ハルコさんはいつも貫之さんの事を嬉しそうに私に話してくれるんですよ。貫之さんが会社を辞めて、本当は寂しいんだと思います」


「あっは、マチコ君。それをここで言われると、あたしの立場が無いさね。うん、寂しいのは確かにその通りなんだけどさ、本当のところ、この男はあたしの手に余る。あたしのところに置いておくのは勿体ないんだよ、貫之クンは」


 全く、ハルコさんは僕を買いかぶり過ぎだ。そんな事を言われると……にやけてしまうじゃないか。


「僕は……ハルコさんの期待に応えられる程の男じゃないですよ。僕は……空っぽ、だから」


 表情を隠したまま、僕は肩を竦めてみる。グラスの中で、コロンと大粒の氷が音をたてた。


「その時がくれば」


 そこで言葉を切ったハルコさんが、遠くを見詰めるように、ついと顔を上げ。


「君は何だってやって退けるさ。マチコ君を助けたように。この街を守ったように」


「はい。貫之さんは空っぽなんかじゃありません。私を助けてくれた時の貫之さんは、優しさに満ちていました。それに今の貫之さんの中には……」


 ――――私がいます。


 マチコの囁く様なその声は、しかし確かに僕の耳にも届いて。


「だってさ、貫之クン。案外君はプレイボーイの素質があるんじゃないのかい? そこで気持ち良さそうに眠っているお嬢ちゃんも、君の事を気に入っているみたいだし」


「からかわないで下さいよ、もう」


 真理は僕の淹れる紅茶を気に入っただけ。それにマチコを助けたのも偶々だ。あの時の僕は何故か無性にイライラしていた。その苛立ちをぶつける理由に、囚われの少女という恰好のシチュエーションを利用したに過ぎない。


 だが、そんな僕の思いをまるで気にする風でもなく、ハルコさんが続ける。


「まあいいさ。どうせ君は選ばないんだ。そういうのを何て言うのかな、ねぇマチコ君」


「優柔不断、ですか?」


「違うよ。唯我独尊、だよ」


 なるほど、選べないじゃなくて選ばない、か。そんなんじゃないんだけどな。

 しかし僕はそれを言葉にすることなく、口をつぐんだ。


「だからマチコ君も気を付けなきゃいけないよ。彼は選ばない。それは等しく、誰の事も。きっと三大美女と呼ばれる、かの小野小町でも、彼にとっては同じなんだろうねぇ」


 うっ! ここにきて小野小町か。確かに彼女はこの世の者とは思えない妖艶さを備えていた。それはそれでとっても魅力的なんだけど、僕は……


「大丈夫だよ、マチコ。ハルコさんはああ言うけど、僕は……」


 そう言いいかけてマチコを見ると、彼女はその長い睫毛を閉じ、すやすやと寝息をたてていた。


「あれ? マチコも寝ちゃったか」


 ハルコさんに合わせてグラスを傾けていたマチコ。顔色も変えず、酔った素振りもなかったんだけど……


「ふん、この娘は気を回し過ぎる癖があるよね」


 ハルコさんが小さく呟く。そしてカウンターの中でシャキシャキと氷を削るマスターに声を掛けた。


「すまないが、この三人を送っていってやってくれないか。あたしはもう少し、貫之クンとここで飲んでるからさ」


 構いませんよ、とマスター。残ったのは僕とハルコさんの二人。

 第三ラウンド、そしておそらくは最終ラウンド。それは静かに始まった。

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