第30話 外伝 ハルコ之章⑤

「相変わらず、強いですね。何杯目ですか?」


「ん? 何杯目かって? 野暮だね、数えちゃいないよ」


 そんな当たり障りのない会話。僕達は互いに踏み込まない。それが僕とハルコさんの関係で。


 と、ハルコさんが不意に僕の覗き込んで。


「ねえ、何か歌ってよ」


 それは唐突だった。振りも無く、脈絡も無く、おそらくは意味も無く。


「僕の歌、ですか? 困ったな、もう少し早く言ってくれれば真理もマチコもいたのに」


 君の歌が聴きたいんだ、とハルコさん。


 ……仕方ない。カウンターの奥にはカラオケ設備も見えるけど、多分そういうのじゃないんだろうなぁ。


 ――――流れる時の中で 変わらないものは何ですか 変わってしまったものは何ですか


 三十年、いやもっと前だった気もする。ニューミュージックの女王と呼ばれた川中真紀の楽曲、『変わらないもの』。僕の好きな歌だ。


 ――――昨日みた夢の中で あなたは口笛でも吹くように


 そして一度、仕事場で僕が口ずさんでいた時に、ハルコさんが言ったんだ。いい曲だねって。


 ――――空を見上げて言ったよね さよなら さよなら愛しき人


 ハルコさんが僕に視線を向けたまま、煙草に火を着ける。ゆったりと白い煙りが線を引き。


 ――――変わらない場所 変わらない時間 その中であなたは変わってしまったのですか


 やがてその煙りも何処かに霧散し。


 ――――それとも変わったのは私ですか


「いい曲だね」


「ええ、いい曲です」


 僕は氷が溶けて薄くなったロックウィスキー、ハルコさんはストレートのそれ。互いにカチンッとグラスを合わせる。


 僕はやっぱり幸せなんだなぁ、と思う。そして胸が熱くなる。あの闘いの時以来だ。


 ――――変わらない場所 変わらない時間 私は変わってしまったのですね


「君はやっぱりそのままでいいよ」


 ――――それともまだあの頃のままですか


 ハルコさんの声が静かに流れる。それが合図だった。


「そろそろ、お開きにしようか」


 そうですね、と僕。


「送らせようか?」


「ちょっと歩きたいので。それからタクシーを拾いますよ」


 もう、というべきか。まだ、というべきか。時間は日付が変わって午前の二時を少し過ぎたところ。この時間になってもまだ街は明るい。


「そうかい。まあ、それもいいさ」


「ハルコさんはどうするんですか?」


 さっきのマスターが戻ったら送ってもらうさ。そう言って彼女は笑った。



    ◇  ◇  ◇  ◇


 夢島貫之がふらりと店を出て後、十分程が経過した頃だろうか。スキンヘッドの男、この店のマスターが戻ってきた。


 薄暗く照明を絞った店内には二人の声が響く。


「あれが仰っていた男ですか。なるほど、お嬢の好みって訳ですね」


「あっは、そうさね。好みには違いないけど、は特別だよ。後藤にはどう見えた?」


 後藤と呼ばれた男が僅かに間をおいて。


「そうですね。まだ底が見えない、というのが正直なところかと。体格面から戦闘能力に秀でているようには見えませんが、それでもあの一件を解決に導いたのは事実です」


「ふふふ、お前でもわからないかい」


 嬉しそうに、ハルコが笑う。


「でも良かったのですか? 安全面など考慮すると手元に置いておいた方が得策では?」


「いいんだよ、これで。夢島貫之は私達に無い力を持っている」


 それに、とハルコは煙草を咥える。


「今回は後手に回ったが、次はおそらく私も動く事になる。その時は別行動の方が都合がいいのさ」


 ついと顔を上げ、ふぅーっと煙。いつの間にか灰皿は棘の様な吸殻の山でいっぱいになっていた。


「次は、ありますか?」


「ある」


 そしてその声には強い意志が宿っていた。

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