魔王降臨

 時給換算すると最低賃金より安い事務仕事から帰ってきて、今日みたいに安いワインと甘い物で金曜日の夜に憂さを晴らす。

 そんな時間を過ごしていると、生まれてからずっとこんな生活をしていたんじゃないかと錯覚する瞬間があった。

 そうだったらどんなに良かったかな。そう何度も思った。

 小さい頃に父親が借金を作って蒸発、女手一つで育ててくれた母は病死。身寄りのなくなった女子高校生の私を、借りていたアパートの大家は容赦なく部屋から叩き出した。

 児童相談所の職員も各所をたらい回しにさせた挙げ句、警察は路上で眠るしかなくなった私をパパ活の売春と勘違いして逮捕までした。

 誤解が解けてようやく入所した児童養護施設では入所者と職員から蔑ろにされてろくに食べさせてもらえず、なぜか犯罪者みたいな扱いを受けた。

 この世に神も仏もない。

 そうして人生に絶望したものの死ぬ気もなかった私は施設から脱走して、この世界の片隅で生きる努力をした。

 何の取り柄もスキルもない未成年が稼ぐには体を売るしかなくて、でも母子して父から日常的に暴力を受けていた私にはその選択肢がなく──住み込みで働いてみたりネットカフェで暮らしながら偶然見つけたこの事務職に縋りつき、何とか雨露を凌げるこの四畳半のアパートで最低限の暮らしができるようにまでなれた。

 でも、何か一つでも狂ったら路頭に迷うし、二つ狂ったらもう野垂れ死ぬような状況なのは変わらずだった。

 それを何としても変えたい。

 持っているのは二十代半ばという若さだけ。この唯一の特徴を生かすため──私は婚活セミナーに行ってきた。

 素敵な人と巡り会うのが人生逆転の最後のチャンスだと思ったから。これをモノにすれば、色のついた緩めの生き地獄みたいな現状を変えられるはず。今が底辺なんだからきっかけさえあればきっと上向く。

 これを逃せばあっと言う間に還暦を迎えてヨボヨボになって野垂れ死ぬ。そんな人生だけは絶対にイヤ。

 だから今日も定時で会社を抜けた私は、食費を削って貯めたお金で勇気と希望を貰いに婚活セミナーへ行った。

 なのに──そこでもまた打ちのめされたから、こうして一人で飲んだくれることになった。

 テーブルに広げたままのテキストに目を落とす。タイトルは「結婚したい女性が持つべき五つの女子力」──。

 セミナーの様子を思い出した。名言みたいなタイトルで始まる五つのチャプターで、パートナーを得るための行動指針や気持ちの持ち方をディスカッション形式で教わるというもの。

 そこで私はさらっと侮辱された。

 行動を求めておらず、どうやって振る舞えば「いいお人形さん」として選んでもらえるかだけを知りたがっている、いわゆるナンパ待ちの女だと指摘されてしまったのだ。

 今からでも遅くはないので渋谷にでも行ってごらんなさい。一晩限りの関係ならいくらでも持てますから。全額返金しますので大丈夫ですよ? とまで言われてしまった。

 何でそこまで言われないといけないの? ただ私は素敵な出会いを求めていると言っただけなのに。

 また涙が出てきた。悔しいから全部受講したけど、周りからの突き刺さるような視線を思い出して、大粒の涙が流れていく。

 どうして世界は私に厳しく当たってくるんだろう。ただ片隅でそっと生きているだけなのに。

「あーあ……」

 またワインを煽ってつまみのシュークリームを齧る。これだって誰かに見られたら文句を言われるんだろうな。アテがシュークリームとかワインの飲み方を知らない、酒を冒涜しているとか何とか。

「うっせえ」

 もう全部が全部面倒くさい。いっそのこと全部投げ出して旅に出ようかな。旅先で一目惚れとかされて駆け落ち同然に暮らし初めて、最初はろくでもない男だと思っていたけれど、実はしっかりしていて年収も高い生活力の高い人で──とか。

 ないない。そんな優良物件は全部奪い尽くされたはず。

 ──ぽしゃん。

「……何、今の?」

 ユニットバスから変な音が聞こえてきた。何かが水に落ちた音。

 でもこの部屋には私しかいない。誰かユニットバスにいるの? いやいや、さっきシャワーを使ったばっかりだし。虫? アレがいるの?

 見るのもイヤだけど呼べる人もいない。警察なんて呼んだら怒られるだろうし。あーあ、最悪。ホントに最悪。

 キッチン下の収納から出したゴム手を着けて予備のトイレットペーパーを大量に出すと、害虫駆除スプレーを手に深呼吸した。

 意を決してユニットバスのドアを開けると──特にに異常はなかった。

「何これ?」

 訂正。バスタブに四角い白色の何かが浮かんでいたから。

 壁が剥がれたわけでもなさそうだし、換気口が外れた形跡もない。何だろう?

 ゴム手のままそれを拾ってみると、それは折り畳まれた紙だった。中に何か文字が書いてある。

 手紙? 何でこんなものが?

 恐る恐る開いてみると、それはアルファベットみたいな文字が並んでいて、地図みたいなイラストも添えられていた。

 何これ? メッセージ? 怖……。

 少し濡れていたけれど文字が滲んだりはしていない。

 まさかストーカーがいるの? しがない会社で事務をしている安月給の女に?

 そもそも目を付けられるような容姿でもないし、男性との接点なんて会社の業務とスーパーの店員ぐらいしかない私に?

 まずは文章を読んでみよう。でも英語だから私の手には負えない。

 試しにスマホの翻訳アプリにスキャンさせてみると、所々判別不能になりながらも断片的に読むことができた。

 女神様。

 今、私たちのこの世界は魔王の世界征服の危機に晒されています。

 しかし大陸のどの国も防戦一方で進軍の余裕はなく、また討伐を考えている諸侯もいるようですが、他国に背後を突かれての侵略を恐れて動けていません。

 そこで棄民だった私たちは、流刑先だった南の島から立ち上がり第三勢力として討伐を決意し、進軍を始めました。

 ですが中央大陸の南に陣取るオークの軍勢に戦闘に不慣れな私たちは敗走を繰り返してしまい、その両サイドにある国からも支援を受けられず孤立無援の状態です。

 女神の泉に願い事を投げ入れると叶えてくださると聞き、こうしてお手紙をお送りしました。

 もう他に方法がないのです。

 どうか、どうかお力をお授けください。

 え? 何これ? うちのバスタブが女神の泉なの? 嘘でしょ。新手のストーカー?

 玄関まで行ってドアを確認したけど、ドアノブもちょうつがいもこじ開けられた形跡はない。部屋の窓も見たけれど大丈夫だった。

「うちのバスタブが異世界と繋がった?」

 まさか。漫画じゃあるまいし。ワイン飲み過ぎたかなあ? でも一本の半分ぐらいだし、頭も意識も何もかも正常。だからこそ昔を思い出して落ち込んでいたわけだし。

 うーん。理解できない。魔王って? 棄民なんて言葉知らない。とりあえず手紙を持って部屋に戻った。

 もう一度文章を眺めてみる。もちろん読めないけれど、頭の中に入っている内容を思い出してみた。

 敵が強くて負けっぱなしなのに、魔王と対抗するべき両サイドの国は手を貸してくれない。

 そういうの私にもあったなあ。

 家族も頼れる人もいないから児童養護施設に入ったのに、進路とか生き方とかの相談をしても「もう高校生だし大丈夫でしょう?」と職員にあしらわれ続けた。

 そういうのを受け止めるのがあなたたちの仕事でしょう? 何のためにそこにいるの?

 後で知ったことだけれど、私のファイルには「父親からの性暴力、母親が自殺、売春で補導歴あり」と勘違いの経歴が書かれていて、それで「関わるとろくなことがない」腫れ物扱いだったらしい。

 みんな敵だった。誰も助けてくれない。寄り添ってくれる言葉だけで良かったのに、優しさのかけらもない視線と聞きたくない話ばかりされた。

 あんな時、みんなはどうするんだろう? ほろ酔いの頭には何も思い浮かばなかった。

 ふと──婚活セミナーのテキストが目に入る。

 あの講師、したり顔で色々と人生訓を並べては悦に入っていたっけ。

 手に取ってぺらぺらとページをめくってみる。

 『三、最大の効果を得るためには近道なんてありません。遠回りとは思わずに足場を固めて全てを整えてから進みましょう』

 手を動かすな、頭から動かせ──ってことかな?

 それもそうかもしれない。思えば私は手ばかり動かしてきた。

 その日を生きることで一生懸命だったから、とにかく今目の前にある何かをどうにかしなきゃいけなくて手ばかり動かしてきた。

 最初にもっと頭を動かせていたらもうちょっとまともな人生設計ができて、今よりは楽な生活ができていたと思う。

 でもそんな時間くれなかったじゃない。だから手を動かし続けて連戦連敗しちゃった。こうして最低限の生活で満足するように自分を誤魔化し続ける日々なわけだし。

 まるで。

「手紙の人みたいよね。ってか答え出てるけど……」

 オークとかいう魔王の手先が強すぎて勝てないのに支援を受けられないのは、両サイドにある国同士が対立していて、手紙の差出人たちに援軍を送るとその隙を突いて侵略されちゃうから。

 まずは両サイドの国にオークたちを何とかするまでは戦争しない約束を取り付けたらいいんじゃないの?

 でもこういうのってメリットがないとやらないんだよね。オークたちがいつ自分たちの国を襲うか分からないからあらかじめ叩いておこう──それがメリットに聞こえないの。

 ただ面倒くさい。相手がやらないことをやる意味がない。やらしておけばいい。

 だとしたらメリットを作り出せばいいのでは? 手紙の主は魔王の討伐が目的だから領土とかには興味がないはず。

 つまり両軍の協力を得て倒したオークたちの領土を分けてあげればいい。その間はお互いに侵略しない不可侵条約を結ばせて行動を制限すればいいだけ。

 そしてそのことをなるべく多くの人に知らしめて、約束を破られないようにさせればいい。

「まさか、ね……」

 こんな冗談みたいなアドバイスを返す気? 手紙を書いてバスタブに置くの? 本気?

 でもまあちょっと楽しいかも。

 モノクロな生活。グレーアウトした暮らし。無彩色な心に少しだけ色がついたみたいな気がした。

 ちょっとぐらいバカなことをしてみよう。どう見たって冗談みたいな人生だったのに、道を外れることもできずに生きてきた小動物みたいな私にはちょうどいい。

 封筒と無地の便箋を引っ張り出してきて、ボールペンを握る。

 よし、もっと飲もう。飲んでこの状況を楽しもう。ワインの残り半分も飲み干し、予備で買ってきたワインも開けて口を付けた。

 私は泉の女神。それじゃ箔が足りないかな? そうね……救いの女神。それらしい言葉で始めてみよう。出だしはどうしようかな。

「私はあなたたちを救う者です。よくぞ困難な道を選んでくれましたね。茨の道を進んだ先には、あなたたちの希望の園が広がっているのです。さあ、道を示しましょう」

 それっぽい口調で喋ってみて自分で笑ってしまった。

 エセ女神感が出ていてとってもいい。我ながらバカバカしくて最高。

 明日は土曜日で休みというテンションも手伝って、さっき思いついたアドバイスをそれっぽい口調で一気に書き上げてしまった。

 スマホの翻訳アプリで英語に変換する。

 うーん。手紙の言葉って本当に英語なのかな? まあ伝わるよね。

 知りもしない英語の文章を便箋に書いて封筒に入れる。そして宛名を書こうとして──相手の名前を知らないことに気がついた。

 こういうのはきっと勇者だと思う。Dear my hero──でいいか。

 そうしてユニットバスに戻ると空のバスタブに封筒を置いた。いきなり消えるのかな? それともうっすら消えていったり、光ったりするの?

 でも待てども暮らせども何の変化も現れなかった。

 手紙の彼は泉に手紙を投げ込んだと言っていた。同じことをするならバスタブにお水を張らないといけないのかな。

 ちょっと贅沢しちゃおう。お風呂ついでなら罪悪感も減るし。私は蛇口を捻ってお湯を注いだ。

 手紙が消えても消えなくても想像で楽しめるし、久しぶりのバスタイムで疲れた体と心に効いてくれるはず。

 服を脱いで溜まったお湯にドボンと浸かる。いい気持ち。そして封筒をそのまま沈めてみた。

 光りながら消えたりしてね。まさか。あはは。

「光った! 消えた!」

 お湯の中をバシャバシャやったけど、ない! ホントにない!

 あれって子供向けの消えるスパイグッズとかじゃなかったよね!?

「うへ……」

 私は一気に酔いが醒めた。


   *


 二日酔いの頭で起きてみると、テーブルにあの手紙は確かに置いたままで、アルファベットみたいな文字もイラストも残っていた。

 あれは夢じゃなかった。

 今日は婚活に向けてあれこれ考えてみるつもりだったけれど、とてもそんな気持ちになれなかった。手紙の彼から返信があるのか、そもそも私の手紙は届いているのかが気になって仕方なかったからだ。

 気がつくとスマホで検索してばかり。

 ゲームをやる余裕なんてなかったから、魔王とかオークとかそういうファンタジー的なものはさわりぐらいしか知らなかった。だから実際はどんなものか探して、そこで知らない単語が出てきたら調べて記事を読んでの繰り返し。

 スマホの見過ぎで首と手首が痛くなるぐらいは知識が増えた。

 オークというのは人型をした豚のモンスターでかなり弱いらしい。そんなヤツらに苦戦しているぐらいだから、勇者もまだ駆け出しなのかな。

 何度も何度もバスタブを覗いてみたけれど、返信は来ていなかった。

 そのうちモヤモヤが生まれてくる。もしかしてあの手紙は二重人格の私が作ったものだったんじゃないの? それかやっぱり幻だった? あー、もう分からない。

 とりあえず今日はお酒を飲まずにお風呂を沸かしてゆっくり浸かることにしよう。水道代とかガス代なんて知らない。

 お湯を半分だけ張って、いつか使おうと買っておいたアロマを炊きつつ、スマホで音楽を流しながら半身浴リラックスタイム。

 それでも気になって、結局またファンタジー世界のあれこれを調べてしまう。エルフとかドラゴンとか「あ、これ聞いたことある!」から、プレートメイルやバスタードソード、色んな魔法とかの「へー、こんなのもあるんだ」みたいな専門用語を覚えていくと、何だか新鮮な気持ちになって頭も良くなった気がした。

 そんなことを一時間もしていて、そろそろ疲れたから出ようかと思っていた時──、

「来た……!」

 お湯が光ったかと思うと、次の瞬間には手紙が浮かんでいた。

 急いで拾うと、体にバスタオルを巻いたまま部屋にもどって手紙を広げた。

 前と同じように英語みたいな文章が書かれていたので、スマホをかざして翻訳する。

 女神様。

 私たちの願いを聞き届けてくださって、本当にありがとうございました。

 女神様の仰る通りオーク軍への攻撃は一時中断してもらい、手分けして左右両国との折衝に全力を注ぎました。

 当初はどちらの国も棄民とは喋る口を持たないと言っていましたが、魔王に滅ぼされては元も子もないと何度もお願いをして、最終的には勇者様が自ら交渉し左右両国の国王同士の会談の場を設けてその場で不戦条約を結ぶことができました。

 やはり両国は出兵時にお互いから背後を突かれるのを恐れていたようです。

 両国からの援軍を取り付け改めてオーク軍への攻撃を開始したところ、一週間ほどかけてようやく制圧でき、やっとの思いで北大陸へ渡る道筋が開けました。

 心の底から感謝しております。ありがとうございました。

 また困ることがあったら女神様の知恵をお貸しくださいますでしょうか。

 私は思わずニヤリと笑った後にほっと溜息をつきながらその手紙を抱きしめてしまった。

 幻でもないし二重人格の仕業でもなかった。

「本当に魔王軍と戦っていたんだ……」

 お風呂上りのままだったのを思い出してきちんと服を着てから髪を乾かし、もう一度テーブルの上に置いた手紙をぼんやりと眺めた。

 異世界か異次元か分からないけれど、確かに存在している別の世界には魔王がいて、世界征服のためにありとあらゆる土地にモンスターを送り込んでいる。

 現地の人々や軍が必死に抵抗する姿を想像した。手に剣や盾を持って、時には魔法を使ったりして戦っているのかもしれない。

 中には熟練した戦士や能力の高い魔法使いがいて敵を蹴散らしているだろうけど、ほとんどは私みたいな一般人ばかりで、モンスターに食いちぎられたり踏まれたり、炎や氷の魔法を受けて命を落としているはず。

 勇者がいるとも言っていた。きっとその勇者が手紙の彼や仲間たちと一緒に立ち上がって、慣れない戦いに苦しみながらも世界の皆を救うべく、土地の伝説にあった女神にすら頼って前へ進もうとしていた。

 自分たちのことを棄民とも言っていたのを思い出す。流刑地にいたとも言っていた。その意味は分からないけれど、偉い人たちが最初は口を利かないと言っていたあたり、きっと差別を受けている人たちなんだと思う。

 私みたいな出自の人なのかな。それとも貧民? そんな彼らが自分たちの利益に対してではなく、蔑んでくるような人たちのために立ち上がったのを思うと、胸がきゅっと締め付けられるような気がした。

 何のスキルもなく目標もないまま日々を生きることで精一杯になっている、婚活に未来を見出したような私とは全然違う。

 自分が恥ずかしく思えてきた。

 でも――この手紙の彼は次も頼りたいと言ってくれている。

 だとしたら的確なアドバイスを返さないといけない。本格的に勉強する必要がある。

 私の中で火が点いた。女神と呼ばれて頼られるなら、女神になりきろう。一緒に世界を救いたい。

 セミナーの講師が言っていた言葉を思い出す。本当の女子力とは彼氏や恋人に尽くす力じゃなくて人間力のことだと言っていた。相手が何をどう考えていて何に困っていて何を欲しているのかをヒアリングできる力だって。

 でも、どうしたらいいの? 私には圧倒的に情報が足りていない。ファンタジーに対する知識もまだまだだし、手紙の彼の国や世界がどうなっているのかなんて無知に等しかった。

 それから夜中まで、私はメモ作りに没頭した。

 手紙の彼は勇者様と呼んでいる人と一緒に行動している。オーク軍を相手にしているのだから二人ってことはないはずで、きっと彼らも軍なんだと思う。規模と構成が分かればアドバイスもしやすい。

 次は世界観。魔王とオークがいて人間側にはいくつもの国があるらしいけど、それがどんなものか全く分からない。そういうのを把握するのに一番簡単な方法は地図を見ること。地理も分かるとより詳しく理解することができる。

 そして勇者たちがどこにいてどんなルートで魔王に向かおうとしているのかも分かるといい。

 最後は言葉。アルファベットだし英語みたいだから何とかアプリで翻訳できているけれど、たまに判別不能な単語や文章もあったりして、本当は何の言語かも分かっていない。

「そっか。何も私だけが女神をやらなくてもいいんだ」

 SNSなんて、何かの懸賞目当てに作ったっきりで見もしていなかった。誰か助けてくれるかもしれない。

 私はスマホでSNSアプリを起動すると、翻訳アプリでスキャンした手紙の元の文章をコピーして張り付けながら「これを読める人、いませんか?」と投げかけようとして――文字化けしたのを見て止めた。

 全然読めない、訳の分からない漢字になったの。会社のパソコンでたまに出る現象のヤツ。

 それなら手紙を写真に撮ってアップロードすればいいやと実行してみたら、真っ黒になってしまった。ぞわっと背筋に冷たいものが走る。だって背景のテーブルは映っているのに手紙の部分だけすっぽりと黒になっていたから。

 動画にしてみても一緒。何で? こんなことある?

 手紙がこの世のものじゃないから? それぐらいしか思いつかなかった。

 じゃあ何で翻訳アプリで翻訳できるの?

「うーん……」

 この世界と手紙の彼の世界はたまたま私の部屋のバスタブで繋がっていて、送られてきた手紙は私の目と翻訳アプリにしか見えないし、私にその返信ができる。

 頭がパンクした。考えても考えても分からない。分からないものはもう受け入れるしかない。私が孤児になった時のように。

「だから女神ってことなのかな……」

 私は選ばれた。相手が神様なのか何なのかは分からないけれど、手紙の彼の世界を救うために誰かが私を選んだんだ。

「やらなきゃいけないんだ」

 言葉に出して決意した。それは私の過去の清算かもしれない。誰も助けてくれなかったあの頃の私を救うために、手紙の彼の世界を救う。

 でもどうすればいいの? こんな時に最終学歴が中卒な自分が本当に嫌になる。知識もなければ知恵もない。

 ダメダメ。くよくよ愚痴っていても誰も助けてくれない。散々学んできたでしょう?

 そっか。

「……知識を増やそう」

 知らなければ何もできないし思いもつかない。スマホで検索しようとして――止めた。

 ちまちま調べてもキリがないし、そもそもネットが私の知りたい情報を教えてくれないのは分かり切っていたことじゃない。ファンタジー小説を読んでも作者の都合のいい情報しか出てこないし、映画は演出のためだけに誤った情報を出してくることもある。

 辞典とか設定集みたいなもので体系的に覚えたい。でもその「体系的」は誰が教えてくれるの? ただ迷子になるだけ。

 こういう時に東京住まいなのが役に立つと思った。最低限やらないといけないことだけをメモした私はすぐに寝ると、翌日の朝イチで国立図書館に向かった。

 レファレンスカウンターに行ってファンタジー世界を網羅的に知ることのできる資料をお願いして、出てきたリストの本を館内でひたすら読んだ。

 コピーもお金がかかるから、安い大学ノートにひたすらメモしていく。途中で指と手が痛くなって腕もプルプル震えるぐらいに書きまくった。

 そして家に帰ってきてからは取ったメモを繰り返し見ながらスマホで補足情報を調べたりしつつ反芻して飲み込んでいく。

 生きるだけで精一杯で、どこのスーパーが安いとかそういう情報しかなかった頭。そんな脳に新鮮な情報が入ってくる。これはすごく楽しいことだった。生きていく上で全く関係ないと思っていた架空の世界の細かい知識が私の体へ染み込んでくる。

 夢中になって知識を増やしていると、ユニットバスからぽちゃんという音が聞こえてきて思い出した。

 慌てて手紙を拾いに行く。

 女神様。

 早速お助けいただけませんでしょうか。

 援軍の力を借りてオーク軍を破り、中央大陸から海を渡って北大陸での進軍を始めましたが、食糧が乏しくなってしまい補給もままならないまま足止めを食らってしまいました。

 近隣の街から仕入れて凌いでいますが、義勇兵を取り込んだりして千人に増えた兵士たちの士気も下がっていき、その間にも度々受けるモンスターからの攻撃で脱走する者も増えてきました。

 どうかお力をお貸しください。

 勇気を与えてください。

 すぐに「兵站」という言葉が出てくるほどまでに私の知識は増えていた。ファンタジー世界に限らず古くから戦争にはつきものの「補給」を指す言葉らしい。

 相手の国とか領地に向かって戦いながらどんどん進んでいくと、当然だけど自分の国や拠点から遠ざかってしまう。でも兵士はゲームの駒やキャラクターじゃないからお腹も空くし喉も乾いて、使っている武器や防具も壊れたりしちゃう。

 そのまま放っておいたら全滅。そうならないよう前線に食料や水、代わりの装備を届けるのはもちろん、補給路を整備したり食料を生産するための拠点を作るみたいなことを兵站と呼んでいるみたい。

 この言葉と意味するところを伝えたらいいとは思うけど──本当にそれだけでいいのか心配になってきた。

 私でも気付ける問題を、戦争している当事者の勇者や手紙の彼たちが知らないわけがないと思ったから。

 何かが頭から抜けているのかもしれない。こういう時に考え方を変えたり目を覚まさせる言葉があるといいはず。

「あ……」

 テーブルに置きっぱなしの婚活セミナーのテキストが目に付いた。ぱらぱらと捲ってみる。

 これだ。

 『五、気遣いとは常に相手が何をしたいのか想像することです。そうすれば自ずとやることは見えてきます。必要な物を必要な時に、必要な量を必要な場所に。愛のロジスティクスです』

 最後の単語は物流という意味らしい。

 この格言を自分に向けてみた。

 彼らが本当に必要な物は何? サバイバルの知識はスマホで調べたら出てくるし、現地で農業をするみたいなアイデアも渡せるとは思うけど、根本のところはきっとそれじゃない。

「そっか……」

 気づいた。足りていないのは、私みたいに全体を第三者的に俯瞰で考えてくれる人なんだ。

 それが結論だった。

 多分だけど、勇者の軍には剣や魔法を使って目の前の敵をやっつける戦いの知識はあっても、兵士を使って行う戦争という組織的な行動に慣れていないし、そういう考え方ができる人がいない。

 きっと最初は勇者や手紙の彼を含めて数人から始まった魔王討伐の旅だったんだとと思う。少人数だし仲間内で意志疎通が取れていたから、補給も現地の人に頼ったり採集したりして事足りていた。

 でもどんどん人数が増えるにつれてうまくいかなくなって、オークみたいな弱いモンスターにも手こずるようになってしまい、抜本的な手も打てないままずるずると進んでいった結果、浅い傷だったものが深い致命傷みたいなものになってしまった。

 そんなところなのかな。

 こちらの世界で千人も従業員がいれば中堅企業になると思う。そんな会社が明確な指揮命令系統も経営のノウハウもなく何となく動いているのだから、それはダメになっても仕方ない。

 勇者軍に必要なのは人材だと確信した。

 じゃあ戦争に必要な人材って何だろう? ちょっと調べてみたら、最終的には三人が必要だと思った。

 まずは目的と方針を決めるトップで、この人がいないと何も動かない。これはきっと勇者さんなんだと思う。

 次はトップが決めた目的と方針を達成するためその筋書きに当たる戦略を立てて、戦略を構成する個々の要素を達成するための戦術を考える参謀の人。

 まずこの人が足りていない。

 三人目は兵站を任せる人。この人もいない。

 手紙の彼を通じて勇者さんに伝えないといけないことが決まった。

 それは参謀と兵站担当という勇者軍に必要不可欠な人材を集めないとこの先が立ち行かないということと、補給物資が足りていないという現状については敵からの略奪や現地に拠点を建設して兵士たちを使って開墾や栽培という屯田をして凌いでほしいこと。

 ここまではアドバイスで、次は私が欲しい情報。

 そちらの世界の地図と地理、それに魔王の本拠地と魔王軍の勢力図。もちろんそれに対抗する勇者軍の詳細と現在地に今後の進路。

「あはは」

 戦争を何も知らない素人が何を言っているのかなと自嘲しながらも、伝えたいことを文章にしてアプリで翻訳した英語を便箋に書き留めた。

 これで大丈夫かな? 不足はないかな?

 それで一つ思いついた。最後に一文を付け加える。──May I have your name, please?

 名前を知らないとお話できないよね。

 バスタブにお湯を張ると、私はお風呂に入って手紙が送られるのを待った。ふくらはぎを揉んだりしながらリラックスすること数分。その時が来たらしい手紙は光り輝きながらすうっと消えていった。

 キラキラ瞬く何かを眺めながらぼんやりと考える。

 向こうの世界とこっちでは、時間の流れが違うみたいだった。

 インターネットとか飛行機もないだろうし、仮にあったとしても国や軍との交渉とか会談は一日で終わるはずないと思う。

 なのに結果報告の連絡は次の日に来た。

 同じ時間の間隔で物事を考えられないのは厳しいかもしれない。だって本格的な戦争の知識はもちろんないし、調べるにしてもまた図書館に行ったりして時間がかかるはずだし。

 そこまでやるの? 明日から仕事だよ? そう自問自答しようとして私は自分を笑った。

 やると決めたでしょ? 私は救いの女神になるって。


   *


 月曜日は大忙しだった。

 いつもならギリギリまで寝てから三十分ぐらいで支度をして出かけていたのに、今日は二時間前に起きて十分ぐらいで支度をしてからずっと戦争についての調べ物をしてようやく出発になった。

 いつもなら通勤電車は無料の漫画を読んで時間を潰していたのに、今日は調べ物ばかりしていたからいつの間にか会社に着いていた。

 仕事中も暇を見つけては考える。

 参謀や兵站担当を探してとは言ったものの、参謀は会社で言えば副社長や経営コンサルタントみたいなものだし、兵站担当は庶務や総務のトップだから、そう簡単に見つかる人材でもない。

 見つけられないだろうな。だとしたらどうするの? 情報がないから同じことばかりぐるぐると考えてしまう。

 気がついたら定時を回っていた。

 慣れている仕事ばかりだし全てはつつがなく終わっていたので、他のことには目もくれず一目散に帰宅する。

 会社から駅、電車の中、駅から自宅までの移動がもどかしい。

 ようやく部屋にたどり着いた私は急いでユニットバスを開いたけれど、バスタブに手紙は浮かんでいなかった。

 時間の流れが分からない。向こうが遅いのかこっちが早いのかも。

 仕方ないから家の冷蔵庫にあった適当な物で手早く夕食を済ませる。そして調べ物の続きを始めようとスマホを手にした時──、

「きたっ!」

 ぽちゃん。聞こえた次の瞬間にはバスタブに浮かんでいた手紙をひったくるようにして拾っていた。テーブルの上に広げてアプリで翻訳する。

 女神様。

 いただいたアドバイスを元に、まずは当面の食糧難を乗り切るためゴブリンの集落を襲って穀物と家畜を奪う現地調達で凌ぎながら、川の近くにあった遺跡を使って簡易的な砦を造って栽培を始めました。

 水と食料が徐々に供給できるようになり、そこを拠点として、北大陸の南端を防衛しているオーガ軍との戦闘に備えています。

 女神様から探すよう命じられた参謀ですが、私たちの軍には適切な人がおらず難航しています。兵站担当ですが、こうして中央大陸の泉の水を持ち歩いて女神様と会話できるようにしている私が適任だと勇者様が仰ったので引き受けました。

 そこで……いい人材が見つかるまで女神様に参謀をお願いできませんでしょうか? どうか私たちを導いてください。そのための情報は何でもお渡しします。

 私たちの世界は×××と呼ばれていて、海の上に浮かぶ五つの大陸に百ぐらいの王国が常に覇権を求めて争っています。

 魔王軍は氷に閉ざされている北大陸の×××から現れました。既に北大陸は制圧され、その北部には魔王の居城が、東部はドラゴン、西部にデーモン、南部にジャイアントの軍隊がそれぞれ駐屯して防衛に当たっています。

 中央大陸×××もジャイアント軍が支配していて、その先兵のオーク軍が私たちの南の島×××に上陸してきたため反撃しようと勇者様が立ち上がり、女神様の助言を通じて中央大陸まで取り戻すことができました。

 そして北大陸の一番南を防衛しているオーガ軍との戦闘に備えているのが現状です。

 勇者軍は勇者様を筆頭に、五人の戦士がそれぞれ百から二百人の義勇兵を率いて戦闘に参加しています。

 女神様が仰った参謀と呼ぶタイプの兵士は見つかっていませんが、後方支援が向いている人材を集めて五十人ほどの兵とともに私が兵站を担当しています。

 女神様との通信を担当している私は×××と申します。二十九歳の男です。

 次のページに世界地図と国割り、魔王軍の支配状況と主要な軍、勇者軍の位置を書きました。

 国の情勢ですが、西大陸は×××国が頭一つ飛び抜けて大きい以外はほとんどが二、三の都市を持つ国々です。西大陸は×××大国が取り仕切っていて各国と不戦同盟を結んでいるので平和ですが、東大陸は群雄割拠状態で絶えず他国への侵略戦争が行われています。

 私たちが持っている情報はこれが全てです。

 女神様。

 どうか参謀として私たちをお導きください。

 うっ。読んだ瞬間に唸ってしまった。

 理由は二つ。一つは固有名詞っぽいところがなぜか伏字みたいになっていたこと。大陸の名前はまだいいけれど、西大陸の大国の名前が分からないといちいち面倒だし、肝心の彼の名前が分からないのが辛い。

 二つ目は――予想が当たったこと。きっと私を指名してくるなとは思っていたけれど、実際に参謀をお願いと言われてしまうと途端に重たい気持ちになってしまった。

 これでもう完全に第三者や傍観者の立場でいられなくなった。

 分かっていたことでしょ? まだ覚悟が足りてなかったの? だからこそ戦争とか軍事について調べまくったんじゃない。

 でも……。そんな気持ちを振り切るように両頬をパンと叩いた。

「やるぞ!」

 考えよう。手紙の彼が書いてきたゲームみたいな地図には、北側にある北大陸とそれを挟むような左右両側の西大陸と東大陸、そして真ん中に同じぐらいの中央大陸があって、その南に二回りぐらい小さな南の島が浮かんでいた。

 勇者と手紙の彼はその南の島から出発して中央大陸に上陸したけれど、オーク軍に阻まれて私に助けを求めてきた。アドバイスに従って左右にある国の援軍を得てオーク軍を突破し、北大陸に渡ってすぐのところでより強いオーガ軍を前に拠点を作って準備している状態。

 予定ルートとしてはそのまま北大陸の一番北にある魔王の居城へ向かうことになっている。

 地図には各大陸にいる各国の領土が細かく書かれていた。その中でも一番大きいのは西大陸にある大国で、大陸の五分の四ぐらいを支配していて、しかも魔王軍の北大陸と全部面していた。

 次に目についたのは東大陸にある小国の数々。他の大陸にある国と比べても三割ぐらい小さな国がひしめき合っていて、魔王軍の北大陸に面する国々はさらに小さいのが特徴的だった。

 ヒントがあった。早速メモする。

 でもまだ足りない。救いの女神から参謀の女神となった私の最初の仕事は、まだまだ眠っているはずのありったけの情報を集めることにした。

 勇者軍の進撃はいったん止めて、勇者には手紙の彼と一緒に拠点構築と防衛に頑張ってもらう。その間に前線部隊を十隊ぐらいに分けて調査をお願いする。

 これの狙いは単なる情報収集だけじゃなくて、勇者がどう動くかも見てみたい気持ちがあった。小さな賭けだけど、彼がどんな行動をするかによっては大きく方向転換しなくちゃいけないかもしれない。

 とにかく今は、情報が、データが足りていない。そんな危機感を込めた文章を翻訳アプリに読み込ませて、出てきた英語を便箋にしたためて封筒に入れ、いつもみたいに一緒にお風呂に入った。

 今月の水道料金を考えると胃がしくしく言ってきたけれど、ここ数日はお湯に浸かっているせいか体調や肩こりみたいなものはかなり良くなっていた。

 ふと疑問に思う。手紙を送る時って一緒にお風呂に入らないといけないのかな? そのうち手紙と一緒に私も向こうの世界に行けたりして。

 潜ったら向こうの景色とか見えたりするのかな?

 まさかね。半笑いしながら私はバスタブに沈んでみた。

 お湯の中で歪む視界。見えてくるのはくすんだようなバスタブの底。手紙が消えるのはいつも下のほうだった気がする。

 お尻をぷかっと浮かばせる。いい年をした女がなんて格好してるんだろ。笑いそうになったその時。

「ごぼっ!」

 えっ? ええっ!?

 一瞬だけど人の顔が見えた! 鎧みたいなのを着た青い目の若い男の子!

 もしかしてあれが手紙の彼!?

「う……嘘でしょ!?」

 お湯から顔を出した私は、呆然とした後にまたお湯の中を覗き込んだ。でももうあの男の子はいない。

 少し驚いたような顔をしていた気がする。もしかして向こうも見えていたの?

 ってことは、今は私のお尻が見えているってこと!?

「きゃあっ!」

 恥ずかしくなった私はバスタブから飛び出てしまった。すぐにバスタオルを巻いて体を隠す。

 全部見られていたら恥ずかしいどころの騒ぎじゃないぐらい恥ずかしいし、本当に恥ずかしい。落ち着け私。

 大丈夫かな? でもびっくりしていたから違うと信じたい。……明日からシャワーにしようかな。でも洗っているところを見られちゃうんじゃないの? ああ、もう頭がぐちゃぐちゃ。

 とにかく恥ずかしくなった私はバスタブの外で体をちまちま洗うといそいそと部屋に戻った。

 まだドキドキしている。でも何かイヤじゃなかった。

 違う違う。考えなきゃいけないことが山ほどあるの。すぐに着替えてテーブルにつく。

 参謀って何をする人なのか、具体的に理解する必要がある。戦略と戦術を考えて国と軍を動かす人って説明はできるけれど、ただの事務員にその違いなんて分からないし、会社どころか課も係も動かしたことのない私に国や軍を動かせるわけもない。

 一頻りグチりながら、ネットで調べまくった。

 戦略は目的を達成するための組織的な計画と遂行のための手段で、戦術は具体的な作戦と方法を言うらしい。勇者軍にとっての目標は魔王討伐で、そのための戦略としては北大陸で待ち構えている三つの軍をどこから攻めてどう進んでいくかの道筋になるはず。戦術は個々の軍を倒すための戦闘における作戦になるのかな。

 勇者軍は南の島から中央大陸に渡ってそのまま北大陸を一直線に北へ向かっている。力任せに進んでいるだけだから、より強い敵が出てきたら止まってしまうのは私にでも分かった。

 どう考えたらいい? ヒントはあったけれど、それだけだと弱い。

 うーん。私はすっと婚活セミナーのテキストを手に取った。意外と役立つアドバイスがあったなあ。

 ページを捲っていく。私へのヒントが欲しい。閃くような何かが。

 『二、仲を保つためのコミュニケーションは受け身でいい時もありますが、仲を作るためのコミュニケーションでの受け身は相手を離れさせてしまいます。常に自発的、積極的に動いて先手をかけましょう。すると彼はあなたから目を離せなくなるでしょう』

 先手。その言葉が頭にこびりつく。

 今は魔王軍が北大陸から中央大陸にまで侵略して、それに反応した勇者軍が反撃をしている状況。言い換えれば魔王軍の先手に勇者軍が後手となって勝負をしている状態。

「そっか……」

 テキストは常にイニチアチブを取れと言っている。主導権を握ってしまえばこっちのものだと。

 そこで気になったのは魔王軍の動きだった。さっきからヒントだと思っているのは東大陸の状況で、面している北大陸の東側にはドラゴン軍がいるらしい。

 大きな体をさらに大きな翼で飛び回って口から火を吹く竜のモンスター。ファンタジー世界だとほぼ最強に近い力を持っていて、頭も賢いから魔法も使ったり人々を操ったりできるらしい。

 それに対抗するはずの東大陸の国々は常に隣国と戦争している状態。仮にドラゴン軍が攻めてきたら各国が同盟を組んで立ち向かうこともできずに各個撃破されてしまうはず。しかも北大陸に面している国々は小さくて兵士数も少ないことが分かっている。

 賢いはずのドラゴン軍が動かないのはなぜ? そこにヒントがあると思ったの。

 動きたくても動けない事情があるはず。

 これが勇者軍の先手になる……!

 思いついたら居ても立ってもいられなくなった。いつも通りのやり方で手紙を書くと、まだお湯を張ってあったお風呂に手紙と一緒に入ろうとして――止めた。

 裸を見られるのは恥ずかしい。どうしよう。思い悩んだ私は、クローゼットから引っ張り出してきた数年前の水着を着て上にパレオを巻いてバスタブに入った。

 そしていつも通り手紙が消える。これ、いつ返事来るのかな? そう思ってお風呂から出ようとしたら、

「はやっ!」

 もう来た! 手紙を拾ってその場でスマホ翻訳する。

 女神様。

 二通目にいただいたお手紙は参謀として軍略のために急ぎの内容と思い、既に情報を速報としてご報告します。

 仰る通り東大陸の小国はどこも同盟を組んでドラゴン軍に立ち向かう様子はなく、北大陸に面している国々は隣国がドラゴン軍の侵略を受けたらすぐに動いて漁夫の利を得ようとしている国ばかりです。

 ドラゴン軍が動かない理由については不明ですが、オーガ軍と対峙している前線の勇者様はドラゴンスレイヤーでもあって、ドラゴンを倒したことがあったのでお聞きしたところ――彼らは魔王の直属の部下ではないらしいと仰っておりました。

 これで参考になりましたでしょうか?

 あと、これは幻だったかもしれませんが……泉から手紙を拾おうとしたした時、水の中にお美しい女性の姿を拝見しました。前回はお顔を、今回は素敵なドレス姿でした。

 女神様だったのでしょうか?

 棄民の身で恐縮ですが、ぜひお会いしてお話をお伺いしたいと心から願っております。

 あっ、やっぱり見られてた! 最初のは顔だけだったんだ。初対面がお尻じゃなくて良かった。セーフ!

 ということは、やっぱりあの時に見た鎧姿の青い目をした男の子が手紙の彼だったんだ。

 正直なところ――格好良かった。イケメンなのもあったけれど、そういうのとは違って地に足をつけて人生にしっかり向き合って生きている、人としての逞しさを持つ目と顔をしていた。

 思い出してぽーっとしてしまう。いけないいけない。

 勢いだけで返信を書いてバスタブに入る。混乱しないかな? でも私は知りたい。彼のことを。

 すぐに返事が来た。

 女神様。

 私のことを気にかけて下さって嬉しいです。

 私は本名を×××と申します。中央大陸の×××村で生まれました。棄民の印である痣ができてしまったので南の島に逃げたのです。

 棄民とはこの世界で背中に特定の痣ができた人を言います。

 この痣ができた人は世界に仇をなすという伝説が世界中にあって、たいていは小さいうちに痣ができるので、痣ができた子供はその場で殺されてしまうのです。多くの村や町ではそういう法律があります。私は十五歳と自分で考えて動ける頃に痣ができたので逃げました。

 海を泳いで逃げたのですが疲れて気絶したまま漂着したのを、南の島にいた勇者様に助けてもらったのです。

 南の島は逃げきれた棄民たちが身を寄せ合って暮らしていました。元々はモンスターや大型の獣がいて危険なため島民もいない無人島だったのを切り拓いたそうです。

 そんな時に魔王が世界征服すると聞いて立ち上がりました。

 女神様は私や勇者様のような棄民でも助けてくださりますでしょうか。

 それだけが心配です。

 やっぱり差別を受けていた人たちだったんだ。

 どこの世界に行っても迷信なんてなくならない。差別は次々と生まれるし、平等なんて絶対にない。

 私はすぐに「棄民も平民も関係ありません。立ち上がったあなたたちだからこそ助けたいのです」と送り返した。その返事もすぐに来た。ただ「女神様のお心遣いがとても嬉しいです本当にありがとうございます」と。

 すっきりした。そして勇者と手紙の彼にかなりの親近感を覚えた。

 私も日本という社会から一度棄てられた身だから。行政からたらいまわしにされて警察に疑われ、野垂れ死ぬところだった。殺されそうにはならなかったけれど心は殺された。

 助ける。私のためにも。

 頭をぶんぶん振って部屋に戻ると、戦略立案の作業に戻った。前の手紙ですごいヒントを貰えたから。

 それは魔王軍も一枚岩ではないということ。ドラゴンは魔王の部下じゃないとしたら援軍のはず。ドラゴンの長は魔王と同盟を組んでいて、魔王の世界征服のために異世界かどこからからドラゴンたちを送り込んできたと仮定する。

 本来の約束は進軍なんだろうけど、攻めやすいはずの東大陸の小国に手を伸ばさず北大陸の東側から動かないでいるのは、彼らも命が惜しいから。勇者がどれだけ強いのかは分からないけれど、彼一人でも倒される存在なのだから無敵ではないし、ドラゴンスレイヤーという言葉があるということはドラゴンを倒せる人が他にもいるということ。

 となると西大陸のデーモン軍が動かないのはなぜ? でもこれは理解できる。面している西大陸の大国が強いから攻めあぐねているのが実情のはず。

 南に進軍しているジャイアント軍は単に運が良かっただけ。

「……戦略ができちゃった」

 この筋書き通りに行けば魔王が倒せる。本当かな? でも正解なんて誰にも分からない。これが答えだって決めて前に進むしかないんだから。

 それはこんな戦略だった。

 ドラゴンは魔王との同盟があるから北大陸の東側にいるけれど、そもそもが援軍だし積極的に動きたくないから進軍はしない。そして手紙の彼率いる拠点防衛隊を南側に置いたままジャイアント軍の進撃を防ぐ。

 これで北大陸の東と南は抑えた。これを前提に西大陸の大国と同盟を組んで、勇者率いる部隊とともに西側のデーモン軍を攻めてもらう。

 ドラゴンは援軍に来ないはず。ジャイアント軍が援軍に来たらその隙を突いて拠点防衛隊が進撃して挟み撃ち、援軍に行かなければデーモン軍を叩いた勇者隊と一緒に今度はジャイアント軍を挟み撃ちにする。

 これでデーモンとジャイアントを潰せる道筋が見えてきたら、いよいよ東大陸の国々に使者を送って「東大陸からの進撃には勇者軍がサポートし、奪った領土はそのまま明け渡す」として同盟を組む。

 領土拡張が好きな東大陸のいくつかの国と手を組めるはず。そこから芋づる式に同盟を広げていけばいい。同じ話を西大陸大国軍にもしておけばドラゴンまで叩いてくれるかもしれない。

 そうしてデーモン、ジャイアント、ドラゴンを一掃して魔王の居城に乗り込む。

 これが私のプランだった。

 絵に描いた餅なのは理解しているけれど、絵を描かないと始まらない。あとは手紙の彼を通じて得た詳細な情報を元に個々の戦術を練るだけ。

 何より大事なのは、勇者には思う存分暴れてもらうという絵であること。私がお願いした手紙の彼と一緒の拠点防衛は無視してジャイアントへ向かっていったぐらいだから、基本的には暴れたいだけの人だと分かった。

 仕事を与え続けないと何をするか分からない。そして同盟は必ず勇者に結んでもらう。あなたは世界を救う人々の旗頭なのよと持ち上げておかないといけない。

 すぐにこの戦略を手紙に書いてバスタブから送った。宛先は──迷ったけれど「ブルー」さんにした。いつまでも手紙の彼だとおかしいし、拠点防衛隊長だと味気ない。

 彼だけを指す言葉が欲しかったから。

 いつも通り光りながら消えていった手紙を見届けると、入れ違いで新しい手紙がやってきた。

 女神様。

 兵力を割くということで勇者様の反対に遭いましたが、それでもと譲歩した人数でできるだけの情報を得ることができました。以下に箇条書きでご報告します。

 ・ドラゴン軍はやはり魔王と同盟を組んだ異界の者で、東大陸からの侵略に対する備えでしかなく、攻撃に動いたことはなく戦意はほぼない模様です。

 ・ジャイアント軍とデーモン軍は魔王の直轄であり、女神様の予想通りデーモン軍は西大陸大国軍の防衛線を崩せず被害が大きかったのか進軍は中止しており、その間にジャイアント軍が比較的弱かった中央大陸に侵略したという経緯でした。

 ・魔王自らの進撃はこれまでありません。

 ・以前お送りした地図は平面だけでしたが、ある程度、高低差の分かる地図もお送りします。

 やっぱりブルーは仕事ができる。欲しかった情報が次々と上がってきた。魔王軍の状況は私の戦略が間違っていなかったことも裏付けてくれている。

 ここから先は休む間もなく次々と手紙のやり取りをした。

 できるだけリラックスできるようにアロマを焚いてお気に入りのハーブティーを飲みながら手紙を翻訳しては読み、そしてその場で手紙を書いてバスタブに沈める。

 傍目にはゆっくりお風呂に浸かってバスタイムを過ごしているように見えるだろうけど、私は絵に描いた戦略がゆっくりと進んでいく報告を見ては一喜一憂しながら手紙を書き続けた。

 だけど──私は詰めが甘かったことを思い知らされる。

 言われた通りに勇者は西大陸の大国と同盟を結んでくれて、大国軍と一緒にデーモン軍を攻めてくれた。さすが勇者だと思ったのは、大国軍の援軍なんていらないぐらいの勢いでデーモン軍を完膚なきまで叩いてしまったこと。

 でも、そのせいで誤算が生じた。デーモン軍をもう助けても意味がないと知ったジャイアント軍が拠点防衛隊に総攻撃をかけて陥落させてしまったの。

 女神様。

 私もいったん退避します。泉の水だけは持ち歩きますので、連絡できるようになったらすぐにご報告します。

 どうか見捨てないでください。

 数分置きに来ていた彼からの連絡が、この手紙を最後に途絶えてしまった。

 温くなったお風呂を何度も沸かし直しながら、肌がふやけないよう時おりバスタブから出たりして待っていたけれどダメだった。

 向こうがどうなっているのか知りたい。彼が生きているのかだけでも知りたい。

 何度もバスタブに潜ってみたけれど分からなかった。たまにキラキラ光る水面のような光景が見えた時もあったけれど、手を伸ばしたり頭を突っ込んでみても何の変化も起きなかった。

 彼が、ブルーが死んじゃった。そう言葉にした私は泣いた。

 止めどなく涙が流れ出てくる。拭っても何をしても泣き止めなかった。泣いたってどうしようもないし、泣いている場合でもないのに泣くことしかできなかった。

 私は冷静になるためお風呂から出ると、気持ちを落ち着けるために着替えて髪を乾かしながらハーブティーを飲みつつ、どうしてミスをしたのかを考えた。

 でも答えは出てこない。それも違う。ミスが何かを探さないといけないのに、まだ心が揺れていてどうしようもなかったから。

 深呼吸を繰り返しながら、頭を切り替えるためにはどうするか考えていると──また婚活セミナーのテキストが目に入った。

 この場面で参考になることなんてあるのかな。何気なく捲ったのは最初のページだった。

 『一、まずは自分の性格と現状、それに将来像を正しく把握しましょう。相手の選り好みをする前に自分を振り返ることは何より重要です。彼を知り己を知れば百戦危うからずと言います』

 そっか。そうだよね。私はすとんと腑に落ちた音を自分でも聞いた。

 勇者の力を見誤っていたのもある。それに勇者軍の全容も知ろうとしていなかった。性格を把握していればやり過ぎることぐらい予見できていたはず。

 だとしてももう遅いの? やっと気づけたのに。

 私にできるのは手紙を送ることだけ──。「もう少し状況を確認すべきでした。皆さんが集結できて落ち着いたタイミングで手紙をください。いつまでも待っています」

 それまでの間にできることを考えた。でも情報がない今、何をどう考えたらいいのかも分からない。

 SNSで聞いたところで意味はないし、変なアドバイスを真に受けて妙な考えに固執して空回りする姿しか想像できない。

 じゃあどうしたら? ぐるぐるぐる。頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。

 リセットしなきゃ。でもあの世界のことを考えないこともできない。うーん。もうダメ。じゃあバカなことを思いつけばいい。例えば? ブルーや勇者は何を食べているのとか? そんなことどうでもいい。本当にどうでもいいの? 本当にどうでもいいこと? 私が魔王だったらどうするか、とか?

「あ……」

 それかもしれない。相手がどう動くのかを予想すれば最悪の結果だけは免れるはず。

 デーモン軍はほぼ消滅したけれど、ドラゴンとジャイアントの両軍は健在だから焦ってはいないはず。

 ドラゴンは動かない。デーモン軍は動けないし、勇者軍不在のままだと西大陸大国軍も進軍はやめて防衛に回るはず。

 つまり前と同じくジャイアント軍が押し込んでくる。中央大陸は元より南の島まで来るかもしれない。

 だとしたらブルーや勇者は南の島まで逃げたことになる。そこで再起をかけられるし。でも本当にそうかな? また中央大陸に渡るのは至難の業だから、中央大陸のどこかに身を潜めているほうがやりやすいはず。

 そうなるとジャイアント軍の兵站は伸びきっているに違いない。戦線も長くなっているから、分断して各個撃破もしやすいはず。

 ──ぽちゃん。

「来たっ!」

 走り出そうと思って転んでしまった。思いきり肩を打ったけど構っていられない。

 起き上がりながらユニットバスに入ってバスタブを見ると、浮かんでいた手紙を拾って開き、スマホをかざした。

 女神様。

 あれから一か月ほど経ってしまいましたが、ようやく落ち着いたのでご連絡いたしました。

 北大陸の南端に設営した拠点はジャイアント軍の急襲で破壊されてしまい、拠点防衛隊は中央大陸に退却したものの更なる追撃を受けて、南の島に近いところまで押し込まれてそれぞれ散開し身を潜めていました。

 ジャイアント軍は私たちを一人残らず殺す命令を受けていたようです。

 勇者様は女神様の軍略が失敗だったと激高して離脱してしまい、それを知った西大陸の大国とも距離を置かれてしまいました。

 拠点防衛隊は以前の三分の一にまで減ってしまいましたが、かつてオーク戦で同盟を組んだ二国からの支援と義勇兵で七割ぐらいまで兵力を戻せました。

 勇者様はもういらっしゃいませんが、それでも私は魔王を倒すつもりです。

 女神様。どうか私に軍略をお授けください。

 また涙が出てきた。良かった、無事だったんだ。

 でも違うかもしれない。命があるだけで大怪我をしていたかもしれないし、だからこそ一ヶ月かかって動けるようになったのかもしれない。

 どちらにしてもこの状況で次の戦闘に負けた場合、それは拠点防衛隊の全滅を、彼の死を意味してしまう。

 まず状況を整理する。私の想像通りジャイアント軍は中央大陸まで拠点防衛隊を追ってきて、さらに掃討命令を出してまで彼らを全滅に追い込もうとしている。それは何を意味しているか。

 ブルーだけならそこまでしない。勇者が拠点防衛隊にいると思っているから。つまり彼はまだ生きている。

 完全に勝てる方法を編み出さないといけない。それには今までのやり方じゃダメだと気づいた。

 そう。一緒に考えるの。ブルーに調べてもらった情報を私が先入観なしに評価して、それで戦術を考える。そしてそれを実際に遂行する彼に見てもらって最終確認した後に──実行する。

 まずはこの提案をしてみたところ、快く受け入れてもらえた。

 次に彼と彼の部下の情報を提供してもらい、思いついた作戦が現実的に可能なのかを判断してもらった。

 練ったプランを見たブルーとその部下はいけると言ってくれた。

 そうして二人で立てた作戦が行われた。

 知らせを待つ間はただただもどかしかった。でも無情にも朝は来てしまう。

 通勤時間がそんなに長くなくて本当に良かった。朝に出勤してお昼に一時帰宅して手紙のやりとりをし、また会社に戻って定時までやきもきしながら過ごすと、急いで帰って返信を受け取って書いて送る。

 それを二日間繰り返した頃には、ブルーの世界だと二カ月が過ぎていたらしい。

 女神様。

 今、私たちは北大陸の南端で破壊された拠点の修復作業に取りかかっています。

 女神様と二人で立てた作戦は見事に成功し、ジャイアント軍を北大陸の中央にまで押し戻せることができました。

 デーモン軍は壊滅状態、ドラゴン軍は様子見のままなので、以前と同じ状況にまで戻すことができました。

 さすが勇者様だと皆が言っています。それほどまでに女神様の策は効果的でした。

 勇者様が西大陸から再来するという虚報を流しながら私たちの一部隊に勇者隊を名乗らせてその演出をし、すぐに反応したジャイアント軍の主力が向かったところを背後から叩きました。

 実際に西大陸大国軍も攻めに転じていたのもあって、ジャイアント軍はそちらにも兵力を割かねばならなくなり、三分割されたジャイアント軍の指揮命令系統が混乱したのを受けて、我々が総攻撃をかけて敗走に次ぐ敗走をさせた時には、誰もが女神様を称えていました。

 今日、拠点の復旧作業に目途が立ったので、久しぶりの戦勝祝いを催したところ、皆は喜びながら酔いつぶれています。

 次の作戦について検討を始めさせてください。よろしくお願いします。

 この手紙には私も本当に嬉しくなって、コンビニまで行って少し高いワインでお祝いをしたほどだった。

 ブルーに何もなくて本当に良かった。

 救いの女神、参謀の女神だなんて浮かれながら、まるでゲームのように戦争を操っているような気になって、本当に神様みたいな万能感すら覚えていたこの勘違い女の目を覚まさせてくれた。

 深く深く反省する。次を間違えたら彼を失ってしまう。それだけは避けないといけない。

 ブルーの送ってきた北大陸の勢力図を見る。デーモン軍とジャイアント軍は壊滅状態だけどまだ中央部に残っているから、きちんと殲滅しないといけない。

 でもジャイアント軍は比較的戦力が残っている。このまま楽に押し込めるとは思えない。

 まだ何の損失も出していないドラゴン軍は様子見なのかな。何してるんだろ? あの巨体で長い首をキリンのように横たえて寝ている姿を思い浮かべてちょっと笑ってしまった。

 魔王に怒られそう。私だったらメンツの問題もあるし何かしら行動を起こすと思うけど。

「うん……?」

 そうだよね。あともう少しで魔王の居城に手が届くところまで来ているのに、ドラゴンが動かないなんてあり得ない。

「まずい……!」

 私は急いで手紙を書くと、服を脱ぐのも待てずそのまま一緒にバスタブへ飛び込んだ。

 お願い! 早く届いて! 祈りが届いたのか、手紙は光り輝きながら消えていった。

 同じ過ちは繰り返したくない! 彼に死んでほしくない!

 早く受け取って! 早く!

 お風呂に涙が落ちる。青い目の彼がドラゴンの爪にズタズタにされながら、剣を手に倒れて動かなくなる姿を思い浮かべてしまったから。

 いつもだったら数分で返ってくる手紙がいつまで経ってもこない。気力もなくなっていく。バスタブを出て水着に着替えなおしてひたすら待つ。

 気がついたら夜が明けていた。うたた寝してしまったらしい。でも手紙は来ていない。

 もう出勤の時間だった。でも行けない。

「もう無理……」

 私が一日仕事を休んでも会社は回るし世界には何の影響もないけれど、ブルーの世界で私がいなくなるのは彼にとっても彼の世界にとっても魔王に負けるのと同じ意味。

 そのつもりでやっているし、もう覚悟はできた。

 私はブルーと彼の世界を救う。居場所なんてなかったこの現実世界のことなんて知らない。

 私は私を必要としてくれる彼と彼の世界のために全てを捧げる。

 風邪で休むと連絡した私は、ユニットバスの近くで過ごせるように部屋の模様替えをした。

 ネットスーパーで籠城用の食料品や日用品をしこたま仕入れる。勢いに任せてフリフリのついたドレスみたいな水着も買った。コスプレみたいだけど気持ちを盛り上げるにはこれしかないと思ったから。

 お急ぎ便で届いた水着を着ていつでも行けるようにしていたその時──、

「き……きたっ!」

 バスタブに浮いた手紙を見つけて拾った。すぐにアプリで翻訳する。

 女神様。

 今回も命を助けていただいてありがとうございました。

 あと少しでも遅かったら、空からやってきたドラゴンたちの炎で焼き殺されていたところでした。

 女神様の手紙を読んですんでの所で分散待避してやり過ごした私たちは、拠点を失ったものの一人も失うことなく退却することができました。

 捕虜にしたドラゴンが言うには、まさに女神様が仰った通りジャイアント軍の敗走に業を煮やした魔王がドラゴンの一体を見せしめに殺してドラゴン軍を動かしたそうです。

 どうして話を聞けたのかですが……実は勇者様と合流できたからです。

 激高して私たちから離れた勇者様ですが、魔王討伐の思いは変わらなかったので、東大陸に渡って沿岸諸国同士の一時的な同盟を取りまとめてくださっていたのです。

 ドラゴン軍が私たちへの攻撃に数を割いたその隙を突いて、勇者隊と東大陸同盟軍が攻め込んでかなりの戦果を挙げ、そのうちの捕らえた一体から話を聞いたそうでした。

 やはり魔王は異界と通じていて同盟関係にあったドラゴンに援軍を頼んだものの、彼らは当初から防衛のみだと聞いていたため動く気もなかったそうでした。

 ドラゴン軍も他と同様に敗走を繰り返して北大陸の中央部へ押し込まれたようです。

 今がチャンスです。女神様、ご指示を。

 間に合った。本当に良かった。

 今度は安堵の涙が出てくる。拭いながら私はすぐに返事を書いて送った。

 それは直接勇者と話をしたいというものだった。

 勇者には絶対的な力がある。ドラゴンスレイヤーの称号で分かる通り戦闘力が高いのはもちろん、中央大陸での二国に不戦条約を結ばせたり、西大陸の大国や東大陸の沿岸諸国もまとめてしまった。

 次の戦闘は世界の今後を決定すると言っても過言じゃないものになる。そのためには各国の力も借りないといけないし、それらを纏める求心力も必要になる。

 そもそも勇者という大きな駒を欠いたままでは動くことすらできない。

 だから──彼には私の作戦に従事した行動をとってほしい。一筋縄でいかないことはもう分かっている。

 よくおじさんたちが言っている「腹を割って話そう」がしたかった。でも文章でどう伝えたらいいか想像もつかない。持ち上げたらいいの? それとも女神なんだから上から目線で行けばいい?

 散々迷った私は婚活テキストに縋った。五つの女子力のうち、使っていなかった最後の言葉。

 『四、相手の全てが知りたいのなら、まずは自分が全てをさらけ出すのです。隠し事は隠し続けた時間の分だけ相手に不信感を抱かせます』

 そっか。これもまたすっと腑に落ちた。相手に名前を聞くときもまず自分から名乗るのが礼儀だし。

 コミュニケーションってそういうものだった。単純なことよね。

 私は手紙で全てをさらけ出した。

 自分は別の世界に住んでいる、誰でもできる仕事をして安い賃金を貰っている二十代の女で、偶然ブルーから手紙を貰ったことで縋られたと思い、見捨てられなくて救いの女神を名乗ったこと。

 そちらの世界のことや軍事、戦略や戦術みたいなものは全て図書館で覚えた付け焼き刃の知識で、それを元にアドバイスをして成功もしたけれど失敗もしてあなたを怒らせてしまった。

 でも私は私なりに全力でブルーとあなたのいる世界を救おうとしている。自分がこちらの世界で見捨てられたまま生きてきたから、私に縋ってきた人たちだけは見捨てたくない。そういう思いでやってきた。

 だから手伝わせてほしい。次の戦闘の行方次第で魔王を倒せるかどうかが分かる。ここで失敗をしたら最後になると確信している。

 あなたには力がある。その力を私に使わせてほしい。集めた情報を先入観なしに評価できて全体を俯瞰で見られる私にあなたの行動を指示させてほしい。

 もちろん勇者としてのプライドは傷つけないつもりだし、それを損なうような作戦は立てない。

 だから従ってほしい。あなたたちの世界を救いたい。

 そうしたためた手紙を送った。

 これは大きな賭けだと思う。どんな反応があるか未知数だし、拒否された場合は大きな不安要素を抱えたまま進むしかなくなるから。

 俺はあんたが勇者と呼ぶ×××だ。

 俺は字が書けない。だから×××に代筆してもらっている。

 ×××と違ってあんたを女神だとは思っていないし、実際にそうだった。そしてあんたと同じく俺も勇者と祭り上げられただけの、ただの荒くれ者に過ぎない。

 俺やその仲間を棄民だとして殺そうとしてきた奴らを返り討ちにしたのが始まりだった。

 棄民だって人だ。伝説で世界を滅ぼすと言われただけのただの人だ。なのに痣ができただけで殺されるこの世界を変えたかった。

 そこに魔王がやってきた。世界を変えるチャンスだった。

 だから×××と一緒に立ち上がった。最初は四人だ。そこから色々あって数千人にまで膨れ上がった。

 だが、ただの荒くれ者に数千人を率いる力もない。ドラゴンを倒す力はあるが、人を動かす力はない。俺についてこいと言うしかできない。

 騙し騙しやってきたツケが出たのをあんたに助けられた。

 確かに北大陸での敗北には俺も頭に来て勝手に動いたが、それはあんたに全てを任せようとして失敗させた自分自身に苛立っただけだ。あんたも×××も恨んじゃいない。魔王を倒して俺や×××みたいな棄民が平和に生きていける未来が欲しい気持ちには変わりはない。

 俺は皆を守る責任感から勇者として振る舞っただけの荒くれ者に過ぎない。

 全体を見ているあんたに従う。あんたの作戦を超えて動かない。約束する。

 だから何なりと言ってくれ。

 勇者が受けてくれた! 私は思わずバスタブの中でガッツポーズをする。

 これでようやく作戦を伝えられる。思い描いていた戦略を細かく書いて送った。

 影響力のある勇者には西大陸大国軍との同盟関係の再確認と共同での攻撃を取り付けてもらう。

 その上で三方向からの挟み撃ちを提案した。ドラゴン軍のいる東側には勇者隊と東大陸同盟軍を当てる。ドラゴンスレイヤー相手にドラゴンたちは戦意喪失して元の異界へ逃げるか全滅するかしかない。

 関係回復させた西大陸大国軍には勇者隊からの選抜隊と一緒に、西側からデーモン軍とジャイアント軍を攻めてもらう。

 南からはブルーの拠点防衛軍を当てるつもりだけど、数で押し込まれないよう中央大陸の二国から援軍を取り付ける。

 それぞれ勇者とブルーの部下に使者をお願いして交渉に向かってもらう。

 その間にも勇者隊や拠点防衛隊の部隊長等を細かく決めて役割を与えていく。

 そうしているうちに西大陸大国軍との同盟を再確認し共同攻撃の約束を取り付け、ブルーの部下が中央大陸の二国から援軍を引き出した。

 これでもまだ進軍はしない。三方向のいずれかでこちら側が敗走してもリカバリーできるように、中間地点に部隊を配置していく。

 ここまでの計画や実行は全て、勇者、ブルー、私の三人で相談しながら決めていった。

 そのうち東大陸同盟軍から不満の声が届いたという報告があった。西大陸大国軍との共闘には占領した北大陸の領土割譲を条件として快諾してもらったものの、どこの国がどの割合にするのかで揉めているらしい。

 魔王より利権争いなんて。世界を守らないと自分たちの国すら怪しくなるのがどうして分からないのかな。

 でも人ってそんなものかもしれない。さて、ここをどう調整するか。

 西大陸大国軍は北大陸の西半分を制圧するはずで、残り半分を東大陸同盟軍が収める。定量的な内容で割合を決めないと、例えば戦果とかにしてしまうとその定義で揉めて戦争になりかねない。かと言って第三者に見てもらうのも主観が排除できない時点で論争になって決まらない。

 やっぱり参加兵士数で割合を算出するしかない。ここでまた戦果の話に戻るはず。兵士数は多いけど何もしなかった──そんな言いがかりがつくはず。

 その場合は占領する国の位置で調整してもらおう。何も利益は領土の広さだけじゃない。

 女神様。

 東大陸同盟軍の首脳会談が先ほど終わりまして、作戦への参加が全会一致で決定されました。

 占領後の領土割譲は参加兵士数の割合で決められ、その位置も女神様の提案された仮想利益に対して得意な国家が収まっていく形になりました。

 西大陸の大国側に面した国々は西大陸との貿易中継点として通商で、東大陸に面した国々は北大陸との海運事業で、そのどちらにも属さない内陸部は北大陸独自の名産品の輸出で稼げるようにしました。

 兵士数が少ないところには得意な事業が行える位置を選ぶ形にしてバランスを取ってもらったのです。

 この方式に感動している将軍もいました。女神様の策謀には頭が下がります。

 いよいよ来週には作戦が開始されます。戦況は随時私からご報告します。

 どうか女神様のご加護を。

 ごねたなら目に見えない利益で釣ってとお願いしたのが見事に成功して、こうしてブルーの言うとおりに戦闘の準備が整ったことのは本当に良かった。

 何よりも嬉しかったのは、素性を明かした後もこうして彼に成功した「女神様」と呼んでもらえていること。

 彼への気持ちが徐々に変わっていっていることに私も気づいていた。いつかこの想いを伝えられたらいいな。

 でも今は魔王を倒すことに専念しよう。

 作戦は漏れなく伝えているし、イレギュラーが起きてもリカバリーできる体制にもしてある。

 ブルーが送ってくれる戦況に合わせてすぐに作戦を考えられるよう、ユニットバスの壁には向こうの世界地図を書いたシートを貼って、その上に水で張り付くおもちゃを部隊に見立てて俯瞰できるようにした。

 水着のまま飲食できるよう何もかもをバスタブの近くに置いて、ここで過ごす。

 すぐに手紙が来た。

 西大陸大国軍がデーモン・ジャイアント混成軍を迎え撃ち、勇者の部下率いる部隊が着実に戦果を挙げてゆっくりと戦線を東へと進めている。

 勇者と東大陸同盟軍の勢いは凄まじかった。撤退せず抗戦を選んだドラゴンが襲いかかるも次々と倒されていき、急遽呼び寄せたらしい異界からのモンスター──ワイバーンや翼竜にも怯まずに西へ西へと進軍していった。

 他の軍と歩調を合わせてくれているのは、私の指揮に従ってくれている証拠だと思う。

 以前と同じように活路を南に見いだそうとしたのか、ジャイアント軍の主力が南下して拠点防衛隊を襲ったものの、中央大陸軍との共闘でこれを返り討ちにし、そのまま押し込んでいった。

 徐々に狭まっていく魔王の領土。

 最初に全滅したのはデーモン軍だった。最後の一体との死闘を制した西大陸大国軍は沸きに沸いたという。

 次は勇者と東大陸同盟軍で、ドラゴン軍は最後の数体まで数を減らし続けた結果、最後には異界へ戻ってしまった。

 これで当初の目的は達成できた。

 そのまま勢いをつけて魔王の居城へ進撃だと誰もが言っていたらしいけれど、私は軍をいったん停止させてモンスターの残党狩りを指示した。

 魔物はそのまま分裂したり異界から仲間を呼び寄せるかもしれない。勢いに任せて進むと背後を取られてまた敗走しかねない。

 この読みは正しかったらしく、拠点防衛隊の近くにゲートができてデーモンが次々と姿を現して襲いかかってきたらしい。

 でも準備万端だったため、既に合流していた勇者隊とともに応戦して掃討できた。

 いよいよ魔王の居城に向けての進軍が始まる。

 分割した拠点防衛隊を残して全軍で進むと、現れたのは魔王直轄の親衛隊らしいモンスター──ジャイアントより遙かに大きな巨人で、いにしえの神々の子孫とも言われるタイタンたちだった。

 そこでの戦いに私の出番なんてなかった。力と力のぶつかり合い。戦士たちの独壇場。

 ブルーからの報告は凄まじいものだった。

 剣や槍を手にタイタンの巨体へ切りかかり、大木ほどもある腕や足に殴られ蹴られて時には血を吐きながらも立ち上がり、武器を手に立ち向かっていく。

 私は言葉でしか知ることのできない本当の死闘がそこにあった。

 タイタンの力は戦況すら変えるほどのもので、全軍の一進一退が続いている。しかし数で勝る魔王討伐軍のほうが優勢だった。

 一体、また一体とタイタンを倒していく。そして最後の一体にトドメを差したその時は、棄民も平民も関係なく抱き合って喜んでいたらしい。

 そしていよいよ──魔王の居城へ侵入していく。

 勇者隊と一緒に西大陸大国軍と東大陸同盟軍の選抜隊で突入してもらった。万が一を考えてその他の軍は居城周辺に駐屯してもらい、さらにその外側に拠点防衛隊を配置して包囲する。

 魔王はまだ残存兵力を残していたらしく、中ではタイタン戦を凌ぐような戦闘が繰り広げられたらしい。

 そして勇者にお願いしていた合図が出た。居城の側から花火が打ち上げられたの。

 それは全軍突撃の合図で、後方支援の拠点防衛隊も含めた全軍が居城へと突入して魔王の討伐が開始された。

 玉座の間は異界にあったらしく、そこで数万人の全軍と魔王との最終決戦が行われた。

 魔王はまさにバケモノだった。ブルーからの手紙は本当に常識外れなものばかりで、私はとにかく頑張ってほしいという言葉しか返せなかった。

 数万人が一人を倒すために集団で襲いかかっていく。数千人が戦いを挑み、傷ついては後退し、後ろで怪我を治していた数千人がまた立ち向かっていった。

 その攻防がどれだけ続いたのか分からない。そのうち手紙が来なくなってしまった。

 居ても立ってもいられない。私はバスタブに入るとお湯の中に潜った。知りたい。戦況はどうなのか。勝っているのか、負けているのか。それと同じぐらい──ブルーの様子が知りたかった。

 ううん。彼に会いたかった。

 無事な姿を見たい。

「生きていて……!」

 想いが高ぶってお湯の中で喋ってしまった。息が泡となってごぼごぼと漏れ出ていく。

 苦しい。慌てて顔を上げようとして──いつか見たような水面が水の中に見えた。

 揺れるその向こうに誰かの顔が見える。青い目に短い髪。精悍な顔立ち。

 彼だ! ブルーがこっちを覗いている!

 私は思わず手を伸ばしてしまった。

 いつもだったらバスタブの床にぶつかるはず。

 だけど今はその先にまで伸びていった。

「掴んで!」

 叫んだ。息が泡になって上っていく。

 苦しい。酸素が足りない。

「早く!」

 ごぼっ! 頭が割れそうなぐらいに痛い。

 そのうち目の前が真っ暗になった。

 もうダメかも。まさかお風呂で溺れ死ぬなんて……。

 ごぼっ!

 急に体が軽くなった。ふわっと浮くような感覚。

「いてっ!」

 突然、お尻から硬い床みたいなところに落ちた。

 息! 息ができる!

 すうっと深呼吸すると視界に光が戻ってきた。

「うへえ……」

 そこに広がっていたのは――ファンタジー世界だった。

 四方はグレーの石壁に囲まれていて建物の中だというのは分かるけれど、広間というには広すぎる、ドーム球場ぐらいはあるような場所。

 その中に数万人がいた。手には剣や槍を持っていて、体に着けた鎧をがちゃがちゃ鳴らしながら、盾を構えつつ向かっていくその先には――魔王がいた。

 その体はまるで塔だった。

 十メートルはありそうなローブをまとった大きな人間が腕を振るうと、その衝撃波で何十人もの兵士が吹っ飛んでいく。

 仮面のようなその顔で何やら詠唱すると、あたり一面に炎の柱が立ち上った。

 逃げ惑う人々。直撃を受けて燃え上がる人もいれば、その隙を突いて魔王に切りかかる人もいる。

 かと思えば水の魔法を飛ばして火を消したり、焼かれた人を癒す魔法を唱えている人もいた。

「め……女神様……!?」

 声が聞こえた。

 振り返るとそこには若い男性がいた。

 青い目に短い髪、着ている鎧はボロボロであちこちを怪我しているけれど、元気そうだった。

「ぶ……ブルー……さん!」

「女神様なんですね!?」

「う、うん。私が女神……」

 彼が私を見つめた。私も彼を凝視する。間違いない。彼だ。

 異世界に来たんだ!

「ついに会えました! 私たちを救いに来てくれたのですね!」

 ブルーに抱きしめられた。

 鎧のままだったから痛かったし苦しかったけれど、それ以上に嬉しい気持ちが勝って――私は思わず泣いてしまった。

「無事だったのね……本当に良かった」

「しかし魔王はまだ健在です。女神様、どうかお力をお貸しください!」

 その声に周りの兵士たちが反応する。

 そして私を見た彼らは一様に驚いていた。そうだった。

 今の私はフリフリのドレスっぽい水着姿だったじゃない。

 まるで──突然現れた女神。

 それで思いついた。

 私は魔法なんて使えない。ましてや剣も振るえないし、何の力もない。

 でも私は女神。できることはただ一つ。

「この世を救うため私はやってきました! 私は救いの女神! 皆さんに祝福を与えます! あの魔王を打ち倒してください!」

 力の限り大きな声でそう叫んだ。

 すると一瞬だけ動きが止まった後――小さな反応があり、それは声になって叫びになり、歓声になって大きな渦を生んだ。

 魔王が驚いたような素振りを見せた。

 誰かが大きくジャンプして切り込んでいく。その一撃は魔王を袈裟切りにした。黒い血しぶきが飛び散る。

 その人は大きく反転して私の元へ駆け寄ってきた。

「遅かったな、女神さんよ!」

 勇者だった。

 筋骨隆々としたプロレスラーのような体格をした青年が笑う。体中、至るところに怪我をして血を流しているけれど、顔は元気そのものだった。

「女神も来たんだ! 俺たちの勝ちだぞ!」

 勇者の雄叫びが兵士たちをさらに湧き上がらせた。

 私の時よりも何倍も大きな声となり、それらは渦を巻くようにこの空間に広がっていく。

 そして兵士たちが一斉に魔王へと襲い掛かっていった。

 剣で切りつけ槍で突き刺し、火や水の魔法を打ち込む。それでも魔王は怯むことなく兵士たちを薙ぎ払っては、雷を落とし炎を吐いて氷で痛めつけてくる。

 兵士たちが一人また一人と倒れていった。

 私は声をかけ続けた。魔王が呪文を詠唱したら注意を促し、腕を振りかぶったら逃げてと叫び、あなたたちはこの世界を救えると応援を送り続けた。

 何度も何度も繰り返される攻防。そのうち形成が逆転してきたのが分かった。

 明らかに魔王は弱ってきている。

 それに気づいてもらいたい。私は力一杯叫んだ。

 兵士たちが呼応してくれる。勇者も雄叫びを上げて鼓舞した。

 次第に動ける兵士が減っていく。もう皆、誰もが気力だけで戦っていた。でも気力なら負けない。だってこんなにも大勢の人が打倒魔王を掲げて一緒に戦っているのだから。

 さらに戦いが続いたある瞬間。

 魔王が片膝をついた。

「今だ! 行くぞ!」

 勇者の声で全員が一気呵成に畳み込んでいく。そんな力が残っていたのかと思うほどの勢いだった。

 そして、何度目かの一斉攻撃の後に──魔王は倒れた。

 勇者がその巨大な体を駆け上っていき、額に大きな剣を突き立てる。魔王は最初は手足を痙攣させていたものの、ゆっくりとその動きが止まった。

「勝った……!」

 誰かが叫んだ。

「勝ったんだ!」

 歓声が沸き上がる。それは建物を揺らすような強さで響き渡った。

「良かった……!」

 私はあまりの嬉しさに思わず座り込んでしまった。

 するとすっと手が差し伸べられる。ブルーだった。

「女神様……私たちは勝てました。本当に、本当に……ありがとうございます」

 ボロボロになりながらも、気品を保った笑顔を見せてくれる彼。

 鎧なんて壊れて役に立たなくなり、ところどころで肌が見えて痛ましい怪我が露わになっている。

 私は立ち上がり、その逞しい体を抱きしめた。

「それもこれも、全てあなたが私に助けを求めてくれたからです。あなたこそ感謝されなきゃいけません」

「ありがとうございます」

 あちこちで同じようなやりとりが見えた。

 でも中には握手すら拒まれている人がいる。私の視線を追ったらしく、彼は苦笑いした。

「あの人は勇者軍の一人です。つまり私と同じ棄民……相手は平民なので拒否されたのでしょうね。いつものことです」

「でも、一緒に戦った仲間なのに……」

「そういうものですから。さあ行きましょう、女神様。外に報告しなければなりません。魔王を倒したことと──女神様が降臨されたことを」

「う、うん……」

 そうして私たちは魔王の居城から外に出ると、各大陸に使者を派遣して魔王討伐を報告してもらった。

 全軍が居城から出たのをきっかけにして、西大陸大国軍が音頭を取っての祝勝会も催された。

 勇者とブルーが主賓として招かれるのかと思ったら──確かに最初こそその手柄について感謝の言葉があったものの、メインは西大陸大国軍と東大陸同盟軍の首脳たちで、祝勝会は彼らの交流の場と化してしまい、最終的にはそのまま北大陸の領土割譲の会議となってしまった。

 私はというと──女神と呼ばれていたもののそれは勇者軍の中だけに通じるもので、他の国々からは「勇者の女」ぐらいにしか思われていない存在で、私の採った作戦や指揮については話題にも上らなかった。

 勇者は気分を害したのか途中退席して勇者隊の仲間を引き連れてどこかへ行ってしまう有様。

 それでもメンツは保たなければならないと思って、私とブルーは居心地の悪い中、戦勝会での出席を全うした。

 その翌日。

 今後について話し合おうと勇者を待っている時に決定的な事件が起きてしまう。私たちは西大陸大国軍と東大陸同盟軍の両軍から即時の撤退を求められてしまったの。

 理解できない。最大の功労者なのにどうして?

 勇者不在のまま私とブルーが勇者軍を代表して抗議したら、返ってきた言葉は「棄民は南の島に帰れ」ということだった。

 言葉は丁寧だったけれど──魔王討伐はいずれどこかの国が主導して行われるものであって勇者がいなくてもできたこと、全体の兵士数に対して勇者軍の割合は微々たるもので、魔王との戦闘においても両軍の寄与が大きかったこと。

 そもそも棄民は棄民らしく世界の片隅で過ごすものであり、こんな公の場にいてはならないこと。

 「女神とかいう女は痣がないから置いていってもいいぞ。何なら私の側女にしてやってもいい」──そのセリフを聞いた時にはブルーが抜刀してしまい、大変なことになるところだった。

 もう事情が違う。戦略も戦術も関係ない。政治ならまだ近かったかもしれないけれど、これはただの人種差別でしかなかった。

 差別は歴史と文化が混じった複雑な感情が根っこにあるから、この世界に降り立って一週間も経っていない私には何もできない。

「……悔しいですよね」

 撤退の準備をしながらブルーがぽつりと呟いた。

 虐げられてきた歴史はいったん忘れて世界のために立ち上がって戦ったというのに、用がなくなれば去れ、帰れと言われてしまう。

「痣があるだけなのに……おかしい。おかしいけど……どうしようもないの?」

 私はいつの間にか泣いていた。彼がそっと抱き寄せてくれる。

「魔王討伐は共通の目標でした。だかだこそ手を取り合えたのです。でも、それが終わった今、棄民にできることはありません」

「……だって……」次の言葉が出なかった。黙ってしまう。私が救いたかったのはこんな世界じゃない。「……勇者さんはどこへ行ったんだろ?」

 もう撤退の準備は整った。

 兵士たちもそれぞれの故郷に帰る。既に動ける人には行ってもらっていた。

 後に残ったのは棄民たちだけ。彼らもまた勇者の帰りを待っていた。

「……女神様はどうされるんですか?」

「私も一緒に行くよ。縋られたんだから、最後まで付き合いたい」

 その答えを聞いたブルーがにこっと笑ってくれる。

 こんなに優しい彼がなぜ差別されないといけないの?

「そりゃいいことを聞いた」

 後ろから声が聞こえた。振り返ると、そこにいたのは勇者だった。

「お……お帰りなさい。あの……」

「説明不要だ。話は聞いた。だから……女神もお前も一緒に来てくれないか? 他のヤツらもだ。ああ、帰りたいのがいたら引き留めない。不満があるヤツ、俺についてきたいヤツだけでいい」

 何があるんだろう? 分からないけど、私とブルーはついていった。

 残りの兵士たちは戸惑っていたものの、誰も帰ろうとせず勇者の後をついていく。

 向かったのは魔王の居城だった。

 まさか魔王が復活を? 構えてしまったものの、場内にモンスターの姿は見あたらなかった。

 激しい戦闘を繰り広げたあの玉座の間に戻ってくる。でも立ち止まらない。進んでいったその先には──玉座があった。その後ろには光を放っている空間がある。

「バカバカしい宴会を捨てて俺は調べてた。魔王はどこから来たのかをな。ここからやってきたんだ。正確にはここで魔王の力を手に入れたってことらしい。元はただの人間だったと思う。前に生け捕りしたドラゴンから聞き出した」

「それが今の状況とどう関わってくるの? まさか……」

 私が驚き目を見開いた顔を見ると、勇者がニヤリと笑って頷いた。

「俺たちは何をしても『棄民』から逃れられない。ただ痣があるってだけで全否定されるんだ。痣があるだけで人間扱いされないんだよ。女神も似た経験があったんだろ?」

「……そうよ。でも本気なの?」

「はっ。やっぱりあんたは話が早い。俺は本気だ。俺はこの世界が憎い。それでも自分の世界だ。救おうと立ち上がった。何か変わるかもってな。でも甘かった。変わるわけがない。変わらないなら強制的に変えちまうしかない」

 ここまで聞いたブルーが気づいたように声を上げた。

「まさか、勇者様……魔王の力を手に入れてこの世界を征服するつもりですか?」

「あいつらの好きな伝説を起こしてやるんだよ。痣があるってだけでこの世に仇を成す存在なら、お望み通り仇を成してやる。この世を手に入れてやる……!」

 そう頷く勇者の目は本気だった。その言葉を受けた彼は──ゆっくりと首肯した。

「……私も彼らが憎いです。この世を救った私たちを蔑ろにした挙句、女神様を妾にしてやると言い切ったのです……!」

 ブルーが拳を握って歯を食いしばる。彼は怒っていた。

 それを見た私は嬉しさのあまり彼の手にそっと触れた。

「だから、あんた……」勇者が私を振り向く。「魔王になってくれ。俺とこいつ、それについてきたいヤツを使ってこの世界を征服するんだ。平和のために。差別のない世界のために」

 私には守るものができた。私を慕ってくれているブルーと一緒に過ごす時間を守りたい。

 そのためには勇者の思い描く差別のない世界が必要だった。

「……やりましょう」

 私の返事にブルーは喜び、勇者は手を打って笑った。そして兵士たちも歓声を上げてくれる。

 善は急げ。私は玉座の近くで光る空間へと入った。

 力が漲ってくる。

 外に出た私を見たブルーは少し顔を赤らめた。壁の鏡で確認すると、私の着ていた水着はかなりセクシーなものに変わっていて、背中には羽根も生えていた。

 そして全身からただよう闇のオーラ。まるでサキュバスだ。

 次に勇者が入った。出てくると凶悪なまでの筋肉を備えたバーサーカーのような姿に変わっていた。

 ブルーも入る。出てきたのはトゲトゲのあるいかつい鎧をまとった悪の騎士になった。でもあの優しい青い目は変わっていない。

 兵士たちも次々と入って変身する。

 そうして魔王軍は生まれた。

「さて、第一声をよろしく頼むぜ」

 勇者に促された私はこくりと頷いた。

「私たちを蔑ろにするこの世を滅ぼして、差別のない平和な未来を築く! ついてこい、皆の者よ!」

 わーっと歓声が上がる。

 そうして私は異世界で魔王となった。

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