何も縛られるもののない世界へ
人の流れに押し出されるように電車を降りて改札を抜けて駅を出る。
いつものようにスーパーで安い惣菜を買って、疲れた体を引きずるようにして歩きながら徒歩二十分のアパートにたどり着いた。
この年代物の建物の一〇一号室が俺の城だ。
錆びた集合ポストを開いて詰め込まれていた一通りの郵便物を掴みながら、ドアを開けて部屋に入る。
ベッドとクローゼットにテレビぐらいしかない、安い家賃の狭い空間。俺にとってはここが世界の全てといっても過言じゃない。
安いおにぎりとおかずをモソモソ食べながら、何が送られてきているのかをぼんやり眺めた。
光熱費の領収証にダイレクトメール、不用品回収のチラシ。要らないものを惣菜の入っていたレジ袋に詰めていく。
「……何だこれ」
一枚のレシートが出てきた。
うちの街にはないドラッグストアのもので、買ったものは三つの生理用品になっている。
どう見ても俺のじゃない。誰かごみ箱代わりにうちのポストを使ったのか。
苛立ちながら丸めて捨てようとして――その裏側に何か書いてあるのが見えた。
『人殺し』
「えっ……?」
何だこれ。滅多に見ないタイプの文字を見て鳥肌が立った。
思わず周りを見回してしまう。別に誰もいない。
俺が人殺しだって? ふざけるなよ。仕事で疲れ切ったヤツに人を殺せるわけないだろうが。
ただの悪戯だろうな。丸文字だから女か。趣味の悪いヤツがいるもんだ。
明日も早いんだよ。俺はレシートを丸めてレジ袋に投げ入れると、シャワーを浴びて歯を磨きベッドに飛び込むようにして寝た。
翌日。
また朝イチから仕事が始まった。あれもこれもと頼まれごとをしているうちに定時が過ぎてしまい、いつも通りにスーパーに寄って惣菜を買って帰宅する。
そして集合ポストを開けて――思い出した。
「また……か?」
デリバリーのチラシに挟まるようにして小さな紙切れが入っていた。カレンダーをカットして作ったようなメモサイズの紙。うちの事務所にもよくあるその紙にはこう書いてあった。
『私は見たの』
何をだよ! 俺は声を上げそうになった。悪戯が過ぎる。
続くようなら警察に相談しよう。そのために必要になると思った俺は、昨日のレジ袋からレシートを引っ張り出して今日のと一緒に保存する。
嫌な気分になりながら寝て起き、次の日も帰ってくると――またメモが入っていた。
その次の日も次の次の日もメモがあった。ある日は付箋に、ある日はノートの端切れに。そうして一週間が経った。
何なんだよ、全く。気まぐれに最初からの手紙を繋げてみた俺は、また鳥肌を立てた。
『人殺し』『私は見たの』『犯人は男』『時間は十一時』『包丁で背中から』『許さない』『捕まえて』
「嘘だろ……」
文章になっていた。
私は包丁で背中から刺した人殺しを見た。犯人は男で十一時だった。許さない。捕まえてほしい。
俺は慌ててスマホでニュースサイトを調べた。最初の手紙が来たのは一週間前。そのあたりの国内ニュースを漁ってみると――その日の二十三時ごろ、大学生の女性が何者かに刺されて倒れているのを通行人が発見して一一九番通報し、すぐに救急搬送されたものの死亡が確認されたというものが見つかった。
細かい場所までは分からなかったものの、事件が俺の住むこの街で起きたことは分かった。SNSで町名に通り魔のキーワードで探してみると、それが俺の部屋のドアから見える場所にある路上だったことも分かった。
部屋着のまま外に出て恐る恐る行ってみる。駅からは反対方向だし街灯もないそこは薄気味悪いので、そっちにあるコンビニへ行く以外は滅多に使わない路地裏だった。
警察官もいないし規制線も張られていない。血痕もないし、ここで殺人があったとは思えなかった。
いったい誰が何の理由で俺に犯人探しを頼んだんだ? 訳分からない。
でも、ここで人が死んだんだとしたら。俺がとりあえず手を合わせた――その時。
「うおっ!?」
俺の手が勝手に動いた! 右手がぎこちなくズボンのポケットに行くと、スマホを取り出してロック解除したあげくメールアプリを起動させやがった。
本文に何か打ち込み始める。
『やっと会えた』
「嘘だろ!?」
思わず叫んだ俺は口を押さえようとしてスマホを落としてしまった。
慌てて拾う。入力した文字がそのまま残っていて、また俺の指が意志に関係なく動き出した。
『話を聞いて』
「ど……どうすりゃいいんだ? ここにいりゃいいのか?」
どこを見たらいい? 当てもなく地面とか電柱を見ながら聞いてみた。
すると指が動いて返事をしてくる。
『私は地縛霊』『落ち着いて』『話をさせて』
「分かったよ、話を聞いてやる。まずお前は誰なんだ? どうしてこんな真似をする? 何で俺を選んだ? 他にも警察とかいっぱいいるだろうが」
言いたいことを言うと、少ししてから指が動いてスマホに文字を打った。
『家が近い』『ポストに入れやすい』『頼みやすそうな顔』
「はあ?」
文面だけ見ると、何だかからかわれている気がする。
さらに指が答えてきたのは、俺が何となく想像していた通りの内容だった。
俺に取り憑いて指を動かしているのは以前にここで死んだヤツで、気づいたら地縛霊になっていて成仏もできずにこの場所に留まっているらしい。
そんな中、通りがかった大学生の女が目の前で男に刺殺された。顔も服装も持ち物も覚えているし、犯行の瞬間すらはっきりと見ている。
誰かに伝えたかった。鑑識作業や捜査をしている警察官には何もできなかったらしい。ピリピリしていたせいもあったんだろうか。
それで通りがかった適当なヤツを見つけて取り憑いてみたらうまくいったので、落ちていたレシートの裏にメモを書かせて俺のアパートのポストに入れたらしい。
「そいつを使えば良かったじゃねえか」
『ゴミだと思って』『捨てられたら困る』
「それで次々と同じ方法を使って俺に手紙を送ったのか?」
『そう』『犯人を見つけて』『刑務所に入れて』
「何でお前がそんなこと頼んでくるんだよ? その女本人じゃないんだろ?」
『無関係』『だけど悲しい』『何も悪くないのに』『殺されちゃったから』
「そもそもお前はどうして死んだんだ?」
『知らない』『だけどずっとここにいる』『関係ある?』
もしかしてこいつも殺されたりしたのか? それで同情してるのか? これが解決したら、自分も成仏できると思ってるとか?
「もし犯人が見つかって逮捕されたらどうなるんだ?」
この質問にはすぐに返事がなかった。少ししてから手が動く。
『何にも』『縛られない』『世界に行きたいから』
「はあ?」
縛られない世界? それは地縛霊だから成仏したいってことか? 人の殺人事件を解決すると楽になれるのか?
考えすぎたら分からなくなってきた。
「……分かった」
『やった』
根負けしたみたいになっちまった。
「何の知識も能力もないただの作業員に何ができる? 俺より警察のほうが一億倍頼りになるだろ? だから俺が橋渡し役に──」
『ダメ』『私の情報だけじゃ』『警察は動かない』
「あのな。俺は探偵でも何でもないただの組立工だ。警察とか探偵の真似事なんてできるわけないだろ? 俺に何をさせようってんだ?」
『犯人探し』『証拠探し』
「何回も言うけどな、俺には何もできないんだよ。やったとしても下の下、下手しか打てない。目撃したのに何もできない無念さは何となく分かるよ。可哀想だと思う。でも、できないものはできないんだよ」
すると地縛霊が俺の手を止めた。自由になる。何だ? 諦めたのか?
ならいいが……と思ったら、しばらくしてまた指がテキストを打ち始めた。
『持ってるでしょ』『ペンとノート』『出して』
何で俺がその二つを持ち歩いているのを知っているんだ? まあいい。ジーンズのポケットから作業で使っているミニサイズのノートとボールペンを出した。
「出したぞ。スマホはどうすりゃいい?」
『うふふ』
テキストにそう入力した瞬間。
目にも止まらないスピードで指が勝手に動いたかと思うと、スマホの設定を開いて勝手にパスコードを変更した後に──ロックしやがった!
「おいっ、何しやがる!」
そしてスマホをポケットにしまうと、落としていたノートとボールペンを拾ってこう書かされた。
『解除方法は』『私しか知らない』『教えてほしかったら』『言うこときいて』
「くそっ、人質かよ!」
俺は家にPCもないしセカンドスマホも持っていない。俺にとってスマホは俺の全部が詰まっている大切な端末なんだ。
サブスク契約した動画サイトに電子書籍、たまにグチを吐き出すSNS。もちろん組立工場や同僚の連絡先も入っている。
――詰んだ。
金さえあれば一式揃えて何もなかったようにできるけど、日々スーパーの安い惣菜で命を繋ぐのが精一杯の俺には無理だ。
「……分かったよ、分かった」
適当に努力したフリをすれば許してくれるだろう。向こうはこっちが何をやってるか分からないわけだし。そうすれば何にも縛られない世界へ行けるんだろ?
『犯人捕まえるまで』『パスコード教えないから』
くそっ。仕方ない。
「じゃあ教えてくれ。当時の状況とか、知ってること洗いざらい全部」
『いいよ』
そうして俺は地縛霊から殺人事件の目撃情報を聞くという冗談みたいなことを、乏しい街灯の下でやることになった。
傍目からしたら小さなノートにボールペンで何やら書き込みながらブツブツ言っている危ないヤツだろう。
最初はバカバカしいと思って何度も止めようとした。しかしよく考えてみたら、この地縛霊はともかく女子大学生はここで殺されたんだよなと思い直す。無念だったよな。俺がここで聞き出すことによって解決できるのなら、それはそれでいいじゃないか。
全てをきちんと書き留めていく。
殺人犯は四十代ぐらいの男。グレーっぽいスーツを着ていた。中肉中背で髪は薄めで鋭い目つきをしていたものの、それは興奮していたからかもしれない。
ヤツは薄い鞄から包丁を取り出して「運が悪かったな」と言いながら女子大学生を背中から刺した。
被害者は最初、訳も分からないように振り返って男を見たものの、声も出せず、そのうち痛みから動けなくなったように路上に倒れ込んだところを、今度は正面から腹部を刺されて絶命した。
『じゃあ今すぐ探して』
「無茶言うなよ。今聞いたばっかりだろ? それにこっちだって生活もあるんだ。そもそも何をどうすりゃいいか考える時間も必要だし……まずは寝かせてくれ」
『分かった』『でも毎日来て』『この時間に』
「分かったよ。約束する。じゃあな」
俺はノートボールペンをポケットにしまうと、スマホを握ったままその場を離れた。
すると体からすうっと気のようなものが抜けたのを感じる。これが取り憑かれていたってことなのか。
部屋に戻って一通り済ませて眠ろうとしたものの、案の定寝られなかった。このベッドってこんなに広かったか? いやいや違う。
幽霊ってマジか。地縛霊って何だよ? 他のヤツもこんな目に遭ったことあるのか? 色々と調べたかったものの、スマホが使えない身ではもう目を瞑るしかできない。
深呼吸をして気持ちを整えていたらいつの間にか寝ていた。
朝起きて出社しいつもの組立作業を始める。だけど普段のようなパフォーマンスは出なかった。
あの地縛霊と先週の殺人事件のことが気になって仕方なかったからだ。手が止まる度に考えてしまう。
手伝ってやりたい気持ちも少しはある。だとしても俺に何ができるんだ? 警察に言うぐらいしかない。その場合はどうなる? まず俺が犯人だと疑われて根掘り葉掘り聞かれるはずだ。どんなヤツなのかここへ聞き込みに来るかもしれない。
地縛霊の言う通り、この程度の情報じゃ警察は動かないのかもしれない。でもやってみないと分からないだろう?
その日は定時より早く帰った。俺の顔色が悪いからと社長が気を利かせてくれたのだ。ただの作業員にそこまでしてくれたことには感謝しかない。
ともあれいつも通りスーパーの惣菜を手にしながら、ごく普通を装って途中にある交番に寄ってみた。
「あの、ちょっと聞きたいんですが。友達がひったくりを目撃したみたいで、犯人の顔もやった時のことも全部覚えてるらしいんですけど、それだけで警察って捜査してくれるもんですか?」
「まずは話を聞かせてもらいますよ。その内容で捜査するかどうか検討します。たまに嘘をつく人もいますから」
制服姿の警察官が俺をじっと見てくる。最後の話は俺を試しているようにも聞こえた。
「それは信憑性ってことですか? それとも目撃者がまともかどうか? 証拠があるとか?」
「総合的な話ですね。ちなみに目撃証言も立派な証拠です。でもその人が被疑者とどういう関係なのか、赤の他人ならいいですが、知り合いとか友達だと狂言の線も考えないといけませんし。まあ物的証拠があればベストだし、本人の自白が一番ですが」
暇なだけだったらしく、割ときちんと教えてくれた。ほっとため息をつく。
「そういうものなんですね。自白が一番……」
「その人はどこ住まいですか? 良ければお話をお伺いしますが」
「ネットで知り合った他県の人なんです。私に相談されてもさっぱりなんで、帰り道のここで聞かせてもらいました。同じ話をしておきますね。お忙しいところすいませんでした」
「いいえ。お友達にも地元の交番で相談するよう伝えてください」
「ありがとうございました」
「ここから家は近いですか? あんな事件があったので、何かあればすぐに交番か一一〇番へ連絡してください。後をつけられていると思っただけでも大丈夫ですから」
「え? あ、はい。ありがとうございます」
おっさんをそんなに心配しなくてもいいのに。
いったん家に帰って荷物を置き、念のため集合ポストを見てみた。手紙は入っていない。
行くしかない。ドアから見える事件現場に向かった。
すると、ぞわっとした感覚とともに手が動き始める。ジーンズのポケットからノートとボールペンを出してすらすらと書き出した。
『犯人見つけた?』『捕まえた?』『そいつ死刑?』
「はえーよ。まだ警察に捜査の仕方みたいなのを聞いただけだって」
『何て言ってた?』
「目撃証言も証拠だけど信憑性が必要だし、物的証拠と自白が一番いいみたいだ。そういうのないか?」
『包丁は犯人が持ってった』『知らないヤツだった』『防カメ探して』
「防カメって防犯カメラのことか? 素人でそんなことできないだろ? もうちょっとマシな──」
『スマホいらないのね』
「いるよ! いる! 今日も会社からの電話に返せなくて大変だったんだ。じゃあどうすればいいんだよ!?」
『私には何もできない』『それを考えるのが』『あなたの役目』
ちっ。俺は分かりやすいぐらいに舌打ちをした。
「じゃあ分かった。やってみる。だけどな、俺は素人なんだ。時間がかかる。たどり着けないかもしれない。結果が出ないのを承知でやる。それだけは分かってくれ」
『時間はかかってもいい』『でも絶対見つけて』『何でも教えるから』
「じゃあ、そいつの人相とかもっと詳しく教えてくれよ。じゃないと探すに探せないだろ?」
『全部言ったけど』『他に何を言えばいい?』
「それは……例えば芸能人とか近所の有名人に似てるとか、何でもいい。ただ四十代のおっさんじゃ分からないだろ?」
『それならある』『芸能人ならあの人』『ビールのCM』『笑いながら飲んでたおっさん』
「誰だそれ? 名前は?」
『知らない』『興味なかったから』『そうでしょ?』
そうでしょって何だよ。まあ俺もおっさんには興味ないけどさ、頼むならそれぐらい覚えておけよな。悪態をつきそうになるのをこらえながらスマホで調べようとして──ロックされているのを思い出した。
「そいつを調べたいからロック解除してくれ」
『はあ?』『そんなことしたら』『止めちゃうじゃない』
「……じゃあ調べてくる」
まあそうだよな。一人ごちながら部屋に戻った俺は少し考えて、そのまま出社できるようにと着替えも持って駅前のネットカフェに向かった。
受付でチェックインを済ませると、まずは寛いだ。
初めてじゃないとは思うけど、いつぶりかなのかも思い出せない。二人で来ていた気もする。広いしシャワーもあって、ここで暮らすとかもアリだなと思った。
流浪の旅でネカフェをハシゴ。何も縛られるもののない世界。だけど行き着く先は──野垂れ死にかな。
「うん……?」
ヒントだ。
もし自分が通り魔をやるならどうする? 捕まりたくないから、アシのつきやすい自分の住んでいる街ではやらないはずだ。
人を殺しやすい場所とか街を探したくなると思う。暗い路地が多いとか人通りが少ない、それでいて車を使わない場所がある、とか。
じゃあそんな場所を見つけに遠くまで行くかっていうと、そうでもない気がした。土地勘がゼロだと動きにくいし、逃走経路だって分からなくなるからだ。
ほどよく離れている場所。それがこの街なら下見に来たはず。今の俺みたいにネカフェに泊まりながら。
まずはそっくりさん探しだ。
CMで笑いながらビールを飲んでいたおっさん。そんなの死ぬほどいるだろ? そう思いながらも、有名なビール会社のウェブサイトを片っ端から見ていった。
するとまさにその通りのCMが見つかった。何が楽しいんだか分からないが、とにかくただ馬鹿笑いをしながらビールを飲んでいる。
五年前のやつだったらしく、SNSではその意味不明さが面白いとバズっていたそうだ。
薄っぺらい、いわゆるしょうゆ顔で、頭髪が薄め、顔立ちも幸薄めの中肉中背のおじさん。人気のある俳優らしい。
プリントアウトして眺めてみた。人を殺しそうにない顔。逆だったら分かる。ドラマとかに出たらついでで死んでそうなキャストの人。
ここまで来たら勢いだ。聞いてみよう。
俺は部屋を出ると受付で暇そうにしている男の店員に寄っていって声をかけた。
「あの……この人に似た人、最近見ませんでした? ちょっと事件関係の人なんですけど」
別段嫌そうな顔もせず、店員はプリントアウトした写真に目を落とした。
「見たような見てないような。分かんないっすね。事件関係ってこの前の通り魔っすか? 刑事さん──には見えないけど」
何も考えてなかった。まさか地縛霊からの情報を確認しに来たとは言えない。
「え、えっと……ネットで緩く繋がってた友達と連絡つかなくなっちゃって……年も一緒だったっぽいし、この人と似てる人に何度か遭遇したみたいな話を聞いた記憶があって……」
「マジっすか」疑ってもいなさそうに驚く。「流しの犯人かもしれないとかで、警察がうちの防カメ映像を全部持ってったんすよ。だけどめぼしい人がいなかったみたいで──だから、もういっぺん探してもらえばいるかもしんないっすよね! 連絡してみよ!」
「あ、ちょっ……」
止める間もなく店員がレジ脇にあった名刺を見ながらスマホで電話をかけ始めた。
するとすぐに繋がったらしく、しかも五分後には相手が店に来てしまった。さらにはバックヤードに通され二人きりにされて、特別な感じになってしまう。
何てこった。
そんな俺の動揺を知ってか、グレーのスーツ姿をした三十代ぐらいの刑事は名刺を渡しながら、心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
そのまま無言で直視される。何なんだ、こいつ。
止めてくれと言いかけた時、刑事が先に口を開いた。
「ごめんね、こんなおじさんと狭い所で。すぐに終わらせるから教えてくれないかな」何だよ、子供扱いか?「なので単刀直入に聞くね? 一週間前の夜中にこの街で起きた通り魔殺人の被害者と友達だったんだね? その子から『後をつけられている』と聞いたのがこれと似ている人だった。間違いや訂正があれば教えて」
「友達つってもオンラインゲーム上のですよ。名前も顔も知りません。でもチャットでこの街に住んでるって言ってたし、一週間ぐらい前からチャットないなって思って、そう言えば前に、この人に似てるおっさんとよくすれ違うって聞いただけで……」
「なるほどね。ちなみにそのゲームの名前は?」
困った。でも間を作ると怪しまれる。俺は店内に貼ってあるポスターを適当に指差した。
「探しに来たぐらいだから、個人が特定できそうな情報はなかったんだよね? その子がしていたのは街の話だけ? 他に何か言ってなかった?」
「相手は女の子ですよ? 身バレしたくないじゃないですか。俺の言った話が全てですよ」
「普通はその街の名前すら言わないけどね。地域が分かれば、後は細かい話──何時にどこで何を買ったとか、そういう情報で個人を特定できる人は多いんだ。君は特別だったのかな?」
さすが刑事だ。鋭い。まあいい。俺は首を傾げるだけに留めた。
「これを見るとそうだったと思うけど」
刑事がプリントアウトした紙を指さす。そこには俺のメモが書いてあった。
「鋭い目をしていたのは興奮していたせいもある、『運が悪かったな』のセリフ……これはどういう意味かな?」
しまった。俺は顔を青くさせた。
「目は本人がそう言ってたんですよ。セリフは……そんな口パクに聞こえたとか何とか……」
「ふうん」刑事が俺の目をじっと見つめてくる。「そうだったんだね」
信じたのか? 本当に? だけど蒸し返す必要もない。
よし、次は俺の番だ。
「犯人の目星ってついてるんですか? これと似た人?」
「……今のところは捜査本部の発表通り、被疑者は見つかっていないんだ。だからこそ君の情報でこうしてすっ飛んできたわけでね。これもらっていいかな? 参考にさせてほしいんだ」
おお。少しは進展した。
「どうぞ」
「ありがとう。……それでね」
そして何だか真面目そうな顔でまた俺を直視してきた。こいつのこの感じ、試されているみたいで好きじゃない。
「万が一ということもあるから、君はここまでにしてほしいんだ」
「え? どういうことだ?」
「だからね。その被疑者はもしかすると本物かもしれない。だとしたら君の友達を殺していることになるよね? 検視では躊躇なく刺したことも分かっているんだ。君が追っていることを知って君を次のターゲットにしかねないという意味なんだよ」
「俺がターゲットに?」
「もちろん。だからここから先は警察に任せてほしい。進捗があり次第連絡はするから」
それは願ったり叶ったりだ。嬉しさで手を叩きそうになる。
でも──少しだけ違和感があった。今にも俺が襲われる前提みたいに話すけど、それって三十代のおっさんに言うセリフか? まあ、余計なことをしてほしくないという気持ちは分かるが、子供を諭すような言い方が気に食わなかった。
まあ、どうでもいいか。重複する部分もあったものの、俺は持っている全ての情報を伝えた。
後は捜査の状況をもらう連絡先の交換だけになって──そこで困った。俺のスマホは地縛霊にロックをかけられているから電話には出られない。
「それがその、今はスマホが壊れてて……住所ぐらいしかないんですよ」
「社会人だよね? それじゃ名前と生年月日に住所、会社の連絡先を教えてもらえるかな? 勤め先には滅多に連絡しないから安心してね」
マジか。まあ仕方ないかな。
刑事が出してきたメモに一通りの情報を書いて、何か分かったらすぐに教えてほしいと念押しして渡すと――これで事情聴取は終わった。
店員にも軽く説明をして刑事が帰っていくのを見届ける。これだけのために来たのなら料金なしで帰ってもいいよと店員に言われたものの、あのアパートの部屋よりマシだと思ってそのままネカフェに泊まることにした。
理由は他にもある。こうして警察に頼むことはできたものの、見つかるかどうか分からないし、そうなればスマホもいつ帰ってくるか分からないからだ。
何かできることがあるのなら、それはネットしかない。つまりここで過ごすしかないということだ。
まずはその芸能人に似ているヤツをネットで探した。でも引っかかるのはSNSとかの適当な書き込みばかりで何の役にも立たない。かといってガチ似の人を探すとしたら時間がかかりすぎる。
どうしたもんかな。ふと見上げると、天井の隅に監視カメラのレンズが光っているのが見えた。
防犯カメラってネットで見られるのかな? 前にニュースでセキュリティの弱い防犯カメラ映像がネットに流出して、色々とプライバシー侵害になる出来事があったと報じていたのを思い出す。
試しに検索してみると、すぐにサイトが見つかった。そこは世界各国にある監視カメラ映像が見られるようになっていて、日本のも初期パスワードだったりセキュリティが設定されていなかったりする監視カメラが何百万台と閲覧可能になっている。
「まさかね……」
うちの街の監視カメラも何台か登録されていたので、事件のあった一週間前の二十三時ごろの映像を見てみた。
一台目はどこかのマンションのもの。人通りはあるものの顔までは分からない解像度だった。別段変な動きをしている人はいない。
次はコンビニみたいな店のヤツ。これは映っている人も多くて画像も鮮明だったものの、若い人ばかりで四十代は少なめ、しかもほとんどが太めだし違う。
そんな調子で次々と見ていった。アパート、戸建て、会社のビルに、盗撮なのか個人が仕掛けたようなヤツまでたくさん見たけど、特に何もなかった。
そう簡単には見つからないか。じゃあどうする? 一個一個きちんと見ていくか? そんなことを思い始めてげんなりし始めた時――、
「おい、マジかよ……」
見つけてしまった。駅近くのコインパーキングについていた監視カメラ。
違法駐車とか悪戯防止用に設置したらしく、顔やナンバーを識別できるよう解像度も高くて低い位置に取り付けられたものが、俺の探していたヤツを映していた。
「似てる……!」
街灯に照らされているグレーのスーツを着た、中肉中背というには少し痩せている男。短い髪に細い目でしょうゆ顔をしている。興奮すると鋭い目つきになりそうだ。
手にしているのはビジネス用っぽい鞄だけど、異様に薄かった。ノートパソコンを入れたらそれでおしまいな感じ。
こいつで間違いない。どこへ向かっている? 監視カメラの映像から方角を割り出すと駅へ急いでいるように見えた。
時間は二十三時十分。つまり犯行後、こいつは人を刺し殺した後にのうのうと帰っていたわけだ……!
人殺しめ。俺はヤツを追った。最寄り駅の監視カメラはない。少なくとも他の駅だろうと時刻表と移動時間から出したおおよそのアタリをつけて、降車駅近くにある監視カメラをチェックする。
隣の駅にはいなかった。その隣にも。時間は二十三時だからそう遠くない場所のはずだ。すぐに見つかる。
その予想は当たった。四つ隣の駅。
思わず息を飲む。駅の方から歩いてきてフレームアウトしていった。
オンラインマップを見るとその駅にもネカフェがあるらしい。
俺は居ても立ってもいられなくなって、宿泊プランをキャンセルして店を出ることにした。
「もしかして早速進展あったんですか? あの刑事さんから呼び出されたり?」
「え? いや、ちょっと用事ができて……」
「あ、違ったんだ。そっか……それじゃ、何かあったらこっそり教えてくれません? ほら、身近な事件だし、あの刑事さん紹介しましたよね?」
ぐいぐい来るな。ちょっと怖い。俺に何を求めてるんだ?
「まあ、何か分かったら……」
「あざーす! これ俺の連絡先っす。何でもいいんで連絡ください! 暇とかご飯とかでもいいんで!」
店のポイントカードに電話場号とSNSのアカウントを書いて渡してきた。
気持ち悪い。俺が女だったら速攻捨ててるぞ? 男の趣味があったとしてもお断りだけどな。
適当にいなして店を出ると、俺は急いで家に帰り支度をしてから駅へと向かって、終電少し前の電車に乗って四つ先の駅で降りた。
人通りもだいぶ少ない中を歩き回ってヤツを見つけた監視カメラの設置場所らしきマンションを探し当てる。
何となく方角は分かった。すぐに駅前へ戻ってネカフェに入ると、パソコンのオンラインマップでヤツのルートを割り出そうと調べた。
駅と駅前は中規模のビルが並んでいるものの、そこから先は住宅街へと変わっていく細い道ばかりの区画で、その中でもまっすぐ駅へと繋がる道路が一番通りやすそうだった。
その方角からの改札は一つしかない。
明日は大変だぞ? 自分に言い聞かせながら俺はネカフェの部屋で眠った。
翌朝。五時に起きた俺は軽く食べてネカフェを後にすると、始発前の駅に向かった。そして改札に繋がる道が見える路上で隠れるようにして見張りを始める。
半分がベッドタウンみたいな街だからそこそこ人通りがあるものの、都会でもないから何とか顔の判別はできる人の量なのが助かる。
同じ格好でいると怪しまれるよな。そう思って持ってきた上着や帽子で時折見た目を変えながら潜み続けて監視した。
一時間経ち、二時間になり、三時間を過ぎる。八時を超えた。
それでもヤツは見つけられなかった。もしかして見過ごしてしまったんじゃないか? 焦り始めたものの、それでもまた明日来ればいいかと楽観的になる。
仕事みたいだ。まるで刑事だなと一人で苦笑いしていたその時。
「いた……」
思わず口走った自分の口を手で押さえる。
本当にいた。あの芸能人そっくりだった。しょうゆ顔、薄い頭髪にやや痩せ形の体型と、ぺったんこな鞄。
間違いない。
俺はすっと人の流れに乗って後をつけた。改札を通って一緒の電車に乗る。常にヤツの背中側で気づかれないよう尾行する。
行き先は五駅先にある県の中心部だった。下車して向かった先は大きめの建物が立ち並ぶ一角で、その中でもひときわ大きなビルに入っていった。
一部上場の大企業だ。会社名と住んでいる地域に最寄りの駅が分かれば警察も動けるはず。それでもまだ躊躇するかもしれない。帰りも尾行すれば住所が分かるし、表札とかポストから名前だって知ることも可能だ。
どうしようか悩んだものの、俺はいったんあの刑事に連絡を入れることにした。ここまでの流れを説明するとすぐにその場を離れるように言われたので、仕方なく駅前まで戻って喫茶店で落ち合うことになった。
「とりあえず君が無事で良かったよ」
急いだらしく刑事が少し息を切らせながら店に入ってきて、俺の向かいに座った。
「そりゃそうでしょ。尾行してただけだし」
「それは甘いよ」注文してやってきたアイスコーヒーに一口つけて、刑事が息を整える。「もし振り返って目が合ったら? そこで顔を覚えられたら? そうは思わなかったかな? 気付かれて駆け寄られて腕を握られたらどうする?」
「そもそも逃げりゃいいだけの話だし、腕を掴まれたら振りほどいて逃げりゃいいだけでしょ」
「……できる?」
また俺を詰問するように見つめてくる。何なんだ? あんな細いおっさん何とでもできるだろ?
心配してるのは俺の身の危険じゃなくて逮捕できなくなるからだろ? そう言いたくなる気持ちを紅茶で鎮めた。
「それで?」俺が聞いた。「避難させるだけなら電話だけで良かったはずだろ? 何で俺をここに呼んだんだ?」
「その前に教えて」刑事が聞いてくる。「勤め先を聞いたから君は社会人のはずだよね? 今日は行かなくて良かったのかな?」
「いけね……」
思い出した。犯人を見つけて興奮しっぱなしで仕事のことなんてすっかり忘れていた。
スマホも持っていない。地縛霊にロックされて使えなくなったから家に置いてきたんだった。
「……悪いけど、電話貸してくれない?」
「いいよ」
スマホを借りると覚えていた番号で電話をかける。するとすぐ電話に出た社長が「連絡をくれて良かった」と電話の向こう側でほっとため息をついた。
すいません。急な事情でお休みをください。いや、いいんだよ、大丈夫。それより体は大丈夫? 何があったから教えてくれないか? ――そう聞かれた俺は戸惑った。何をどう説明すればいいか分からなかったからだ。
「私が代わろう」
すると刑事が電話に出てくれた。淀みない説明を聞いてうまいなと思った。そして説明のために一緒に職場まで行ってくれることにもなった。
何だか恥ずかしくなる。結局は人の世話になってしまった。
近くに停めてあった刑事の車に乗って会社に向かう。そこは家具や部品の組立工場で、今日も俺の仲間たちが働いていた。
俺みたいに突発で休むヤツも多いけど他のヤツが代わりにやるし、色々とトラブルを起こすヤツもいるけどそれでも辞めさせられたりしないあたり、ここの社長は懐が深いというか器が大きい。
社長と会った刑事は俺の話から外れることなくこれまでの経緯を説明してくれた。社長は驚いていたものの、確かにその事件は聞いたことがあると言って、できることがあるなら協力すると約束して刑事と連絡先を交換していた。
怒られるかなとも思ったものの「ここから先は危ないから警察に任せよう」と諭されただけだった。
友達かもしれないという辛さはあると思うが、そのために自分の命まで危険に晒す必要はない。警察の捜査でもし亡くなった人が友達だと分かったら、その友達をどう悼むか、次に同じことが起こらないようにどうすべきかを考えることに力を注いでほしいとも言われた。
警察に任せたほうがいいのはその通りだ。そして俺がそうせざるを得なくなった原因についても社長が解決してくれた。なぜ電話に出なかったのかと聞かれてスマホが壊れていたからと答えたら、その場でネット注文してくれたからだ。
アカウントを再登録すればアプリやデータも戻るらしい。すごいな。
これでもう何の問題もない。こうして俺は明日から普通に出社できることになった。
気持ちの整理もあるだろうからとそのまま今日は一日休みをもらえることになって、しかも刑事の車で家まで送ってもらった。
ボロアパートの前で車が停まる。こんなことは初めてだった。
別れ際に刑事が俺の目をじっと見つめながら言ってくる。
「くどくなっちゃうけどね。友達のことで何かまた心配になったり気が付いたことがあったらすぐに連絡してほしい。社長も心配していたように、私も心配しているんだ。今日は大丈夫だったけど、次も独断で動いてうまくいくとは限らないんだよ」
「ああ、分かったよ」それでも気になることがある。「でも……何でそんなに俺のことを心配してくれるんだ? 余計なことされて仕事に支障があるのは分かるけど……」
「もちろんそれもあるよ。だけどね、私たちの仕事は人命優先なんだ。まずは君に何もないことが一番大切だからだよ」
何だか煙に巻かれたような気がしたものの、守られるのは悪い気持ちじゃない。
そうしてその日はボケっとして過ごした。あとはあの地縛霊を説得するだけ。仮眠してから事故現場に行くと、俺は今日の出来事を報告した。
「というわけで、やれることもやったし自分でも動いた。その結果、警察が捜査を引き継いでくれることにもなったんだ。あとは報告を待つだけだ」
これで一安心だ。そう思っていたら地縛霊は俺にノートでこんなことを書いてきた。
『その刑事は信用できる?』『やっぱりあなたが調べて』『警察は当てにならない』
「じゃあ逆に聞くけどよ。誰なら信用できるんだ? スマホを奪って言うことを聞かせてるヤツが信用できるか? それより仕事できちんとやってる警察のほうが何より信用できるだろ?」
『だからって』『任せっきりにしないで』『スマホ使えなくていいの?』
「危ないから止めろって言われたんだから、仕方ないだろ? そもそも……そのスマホもな、新しいのを会社からもらったんだ。つまり……俺とあんたはもう関わらなくていいってことなんだよ」
すると俺の腕が勝手に動いてジーンズのポケットを探り始めた。でも俺はニヤリと笑う。
「そのスマホは明日来るんだよ。今はあんたがロックしたヤツしかない。そして俺はもう二度とここに来ない。あんたの負けなんだ」
その悔しそうな顔を思い浮かべた。でも地縛霊の顔なんて分からない。無理やり想像したらなぜか俺の顔になった。
「警察が犯人を見つけて逮捕したら報告しにきてやるよ」
捨て台詞のように言って家に帰ろうとしたら、また腕が動かされた。
ノートにボールペンで書き始める。
また脅しか? だとしても、もう何もできないはずだ。
『これは他でもない』『あなたの問題なの』
「……はあ? 俺の問題? 何言ってんだ?」
『もう一度言う』『あなたの問題』『私の問題じゃない』
「本当に何言ってんだ? 適当な謎かけで引っ張ろうとしてるだけだろ?」
『だから』
「やめろっ!」俺が一喝するとボールペンが止まった。「じゃあな!」
走って部屋に戻るとベッドに飛び込んだ。
なぜ俺の問題になるんだ? あいつの問題だろ。いや、そもそも殺された被害者でもないし、そもそも俺は脅されて少し同情して関わっただけの無関係なヤツなんだ。
スマホも来るし何の問題もない。あんなの、あいつの嫌がらせに過ぎないんだ。
なのに──「あなたの問題」という言葉が頭の中をぐるぐる回っていて、それが残像のようにまとわりついてなかなか消えてくれなかった。
何をしても消えてくれない。これじゃダメだ。
もう寝るしかなかった。寝たら何もかも忘れさせてくれる。唯一の薬だ。
そう言えば前にもこんな気持ちになった気がする。その時もきっと寝て忘れたんだろう。
目を閉じて気持ちを落ち着かせていく。ふと、誰かととりとめのない会話をしているシーンがよぎった。
口は開いていない。まるでテレパシーみたいだ。なのに目線は合うし相づちを打ったり笑いあったりしていた。
何か懐かしい感じ。体が徐々にリラックスしていくのが分かった。
そうして誰とも知らない相手と架空のお喋りをしていると、俺はいつの間にか寝ていた。
翌日。
多少はすっきりした頭で工場に出社すると、社長から新しいスマホをもらった。給料からの天引きじゃなくて、積み立てている何とかっていう貯金からのヤツらしい。
時間をもらってアカウント移行なる作業をしたら、あっと言う間に前のスマホの環境が戻ってきた。連絡帳のデータ、よく使っていたアプリやいつも見ていたサイトのパスワード。何もかも元通りだ。
これで本当にあいつとはおさらばになる。勝手に体を動かされることもないし、危険を承知で殺人犯を追う真似もしなくて済む。
仕事も順調に進んだ。地縛霊や事件のことを忘れたくて余計に根を詰めて作業したらどっと疲れたものの、いい汗をかけたせいか気持ちは妙にすっきりしていて、何だかうきうきした気持ちで帰ることができた。
それでも部屋で一人きりになった瞬間から、ムラムラと地縛霊と過ごした短い時間を思い出してしまった。
殺された女に同情していた。自分のことじゃなくて他人の死を自分のことのように受け止めていたようにも見えた。
根が優しいのは間違いない。
殺された女は大学生だった。人生これからで、まだやりたいことは沢山あったはずなのに、まるでゲームみたいに遭遇した瞬間に刺されてあっと言う間に死んでしまった。
地縛霊になることもできず、本当にこの世の中から消滅した。
それをあいつは悲しんでいたのかもしれない。地縛霊になれば俺みたいなのを操って生きている人間みたいに交流ができる。
そんなプロセスを経ずに消えたあの大学生を悲しんでいたんだ。
それじゃあいつはどうなる? 俺が放置したら? 地縛霊っていつ消えるんだ?
もらったばかりのスマホで調べてみると、幽霊ってのはその人のことを誰も思わなくなったら消えるらしい。
今はまだあいつのことを誰かが気にかけているのだろう。両親あたりか。そして俺はまさに今、あいつについて考えている。
でもあいつと話すのを止めたらどうなる? きっとあいつの親は先に亡くなる。そのころには学生時代の友達とか会社の同僚も忘れていく。
俺すらも忘れて、あいつは消える。
自分が死んだ理由も知らないと言っていた。なのに他人を殺した犯人を捕まえてほしいだなんて言うお人好し。
そいつの唯一の頼みを断って、俺が忘れる。そしてあいつが消える。地縛霊から解き放ってやった? 何にも縛られることのない世界へ送ってやった? いや、違う。
そんなのは殺人だ。幽霊を殺したようなもんだ。仮に以前も殺されていたとしたら、二度目になる。
そんな悲しいことはない。一度目はきっと痛かったり辛い思いをして死んだ。そして幽霊になっても冷たくあしらわれて存在を殺される。
熱い。何かと思ったら、俺はいつの間にか泣いていた。
あいつが俺に向かって手を差し伸べながらゆっくりと消えていくのを想像したら、もう涙が止まらなかった。
人の命の儚さみたいなものがとてつもなく寂しかった。
だから今を精一杯生きなきゃいけないのに、大学生の女は突然命を奪われて、地縛霊のあいつは自分のことを棚に上げて他人を殺した犯人を追い詰めようとしたのに、それもできなくなってしまう。
もう無理だった。後はどうするかを考えるしかない。
それから一週間が経ったものの、あの刑事からは何の連絡もなかった。捜査が進んでいないのかそもそも何もしていないのかも分からない。
電話したところで鋭意捜査中の一言で済む話を聞かされるだけのはず。やる気を見せたら「危ないから君は動くな」と言われて警戒されてしまう。
それが一ヶ月経ち、二ヶ月が過ぎて、一年になる。そうして忘れていく……!
俺はこの「忘れる」という言葉が怖いんだと改めて知った。だからこそ地縛霊のことを思って泣いたし、そもそも字面が悲しすぎる。心を亡くすんだ。
人間が人間であるのは心があるから。それを亡くした人間はただの肉の塊でしかない。
「くそっ……!」
そう思ったら居ても立ってもいられなくなった。
いつも通りに出社して普段と変わらず組立作業をして、いつもみたいな顔で退社する。だけど向かった先は家じゃなくてあの男が住んでいる街の駅だった。
ヤツの帰宅時間に間に合ったのかどうかなんて分からない。だけどそうしないと気が済まないから駅前で張り込んだ。
改札が見える位置に陣取って吐き出されてくる人々の顔をひたすらチェックする。目立ってもいけないので時おり場所を変えながら、ジュースを飲んだり飴を舐めたりしながらとにかく見続けた。
終電間際まで監視したけどヤツは現れない。俺は大人しく帰った。
次の日も仕事帰りに張り込む。でも見つけられない。時間が合っていないのか、それとも気づかれて避けられたのか。
でも止める気はなかった。地縛霊のことを時々考えながらも駅前でヤツを探す日々が続く。もはやルーチンワークと化していた。
そうすることで気持ちが落ち着いたからだ。焦燥感みたいなものもなくなったし、何かに集中している時は他の余計なことを何もかも忘れられる。
そう言えば社長も俺は時間があると物事を悪い方向に考える癖があるから、仕事以外で趣味を持つようにと言われていたのを思い出した。
色々やってみたけど続かなかったし、そもそも人に言われて持つ趣味なんて面白くないことに気づいて止めた。
でも今やっている「ヤツを見つける」のは、ひたすら集中できている。もうこれが趣味みたいなものになっていた。
一生この時間が続けばいいとすら思う。仕事が終わってヤツを探して、忙しいまま寝られるから。それなら地縛霊のことも忘れないまま生きていける。
俺にとって、それが何も縛られるもののない世界だ。ヤツを探すという縛りがあるのに、何にも縛られない世界。傍から見たら頭のおかしいヤツに思われるだろうが、俺からしてみたらそれだけ考えて生きていけばいいのだからこんなに楽なことはない。
なのに、現実はすぐに次のステージを用意してきやがる。ついにヤツを見つけてしまった。
それは日曜日に一日中改札の近くで張り込んでいた時だった。
あの芸能人に似たしょうゆ顔の中年が見えた。スーツ姿でもないし薄い鞄も持っていなかったが、俺の目は間違いないと判断した。
妻らしい同年代の女性と高校生ぐらいの姉妹という家族連れで駅前のそれほど大きくないショッピングモールへ買い出しに来たらしい。
すぐに尾行を始める。
和気あいあいとした雰囲気が憎たらしかった。駆け寄っていってぶん殴りたい気持ちに駆られる。そいつは通り魔だぞ! そう叫びながら。
だけど耐えた。それこそ通り魔になってしまう。
彼らは二時間ほど買い物をしただけだった。書店で本を眺め百均でコスメグッズを買い、ドラッグストアで日用品を補充してスーパーで数日間ぐらいの食料品を買って帰っていく。
怪しまれないように距離をとって後をつけると、ついにヤツの自宅を突き止めることができた。
一戸建てだった。オンラインマップで住所も手に入れ、名前も表札から判明した。すぐにその場を離れる。
そして遠巻きに様子を伺った。ヤツは庭の手入れをしたり娘とコンビニに行ったりして、休日は家族思いのいい父親をしているようだった。
でも平日はどうなんだ? 仕事のストレス解消に、誰を襲おうかと道行く女に目星をつけていたりするんじゃないか? それとも次の犯行現場を探して帰り道を変えているかもしれない。
そうして俺はストーカーのようにヤツの行動をチェックし始めた。
翌日は仕事だったが、早起きしてヤツの出社時間が七時なのを見届けると、そこから俺も組立工場で仕事をし、体調不良と嘘をついて少し早めに切り上げて急いでヤツの最寄り駅へと向かった。そこで帰宅時間の平均が六時ごろなのを確認した。
そんな監視を繰り返して判明したのは、駅への行き帰りの様子に特におかしなところがないことだった。改札に妻がが迎えに来ている日もあったりして、その幸せそうな顔に腹が立った。
毎日同じ時間に仕事へ行って、時おり残業をして帰ってくる男。典型的な家庭重視のサラリーマン。幸せな家族。
何事もなく過ぎていく日々。
あの男が改札から出てきて、のほほんとした顔で家へ向かって歩いていくのを今日もこの目で見ている。
「くそっ」
証拠も動機もない。告発することすらできない。
この前殺したから今は満足しているだけなのか? だとしたら次はいつなんだ? 目の前に犯人がいるのに、こうしてストーキングを繰り返してボロが出るのを待つだけなんてできない。
地縛霊の悲しそうな顔が目に浮かんだ。なぜか俺だ。死んだ大学生を弔うことも自分を救うことすらもできず、ゆっくりと忘れ去られて消えていく。薄く背景に溶けていくその姿が見えた。
「……そんな悠長なことができるか……!」
文句を言ってやろう。何ならそのやりとりでボロを出させよう。俺はヤツのところへ駆け寄ろうとして──、
「それは早計だよ」
誰かに肩を掴まれた。それはあの刑事だった。
人混みに紛れながら人目につかない場所へと連れていかれる。缶コーヒーをもらったのでとりあえず飲んだ。
「落ち着いたかな?」
またあの目だ。試すような感じ。
「俺は元々落ち着いてる。だけど……許せなかったんだ。最低なヤツがのうのうと生きてるんだぞ?」
「それはまだ確定していないよね? 友達からの断片的な情報でたまたま条件が一致しただけの、ただの別人かもしれない。そもそも……その友達は本当に殺された子だったのかも分かっていないよね?」
「何だよ。疑うのか?」
「思い込みや間違いということもあるよね? ゲームで知り合ったと言っていたけど、職場の人たちからは君はゲームをやらないとも聞いたんだ。趣味がないって」
「なっ……そんなこと聞いたのかよ」
「ネカフェで教えてくれたゲームの名前、覚えてるかな?」
「え……」
咄嗟に選んだヤツだ。覚えていない。
「言えないようだね? それとも忘れちゃったかな?」
その口振りは全部分かっているぞと言っていた。
「それは──」
ダメだ。いい言い訳も思いつかない。
「それと君は──」
「その君っての止めろよ」もう話を変えるしかなかった。「だいたいあんたと俺は同い年ぐらいか、俺の方が上だろ? 年上に対する言葉遣いぐらい分からないのか?」
すると刑事はまた俺を見つめてきた。
「そ……その目、止めてくれよ」
思わず視線を逸らす。しばらく黙っていたら止めてくれた。
「……社長さんたちから了承も得ていてね。もし君が一線を越えそうになったら止めてほしいとも言われているんだ。そしてそうなった時──伝えないといけないことも」
そう言いながら刑事は持っていたスマホの画面を俺に見せてきた。
伝えることがある? 何かメッセージでも映っているのかと思って見てみたら、そこには十代後半か二十歳なりたてぐらいの、どこにでもいそうな女がいた。長い髪の平凡な顔立ちの女。
動いているから画像じゃない。上司か何かか? それにしてはやり手にも見えない。
「そいつ誰だよ? ……うん? 何か喋ったぞ? スピーカー壊れてるんじゃないか?」
「それはカメラだから音が出なくて当たり前だよ」
「カメラ? だってその女は──」
「君だよ」
はあ? 何言ってんだ、こいつ。
「あのさ……俺はあんたのバカ話に付き合うつもりはないんだ。だから──」
「私もバカ話をしているつもりはないよ。これは分かるね?」
刑事がスーツのポケットから小さな手鏡を出して俺に向けた。
そこに映っているのはスマホに出ていた女だった。思わず手で顔を触ってしまう。すると鏡の女も同じことをした。
どくん。心臓が高鳴った。息がし辛くなる。
俺が女? どういうことだ? 目の前がうっすらと暗くなっていく。
よろめいた時、刑事がそっと肩を支えてくれた。
「こうなることも聞いていてね。さあ自立支援の会社に戻ろう。嘱託医の先生もいるから」
自立支援の会社? 俺の勤め先は組立工場のはず。嘱託医って何だ?
頭の中がパニックになりながらも刑事に支えられつつその車に乗せられた俺は、いつも見慣れているはずの工場に戻った。
でも何かがおかしい。靄が一気に晴れたような、ピンぼけした写真がはっきり見えたような、そんな感覚が自分の中に広がっていた。
社会福祉法人と書かれた看板が目に入る。何年も通っていた場所なのにまるで初めて来るような感じになっている。
すぐに社長がやってきて色々と言葉をかけてくれたが、まだパニックになっていて何一つ頭に入ってこなかい自分がいた。
通された応接室でソファに座らされる。するとようやく普通に息ができるようになった。
「もう大丈夫かな? とりあえずお水を」
「あ、はい……」
言われた通りにコップの水に一口つける。高ぶっていた何かがゆっくりと鎮まっていく。
視線を自分の体に移した。着ているのはティシャツにジーンズというラフなスタイル。でもいつも感じていたようなゴツゴツした骨太で筋肉のついた体はそこにない。あるのは華奢で丸みを帯びた小さな女の体だった。
「ど……どうなってるんだ?」
「一つ一つ説明するから、まずは落ち着こう。私たちは君を守りたいし、これまでもそうしてきたんだ。必要なら何時間でも待つし、休憩や食事が欲しいならその通りにするから言ってほしいんだよ」
社長の言葉は心の底から心配しているように優しくて、体の隅々にまで染み渡るように響いてきた。
小さいころから社長は俺のことを大事にしてくれた。だからその言葉は信じられる。
え? 小さいころ? どういうことだ?
「分かりました」
すると応接室のドアが開いて中年の女が入ってきた。その人は組立工場の職員だったはずだ。彼女は手に持ったファイルをテーブルに置くと、俺の隣に腰を下ろしてきた。
「こんにちは。その目は私を覚えていてくれたみたいね。私はこの施設にいる全員の主治医なの。刑事さんから連絡を受けて来たんだけど……まだ自分が何者か思い出せていないのね?」
自分が何者か? それは──そうだった。
「そうみたいね」
「でも、その……」
「そうね。まず一人称から始めましょう。あなたは自分のことを『私』と呼ぶの」
「わ、私……? そんなの無理だ」
「無理にとは言わないからそのままでも大丈夫よ。それじゃ……最初に診察させてね?」
目配せを受けた社長と刑事が応接室から出て行ったのを見届けると、その嘱託医は俺の脈拍や体温、瞳孔に喉までチェックした。
そしてティシャツを脱がされる。着けた覚えのないブラジャーを外して聴診器を当てられ呼吸も確かめられる。視線を下ろすと、そこには確かに乳房がついていた。
「……俺が女? いったいどうなったんだ? 今日、いきなりなったのか?」
俺の質問に嘱託医はかぶりを振った。
「あなたは生まれてからずっと女性だったの。その機能も持っているし、健康診断でも特に異常は見つかっていないのよ。痛いところやおかしなところはある?」
「特には……」
「良かった」嘱託医は俺にブラジャーとティシャツを着せながら続けた。「なぜ自分が男性だと思っていたのかについては、社長さんと刑事さんから話してもらえるから。その時に気分が悪くなったりもう聞きたくないと思ったらそう言ってね。言えなかったり訳が分からなくなったりしたら、私の手を強く握って」
「う、うん……」
もう大丈夫ですと声をかけると、社長と刑事が応接室に戻ってきて向かいのソファーに座った。嘱託医は俺の隣で側について手を触ってくれている。
社長が優しい眼差しで俺を見つめながら頷いた。
「今はまだ混乱していると思う。でも意識がはっきりしているこのタイミングだからこそ、事実を伝えさせてほしい。まずは君のプロフィールから……君は今年で十九歳になる女の子でね、ここにある私の社会福祉法人で組立の作業をしてもらっているんだ。様々な境遇の人たちが自立のために集まって働いているんだよ」
俺が十九歳の女の子? 確かに見た目はそうだった。
そしてこの工場では色んな人が働いているけど、休んだり突然来ない人もいた。自立支援の会社とはそのことだったのか。
「それと、ここからが大事なことなんだけど……君は双子だったんだ。双子のお姉さんでね、本当に瓜二つの妹さんがいたんだよ。覚えているかな? この子だよ」
社長が少し戸惑いながら自分のスマホで見せてくれたのは、今の俺よりもさらに幼い顔をした中学生ぐらいの女の子二人が、同じ顔で笑っている姿の写真だった。
「俺が双子……? 全然覚えてない……」
すると社長は俺の返事を知っていたかのように頷くと、君の家族の話をさせてもらうねと目尻に皺を浮かべながら静かに語り始めた。
そこでの話は何もかもが初めて聞くものばかりだった。
十九年前に俺は双子の姉として生まれた。そしてすぐに父親は交通事故で他界し、母は女手一つで俺と妹を育ててくれたらしい。
暮らしは厳しかったものの家族の仲は良好で、俺や妹は積極的に家事を手伝い、小学生も中学年になると洗濯や掃除、炊事までこなしていたそうだ。
しかしその暮らしは長くは続くかなかった。俺たちが中学生になったころ、母親は過労で倒れてからあっと言う間に逝ってしまった。
そうして孤児になった俺たちを預かってくれたのが社長だった。
「私は君たちのお母さんの兄、つまり叔父なんだよ。こんなものを見せられても困るとは思うけど……」
そう言って社長は俺や妹、母と社長の関係を示す公的書類をテーブルの上に並べていった。保険証やマイナンバーカードに戸籍謄本もある。
プリントアウトされた写真では幼稚園児ぐらいの俺たち姉妹と母、そして若いころの社長が笑顔で映っているものも何枚か見せてくれた。
「公的には後見人という立場で君の親代わりをさせてもらっているんだ。中学校を卒業してからずっとここで働いてもらっていたんだよ」
一気に情報がなだれ込んできて、俺は目の前が暗くなるような気がしてソファにもたれてしまった。
隣にいた嘱託医が手を握ってくれて、水も飲ませてくれる。
「大丈夫かい? もう少し整理が必要だと思う。小さいころから遊んでいた私のことすら忘れるぐらいだから……でも話をするのは今しかないんだ。意識がはっきりしているこのタイミングしかないんだよ」
「確かに前よりははっきりしている気がするけど……」
「そうだよね。前は受け答えもままならない時期があったんだ」
「そんな……」
「残念ながらそうなんだよ。例えば……小さいころはともかく、こうして同じ職場でかれこれ五年以上は一緒にいるけど──私の名前を言えるかな? 毎日挨拶しているよね。この施設の名前は?」
出てこない。思い出そうにも欠片すら掴めない。
「分からない……」
一文字も出てこなかった。毎日会っている人なのに。
顔ははっきり覚えている。優しいし何をしてくれたのかもぼんやりと記憶していた。でも本当にそうなのか分からない。
今、目の前にいるからそう思うだけ? 何が正解? またパニックになりそうだった。
「大丈夫よ」すると手をさすってくれていた嘱託医が声をかけてくれた。「それはね、解離性健忘症という病気のせいなの。強いストレスを受けるとそれまでのことを忘れてしまう病気で……あなたは五年前の中学生の時に激しいショックを受けたから、こうなってしまったの」
「激しいショック……?」
嘱託医がうんと頷く。
「そのせいであなたは自分のことを三、四十代ぐらいの男性だと思いこんでしまったの。そうなったきっかけは──」
今度は刑事が社長を振り向いた。
「……これまで何回か話そうとはしたんだけどね」社長が少し戸惑いながら低いトーンで喋った。「これが本当の君を取り戻す最後のチャンスかもしれないから──言わせてもらうね」
俺は頷いた。
「さっきも言ったとおり、君は双子だった。本当に仲が良くて、他の誰も入り込めないほど二人は強い絆で結ばれていた。もはや一人の人間とも思えるほど……」
社長が言うには、俺たちは生まれて物心ついてからずっとそんな感じだったらしい。どこへ行くにも何をするのも全部一緒。母親もまるで一人の娘を育てているようだとも言っていたとか。
とにかくくっついていた。小さいころはトイレやクリニックで二人を別々にすると、それはもう泣き叫んで暴れたらしい。幼稚園になると道理が分かり始め、同じ円の同じクラスで過ごせたのもあって徐々に落ち着いていったという。
小学生になると別々の行動もできるようになったものの、休み時間ごとに会うようになって、授業以外は二人きりで誰も近づけずに過ごしていたため問題児扱いされていた。
そうして中学生になるとさらに結びつきが強くなり、人前で腕を組んだり、時にはキスをして抱き合っていたこともあった。
そして──事件が起きた。
「その日もいつも通り帰宅した君たちだったけど、妹さんが学校に忘れ物をしたんだ。君も一緒に行くと言ったけど熱が出て動けなかったらしい。それで一人で出かけた先で──何者かに殺されてしまった」
そう言って社長が俺の様子を窺うように覗き込んできた。嘱託医も手を握ってくる。
俺は大丈夫と頷いた。すると今度は刑事が喋った。
「事件現場は君が住んでいるアパートの近くで、つい最近も殺人が起きたあの場所だった」
どくん。心臓が跳ねた気がした。
「妹さんの帰りが遅いと君が探しに行ったとき、倒れている彼女を見つけて一一九番通報したものの──既に事切れていたそうだ。そして一一〇番に入電があって最初に臨場した警察官が……私だった。当時は交番勤務でね。君は血を流している妹さんを抱きしめながら泣き叫んでいたんだ」
だからこの刑事は時々俺を直視してきたのか。試すような視線の意味は自分を覚えていないのかと聞いていたんだ。
動かない妹を抱きしめながら泣き叫ぶ、そんな俺に声をかけてくる警察官。肩越しに見えるのは暗く沈んだ街を包む濃いブルーをした夜の空で、薄い雲が月明かりを隠している。
「それ……覚えてる……」
俺の言葉に社長と嘱託医が顔を見合わせた。でも俺の目にはもう二人が映っていなかった。
目の前がふわっと変わる。
少し離れたところでちかちか瞬く街灯。そのほんのりした明かりに照らされて、上下ジャージ姿の女の子が倒れている。背中からたくさんの血を流していて顔色は真っ青に見えた。
俺は必死に呼びかけながら駆け寄る。でも彼女――妹は動かなかった。
抱き上げる。その体は重たかった。目を開けて! でも返事はない。揺らすと頭だけががくんがくんと動く。
「う……ううっ……」
目の前が暗くなった。意識が徐々に飛んでいく。
消える。消えちまう。
俺が、俺だったはずの、三十代の疲れたしがない作業員の記憶が消えていく。
そうなりたかった、何も縛られるもののない世界の住人だったあの男が溶けてなくなっていく。
違う。なくなるんじゃない。上書きされるんだ。
ふわふわした曖昧な人間のイメージに外側から形を整えられて、色を塗られ、手と足と体が練りこまれて、顔と髪が作られていく。
その頭には大量の映像が流れ込んできた。
向かう先は、人形みたいに抜け殻になっていた――それはそれは小さな心の入れ物。
そこへ紙芝居みたいにこま切れにされた一つ一つのシーンがなだれ込んでいった。
初めて見た女の子。それは自分だと思っていた。
幼稚園の年少になってそれが自分じゃないと気づいた。だけど妹なのよと言われても分からなかった。だってその子が何を考えているのか分かっていたから。
自分みたいな自分じゃない女の子。
可愛かった。愛おしかった。おもちゃの取り合いやお菓子の奪い合いもしなかった。
話をしなくても全て通じ合っていた。お腹が空いたことも、眠たいことも、トイレに行きたいことも。今どんな気持ちで何をしてほしいかなんて、言葉がなくても知っていた。
ずっと二人でいた。もちろん母親のことも大好きだったから、二人で一緒にたくさん手伝った。助かるわと言われると二人で大喜びしたものだ。
そうして私たちは二人で多くの時間を過ごしながら成長していき、他の子と同じように体に変化が出てきて戸惑った。初潮を迎えて生理が来ると、不安からさらにもっと一緒にいるようになった。
手を繋いだり軽くハグすることが当たり前になって、それでも例えようのない怖さは消すことができずに、二人きりの時はもっと強く抱き合ったりキスをするようになった。
舌を絡めて本気で唇を合わせている時は、心の底から安心できた。
でも私たちはさらに成長していく。小学六年生になったころには自然と性的なことへの関心が生まれた。
その対象は男の子や女の子じゃなくて、私たちは私たちに欲情した。そうしていつもみたいにディープキスをしていた流れで――ついに私たちは体も結ばれた。一つになれた。
そのころだった。母親が倒れたのは。
元々そんなに体が強くなかったものの、私たちを高校に進学させるためさらにアルバイトを増やした結果、職場で仕事中に倒れてしまい、そのままあっという間に逝ってしまった。
あまりのショックでその前後のことはほとんど覚えていない。
でもすぐに社長が後見人になってくれて、全ての手続きや母親のお葬式もしてくれた。学費や生活費も出してくれることになり、妹と二人で心の底から感謝した。
当初の予定だと社長の家に住むはずだったものの部屋が空いておらず、長男が大学進学で一人暮らしのためにもう少しで家を出るというスケジュールだったため、それまでの期間限定せ知り合いだという大屋さんのアパートの一室を借りて住むことになった。
それが今も住んでいる部屋だった。
そこでの二人きりの暮らしは本当に楽しかった。誰の目も気にすることなく、私たちは愛に満ちた時間を過ごすことができた。
これが永遠に続けばいいのに。
一通りの家事はできていたし、面倒を見てくれていた大家のお婆さんとも仲良くなって、このままここでずっと暮らしたいと二人で願っていた。
でも社長の好意は無碍にできないし、まだ子供だから親戚と一緒に暮らしたほうが安心だよ。そう自分自身を納得させようとしていた、そんな矢先に――妹が殺されてしまった。
「今、住んでいるあそこが……妹と住んでいた部屋……」
二人で可愛い部屋にしようと、お小遣いで買えるものを探して百均で何時間も粘ってやっと揃えた小物たち。
お菓子は買うより作ったほうがおいしい、ぬいぐるみも自作しよう。ゆくゆくは自宅でできる仕事をして、ずっと二人でいられるようにしよう。
そんなことを話していた、二人の城。
「思い出したようだね。私の家の整理がつくまでの間、大家さんがよく面倒見てくれて、実際にその日も大家さんが妹さんを学校に連れて行ってくれたんだ。部屋に帰ってきて別れた後──妹さんは君の熱冷ましとカロリー補給のためにアイスを買いにコンビニへと行ったんだよ。その数分の時間で狙われてしまった……」
うなされていた。アイスをお願いと言ったことも思い出した。熱が出ると意思疎通が難しいねと妹が苦笑いしていたのも。
「わ、私は……何てことを……!」涙が溢れてきた。「妹は背中から血を流していた……もしかして……」
涙目になりながら刑事さんを振り向くと、彼はゆっくり頷いた。
「手口は今回の事件と全く一緒だったよ。背後から襲って刃物で一刺し……時間帯も場所も一緒なんだ。だから──もう一度聞かせてほしい。君は今回の被害者とゲーム友達だと言っていたね? それは本当かな?」
「ち……違う……」
「じゃあ、どうして犯人が彼だと知ったのかな? 実際に見た? それとも他の誰かから? 正直に言ってほしいんだ」
ここまで来たのに何を迷う必要があるの? 正直に言えばいいだけ。
私は私じゃなかった。それはもう知っている。誰にも怒られない。だけど──確かめたい。
「……時間をください」
「時間? それは──」
「そうですね、時間が必要です」刑事さんの言葉を遮って嘱託医の先生がそう言ってくれた。「これ以上は辛いはずです。後は私のほうでケアをさせてください。伝えるタイミングができたらまたご連絡します」
「しかし──」
「無理やりこじ開けると、次は二度と開かなくなってしまいます」
「……承知しました。連絡をお待ちしています」
刑事さんは社長にまた電話すると告げて帰っていった。彼には本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。謝りたかった。事件直後に駆けつけてくれた人を忘れていたなんて。
社長からも聞かれたけど、今は言えないとしか答えられなかった。その後に嘱託医の先生からも話があったけど、それは無理しなくていいということと何かあったらすぐ連絡をするようにと名刺を渡されただけだった。
社長からアパートの大家さんはもう高齢で施設に入ってしまい、今は私のことを誰も気遣えない状況だと言われた。
そして独り立ちして出て行った長男の部屋が空いているから今日からでも一緒に住まないかと言われたものの、それは丁重にお断りして改めて時間をくださいと告げてあのアパートに帰った。
最寄りの駅も帰路も何もかもが新鮮に思えた。そうしてたどり着いた部屋は、意識がはっきりした今なら分かる、まさにあのころと同じ部屋だった。
それなりに可愛い柄のシーツやカバーで揃えたベッドとクッション、本や小物の入っているカラーボックスと小さなテレビ。押入には年相応の洋服がハンガーで下がっている。
二人のお小遣いや社長からのお金で整えた私たちの城。
「確かめなきゃ……」
私はすぐに家を出て事件現場に向かった。ノートとボールペンを握りしめながら着いたそこは、他の道と変わりのない住宅街の中を通る道で、ここで二人の女性が殺されたとは思えない場所だった。
息を飲む。初めて取り憑かれた時の感覚は肌が覚えていた。あの時はただ不気味だったけど、今は違う。
でも私の手はなかなか動かなかった。以前ならすぐに手紙を書かされたのに、なぜ一番話したいときにやってきてくれないの?
愚痴っていても仕方ない。私は待った。これが一時間だろうが半日だろうが変わらない。ただ待つだけ。
そしてその時は意外にも早く、三十分後ぐらいにやってきた。
『あなたの問題』『その意味が分かったでしょ』
手が動いてぎこちなくノートを開くと、ボールペンが拙い丸文字を書き始めた。
「……あなたは本当は誰なの? 本当に妹なの?」
『もう答えは出てるでしょ』『私はあなたの妹』
まだ信じられなかった。だって、私のことを大好きだった妹は私が嫌がることを何一つしなかったから。
中年男性だと思い込んでいた私のことが嫌いになったから、あんなことをしたの? それとも――。
『そしてあなた自身』
その答えが一番しっくりきた。
そう。私は妹をこの中に取り込んだんだ。彼女は今も私の中にいる。
一度は妹を失ったショックが大きすぎて、私は私の人格を消そうとした。だけど消しきれなかった私の中の妹が、私自身を通じて地縛霊として現れた。そこには私に優しかった妹はもういない。
私と融合した妹がいるだけ。そう考えると何もかも説明できる。
「私は犯人を見たの? それともあなたが見たの?」
『そう』『そもそも最初に言った』『死ぬ間際に全部』
「あの時、聞いてたんだ……」
私が駆け付けた時には妹は息絶えていた。でも何かが私に入ってくる感覚はあった。
「どうすればいいの? 私は仇を討ちたい。のうのうと生きてるなんて許せない。でもあの人かどうかなんて確証はないの」
『したいことをして』『信じることをやって』『私はずっとあなたと一緒』
「ねえ、教えて。どうしたらいいの?」
でもボールペンは動いてくれなかった。そのまま待ち続ける。だけどダメ。
もう何も話してくれないのかと思ったら、その時――腕が動いた。
『お姉ちゃん』『愛してる』
私は泣きながら家に帰った。全てを思い出して泣きに泣いた。
妹が死んだ時、私が私の中に取り込んだのは確かに妹だった。私と一緒に過ごした時間、二人を繋ぐその感情に気付いてからの愛に満ちた生活という記憶はあったものの、彼女の人格は失われてしまった。
記憶に縋って生きる日々。私の中の妹は過去の妹。今も私を好きでいてくれるはずだけど、その言葉や感情は新しく作られない。
その事実を知ってしまった私は、妹と同じ顔をした自分を見るのも嫌になって家中の鏡を捨ててしまった。
それでも生きていかなければならない。もう自分のことを好きと言ってくれない彼女の記憶とともに。それが余計に辛くなった私は、いつしか私というものを捨ててしまった。
女でいることも嫌になってしまった。だって殺されてしまうから。自分が男なら楽だったのに。そういう気持ちが強くなっていった。恋愛とかそういうものから遠ざかる三十代の男なら、何も考えず仕事だけしていればいいはず。
そうして私は自分を男だと思うようになって、私を消し去った。
そこから再び私を取り戻したのは、少し前にあった大学生の女の子が殺された事件を知ったから。そこで私の中に取り込んだ妹が、妹の人格を欲していた私が動き出した。
今となっては男として過ごしていたあの数年のことは思い出せない。ここ一ヶ月ぐらいに起きた出来事もうっすらと消えつつある。
そうして私はごく普通の十九歳の女の子としての生活を取り戻しつつあった。
刑事さんにも社長さんにも、犯人をどうやって知ったのかは伝えられていなかった。何回も聞かれたけれど、そこは嘱託医の先生が「まだその時が来ていないから」と毎回庇ってくれていた。
毎日仕事に行って組立作業をこなし、同僚たちと少しお喋りをして帰る日々。
あれから妹――私の中に取り込んだ不完全な妹の人格と話はしていない。だって私の問題だから。私のしたいことをしてと言われているし、信じることをやっていいと言ってくれたから。
私は決着をつけるために動いていた。探していた。あいつを追い詰める証拠を。そうして私は一つだけヒントがあったのを思い出してそれを見つけることができた。
「……印象変わったね。髪型も服装も一緒だけど……」
一ヶ月ぶりに会った刑事さんは何も変わっていなかった。
「それは忘れてください。それより電話で話していた件です。これを……事件現場の近くで拾ったんです」
私は私の中の妹が最初にくれた手紙代わりのレシートを刑事さんに渡した。
「これがそのレシートだね? 印字時刻は事件の一時間前、店はあの男性の住所から近いドラッグストア……買ったものは生理用品が三つ……」
「あの男には奥さんと娘さんが二人いました。そのころの監視カメラとか購入履歴を調べてもらえませんか?」
「うん、分かった。ちょっと待っててね」
刑事さんがスマホでレシートを撮影すると、部下らしい人に電話をして調べるよう指示した。
「それで……このレシートを拾った状況を教えてくれないかな? いつ、どこで、どんな風に? それと――この裏にある『人殺し』って文字は?」
ついにこの時が来てしまった。でも言わないといけない。私は妹の地縛霊の話をした。
「……にわかには信じられないけど……信じないと、あの男性にたどり着いた説明ができないね。信じるしかないのか……」どうなるかと思っていたけど、案外あっけなく信じてくれた。「さっきも調べるよう伝えたけど、仮にあのレシートが彼の物で現場近くにいた可能性があったとしても――それは間接的な証拠に過ぎないんだ。今回の被害者を実際に刺し殺したという直接的な証拠がないと罪に問えないんだよ。確かに君の妹さんはその現場を見たのかもしれない。でもそれを証明できないと……」
「それは……そうですよね」
分かっていた。分かっていたけど、そうはっきり言われると辛いものがある。
でも私と妹は確信していた。あいつが犯人だと。あいつ以外犯人じゃないと。
「捜査はしてくれるんですよね?」
「もちろん。殺人事件の被疑者だから独自に内偵は進めているよ。でも今のところ何も出てこないんだ。アリバイはなし。だからと言って動機や接点もない以上、下手に追及もできないんだ」
「動機や接点がないのは、通り魔だから当たり前なんじゃないですか?」
「そうだね。だから捜査本部も苦しい状況にあるんだよ。そんな中、唯一浮上したのがあの男性でね。被疑者としては最有力候補なんだ。……いいかい? 妹さんの件もあるし、レシートは参考物件として預からせてもらうね。仮に他の人に聞かれたとしても――嘘はつかないでほしい。素直に妹さんの地縛霊のことを話してほしいんだ」
「分かりました」
進展があったら教えてくれると言って刑事さんは帰っていった。
直接的じゃないけど、ここまでの証拠があるのは強いはず。きっと警察はあいつを追い詰めてくれる。
それから一週間が経ち、二週間が過ぎて、一ヶ月になった。
だけど刑事さんは連絡をくれない。それでも捜査をしてくれていると信じて私から連絡はしなかった。
でも二ヶ月が経ち、三ヶ月が過ぎて、四ヶ月になると──そのころには不安が強くなって思わず電話をしてしまった。
私の気持ちを和らげようとしてなのか、家にまで来てくれた刑事さんは寂しそうな顔で報告してくれた。
「……あのレシートは彼のものだと調べもついてね。一度だけ任意同行で話を聞いた。捜査本部としても勝負をかけたんだ。その日のアリバイはなく、あのレシートは確かに自分のものだけどどこかに捨てたらしい」
「そんな分かりやすい嘘を……監視カメラとかはどうですか? 私が見つけたものもありましたよね?」
「監視カメラについても全部調べたよ。ただし鮮明じゃないし、あくまで補助的な証拠でしかなくて……動機については完全に分からなかった。これまで何の犯罪歴もないし、職場ではやり手の課長で通っていて悪い評判もなかったよ」
「家族とか友人はどうだったんですか?」
「パートナーとは普通に恋愛結婚で、娘二人からの信頼も厚い。性的倒錯を示す趣味や考えもないし、通り魔をするような突発的な怒りによる言動もなかった。取調べでは普通の中年男性でしかなかったんだよ。だから捜査本部はあの男性を……被疑者から外してしまったんだ」
「そんな……!」
言葉も出なかった。
妹はあいつが絶対に犯人だと言っていた。人格は変わってしまったけど、記憶は嘘をついていない。
もう一回だけ試したい。その目に見せたい。妹がいるところを。
「一緒に来てください」
私は半ば無理やり刑事さんの手を引っ張って、事件現場に向かった。
そしてノートとボールペンを持ってその時が来るのを待つ。
それが五分経ち、十分が過ぎて、二十分になる。でも妹は来てくれなかった。
「……今日はダメみたいだね」
「信じてください! 本当に手が動いたんです!」
それでも指先すら動かない。こんな時だからこそ出てきてほしいのに!
「……状況が進展したら必ず連絡すると約束するよ。だけど――もう見込みはないのかもしれないんだ」
刑事は悲しそうな顔でそう呟いて帰っていった。
それでも私はその場から離れられなかった。手が動いたらすぐにあの刑事さんを呼び戻すつもりだったから。
だけど一時間が経ち、二時間が過ぎて、三時間になったころ――雨が降ってきて私は諦めざるを得なかった。
失意のまま家に帰る。
逮捕して罪を認めさせる。これで決着がつくはずだった。
でもこんなことで決着なんてつくはずがなかった。結局は人任せでしかない。
もう妹は出てこない。私は世界に一人で取り残されてしまった。
私が生きている意味は何だろう? 妹との記憶を守っていくだけの入れ物なの?
ううん。違う。こうして私が生きている意味は私自身が知っている。妹とあの大学生を殺したのがあいつだと知っている唯一の人間だから。
アリバイを覆す情報も監視カメラを越える物的証拠もない。だけど妹が顔を見たという事実がある。それは即ち――あいつも妹の顔を見ているということ。
そして私と妹は双子。それが私の武器になる。
私は決意した。この手で決着をつける。
誰にも止められない。私は刑事さんや社長に連絡することなく勝手に動いた。
最寄り駅からのルートも帰宅時間も把握している。その時に何を言うのかも考えてあった。あとは出会うだけ。あいつの最寄り駅の改札前で待ち続けると――すぐにやってきた。
後をつけていく。人通りが少なくなったタイミングを見計らってあいつの前に出ていった。
「こんばんは」
しょうゆ顔の薄っぺらい鞄を持つ男。その前に立った私は努めて笑顔を浮かべた。
あいつが私の顔を見る。そして一拍置いた後――その顔色が真っ青に変わった。私は笑顔を浮かべながら口を開いた。
「お久しぶりですね。お元気でしたか? お蔭様で……私は元気です」
「う……嘘だろ……!?」
「何がですか?」
「そんなはずは……!」
「きちんと刺し殺したのに、ですか? 後ろから?」
「……っ!」
「ええ、すごく痛かったです。死んじゃいました。でもこうして蘇りましたから」
「いや、だって……確かに……」
男が鞄を落とした。言葉にならない言葉を喋っている。そしてあいつのスーツ――そのズボンが濡れていった。漏らしたらしい。
「私を殺したこと、全部話してくれませんか? 楽になりましょう」
「ち、違う……! 違うんだあっ!」
あいつはそう叫びながら走っていった。きっと家に帰ったんだと思う。私はあいつの残していった鞄にそっと細工をして家に帰った。
一応録音はしていたものの、犯行をほのめかす発言も事件についても何も喋っていなかった。
でもこれで良かった。あとはじっくりと追い詰めていくだけ。
私は最強の証拠を待った。そう。それは自白。
後で取りに戻ったらしい鞄から、仕掛けた盗聴器で彼の独り言や家族との会話も入ってきていた。聞き逃さないよう全部録音していたけど、秘密の暴露みたいな言葉は見つからない。
追い込みをかけないと。
私は手紙を送った。あなたに殺された者です。蘇りました。早く罪を償ってください。全てを話してください。
毎日送った。文面を変えたり私の顔写真をつけたり。それが私の日課になった。
いつか気付かれるとは思っていたものの、それは意外と早かった。
手紙を送り始めて二週間になったころ、刑事さんが家にやってきた。
「……隣の市の警察署に『身に覚えのない脅迫を受けている』って駆け込んできたそうだよ。まさか君だったとはね……」
刑事さんが寂しそうな顔で私の顔写真付きの手紙を見せてくれた。
「私の顔を見たあいつは驚いてましたよ。嘘だろ、そんなはずは……って。間違いないじゃないですか」
「だとしても――」
「もういいんです」私は努めて笑顔を浮かべた。「もう誰にも頼りません。私は私なりに妹を弔います」
刑事さんが唸る。そして何かを言いかけて――止めた。やっとのことで絞り出すように言ったその言葉は、彼の本心に聞こえた。
「……無茶はしないでほしい」
「分かりました」
それで話は終わった。
警察に相談したのなら、あともう一押しのはず。翌日からやることを増やした。
朝にあいつへの手紙を投函する。今度は私の住所つきで出した。そして組立工場で働いた後は、まっすぐ家に帰って夕食を食べ、着替えると――事件のあった夜中に事件現場を訪れて手を合わせながら、妹が出てくるのを十分だけ待つ。
出てきたらどうしようかと思ったけど、出てくることはなかった。
私にとっては満たされている日々だった。できることをできるだけやって、それで何かが積み重ねられていくのが何より私を満たしてくれた。
いつか来るはず。見世物の幕は上げられる。ショーはいつか開幕するもの。
それから一ヶ月が経ち、二ヶ月が過ぎて、三ヶ月になった。
その時は突然やってきた。
いつも通り妹の事件現場で事件のあったその時刻に手を合わせていると――背後に誰かの気配がした。
ずん。私が振り向く直前に背中に衝撃が走った。感覚で分かる。私は刺されたんだ。
よろけて倒れこむ私。見上げると、あいつが私を見下ろしていた。
「運が悪かったな」
激しく興奮した目。鋭い狂気を宿していた。
「そうやって……妹も殺したんだ……」
「やっぱり双子か。……あの時は楽しかった。若い女の未来をなくすのが何より好きなんだ」
「どうして……そんなことを……」
「俺は結婚していて娘も二人いる。家族関係も良好で仕事も順調で何不自由ない暮らしだ。満たされている。だからといって、幸せは、楽しみは多いに越したことはない」
ああ、そういうことだったんだ。
「若い女はキラキラしてるだろう? 万能感ってヤツだ。でもな、俺は会社や妻に奉仕する影として生きてきた。影には太陽が眩しいんだよ」
太陽が眩しかったから? 何て下らない理由。何て下らない男。それだけのために二人も殺した。罪の意識もない。
全部聞いた。録音もしている。何も問題なかった。
私はすっと立ち上がると、背中に刺さっていた包丁を引き抜いた。服の間に入れていた雑誌が落ちる。
「なっ……」
「襲われるのが分かっていて何もしないバカじゃないってこと」
そして私は一直線に男へ向かっていった。
その腹に包丁を突き立てる。肉を破って刃物が奥へと入っていく感触が手に伝わった。
「う……おっ……!」
あいつの目が見開かれた。
「この日本ではね、人を二人も殺したのに死刑にならない人もいるの。あなたも弁護士が頑張って無期懲役とかになるんじゃない? だから私が罪を償わせてあげる」
包丁を引き抜いた。刃先から真っ赤な血が滴る。あいつはティシャツを赤く染めていきながら、アスファルトに片膝をついた。
私は次に男の顔を刺した。
「ぎゃあああっ!」
のたうち回る男。痛いみたい。顔を押さえながら転げまわる。
「確かに楽しいと思う。でも、いたぶる趣味はないの。……次で止めを差してあげるね」
私は包丁を振りかざして――あいつの左胸めがけて振り下ろした。
深く突き刺さる。包丁を捻ると血しぶきが上がった。
声にならない悲鳴を上げながら男が仰向けになる。そして腕や足を痙攣させていたかと思うと、急にピタッと止まった。
死んだんだ。
すると――私の右腕が勝手に動いた。私は持っていた包丁を落とすと、左手でジーンズのポケットからノートとボールペンを出した。返り血で染まった右手が文字を書いていく。
『お姉ちゃん』『ありがとう』『殺してくれたね』
「うん。仇は討ったよ」
『準備はいい?』
「もちろん。でも……優しくしてね」
『うん』
文字を書いた右手がボールペンを落とす。そして左手も動き始めた。
両手で包丁を拾った私は――その切っ先を私の左胸に向けてゆっくりと突き刺していった。
痛い……痛い! 熱い!
血が流れだしていく。全身から力が抜けていくのが分かった。
寒い。体が冷えていく。
ああ、死ぬんだ。
やっと死ねるんだ。私。
「お姉ちゃん!」
妹の声が聞こえた。それは二人で一緒にいた時に聞いていた、まぎれもない妹の声。可愛い可愛い私の妹。
「久しぶりだね。やっと……話せた」
「やっと一つになれるね」
「うん。私の入れ物もなくなったよ。初めからこうすれば良かったんだよね。気付くの遅くてごめん」
「あっちの世界でずっと一緒に暮らそうよ」
「ずっと一緒だね」
体の感覚がなくなった。意識がすうっと宙に浮かぶ。
私は私の体を見下ろしていた。二十年もこの体に閉じ込められていたんだ。
でもこの体があったからこそ妹との絆が何より大事に思えたし、こうして再び会うこともできた。
妹の意識が近づいてきたのが分かる。もう言葉は必要なかった。
私たちの意識が溶け合う。
見渡せば、この街の上空には色んな人の意識が浮かんでいた。
その中にはあの男のものも見える。幸せそうな感じが見えた。きっと殺されたことであいつもまた解放されたんだ。
さあ行こう。
妹が私を誘っていた。
そうだね。行こう。でも、どこに? ううん。分かってる。
何も縛られるもののない世界へ。
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