第25話

 



 出刃包丁を携えたまま、香花は俺の元にへと迫ってくる。その間、彼女はずっと無言だった。



 俺の事を凝視しつつ、一歩……また一歩と歩み寄り、確実に近付いてきた。



 香花は一体、その手に持つ出刃包丁で何をしようとするのか。



 考えられる選択肢としては二つ。俺にとって安全で、平和的なものか。それとも物騒で衝撃的、スプラッターな展開か。そのどちらかだと思われる。



(あんなので刺されたら……痛いってレベルじゃ済まないだろうな……)



 出刃包丁特有の厚めの刀身を眺めつつ、俺はそんな事を考えた。先程の選択肢の内、後者であればそんな未来が俺には待ち受けているだろう。



 香花の言った『もう、これは必要ないよね?』の『これは』に該当するのが俺であった場合、彼女によって俺は切り捨てられるか、刺されてしまうはずだから。



 刻一刻と迫りつつある生命の危機を前にして、自然と身体は強張り、俺は息を呑んだ。



 それに伴って、不安や恐怖といったマイナスな感情が、胸の奥底からどんどんと込み上げてくるのだった。



(けど……多分、大丈夫なはずだ……)



 しかし、確実な不安や恐怖はあれども、どこか俺には安心感というものもあった。そんな惨劇にはならないだろうという、謎の確信が存在していた。



(彼女ならきっと……俺を殺したりはしないだろう……)



 そんな確証はまるで無かったが、俺は自然とそう思っていた。彼女ならそうするはずだと。



 今までの半年間で拘束や襲われる事はあっても、香花が俺を物理的に傷つけてきた事は一度も無かった。



 どんな凶行に及ぼうとも、俺の身の安全だけは常に守られてきたのだ。



 それに思い返してみれば、香花が告白してきた時も、彼女はその手に持つ凶器で自らの命を捨てようとしていた。



 決して、俺を殺そうという素振りは一切無かったのだ。何なら俺に、遺書まで渡している。選ばれなかったら死を選ぶという、狂気の内容をしたためて。



(だからこそ、大丈夫なはず……)



 そんな淡い想いを胸に抱き、俺は香花の動向を見守った。まさにこの瞬間、俺は人生の分岐路に立たされている。



 彼女の行動一つで、俺の未来が変わるのだ。これ程に人任せな決め方は無いだろうが、俺にはどうする事も出来ない。



 そして香花が歩みを止め、元いた場所にまで戻ってきた。立ったままベッドに横たわる俺を見下ろし、視線を送っている。



「動いたら……駄目だよ」



 彼女は小さくそう呟いた後、俺に向けて出刃包丁を持つ逆側の手、何も掴んでいない左手を俺に向けて伸ばしてきた。



 動いては駄目というが、そもそもまともに動けやしないこの状態では、行動が勝手に制限されている。



 言われなくても動けない俺は、彼女の指示に従った。伸びてくる手を黙って見つめる。



「……ごめんね」



 そして香花の左手が俺の左肩を掴むと、力を籠めてぐいっと自分の下にへと引き寄せる。俺は何の抵抗もしなかったので、すんなりとそれは実行された。



 それによって俺は仰向けだった体勢が、うつ伏せの状態にへと変えられたのだった。



 引っくり返った事で、視界が白色一色に染まる。俺の目の前には、ベッドのシーツしか映ってはいない。なので、背後で彼女がどう動いているかは見えなかった。



 顔を向けようにも、動いては駄目だと言われている以上、そのままの状態でいるしかなかった。



(大丈夫だ……背中から刺されやしないから、大丈夫だ……)



 自分にそう言い聞かせ、平静さを保ち続けようとする。それを失えば、俺は直ぐにでもパニック状態に陥ってしまう。



 しかし、俺の考えに反して、先程よりも心臓の鼓動や呼吸が更に早まっていく。嫌な冷や汗も、どんどんと浮かび上がっていく。



 行動が見えないというのは、それだけで恐怖というものをより煽るのだろう。俺はそれを、身を以て知る事となった。



 どうにも堪らなくなってか、俺は反射的に両目をぎゅっと閉じてしまう。白色に広がっていた世界が一転して、真っ暗な闇にへと変化する。



 その訪れた暗闇の中で、俺はただ無事に事が終わるのを祈った。出来れば一瞬で済んで欲しいとも願った。



 そうして待っていると、俺の左腕を香花が優しく掴んできた。力としては、支えるぐらいのそっとな感じでだろうか。



 掴まれた事で、緊張や恐怖の度合いは更に深まっていく。この後に俺の運命が決まってしまうのだから、それは抗えない事だった。



 俺は待った。彼女が判決を下すのをひたすらに待った。時間にしたら短い時間かもしれないが、俺にはそれが長い様に感じた。



 そして遂に、運命の瞬間が訪れようとする。俺の腕を掴む香花の手に強く力が籠められ、ぎゅっと握られた。今こそ判決が下されるのだろう。



 俺を支配するマイナスな感情は最高潮にまで高まり、心臓は鼓動の音が聞こえてきそうなぐらいに激しく高鳴った。



 そんな中……俺の耳に微かではあるが、ぶちっという音が聞こえてきた。



 俺の肉を裂いた音だろうか……と、思ったが痛みは一向にしてこない。刺された感触もなかった。



 ただ、その代わりに……両腕の手首の辺りが軽くなった様に俺は感じた。



(もしかして……)



 俺は閉じていた目を開けると、恐る恐る両腕を動かそうと試みた。



 すると、先程までそこにあった抵抗感は一切とありはしなかった。俺を縛っていた拘束具は外れており、両腕は自然と、いつも通りに動かせる様になっている。



(という事は……)



 束縛から解き放たれたというのなら、俺は許されたのだ。香花に許して貰えたのだろう。



 その結果に俺は大きく安堵の息を吐いた。ここまでずっと緊張を強いられていたが、ようやくとそれから解放されたのだった。



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