第26話

 



 晴れて自由の身となった俺は、ようやく解放された手を使い起き上がる。



 うつ伏せの状態からまた仰向けとなり、それから上体を起こした。



(ギリギリだったけど、何とか助かった……)



 ふと、縛られていた手首にへと視線を向けると、そこには先程まで俺を拘束していた証拠品がまとわりついていた。



 それは太く、厚さも相当はある縄であった。見たところ、とても市販で売られている様な安いハサミとかでは断ち切れない厚さである。



(なるほどな……)



 その縄を見た事で、香花が出刃包丁を持ってきた事に俺は納得がいった。



 この家にある刃物の中で、この縄を切れそうなものといえば、それぐらいだと思われる。他の物ではとても太刀打ちは出来ないだろう。



 だから彼女は、それを選んだのだ。それを選ばざるをえなかった。選択肢がそれ以外に無かったから。



 決して、俺を刺す為に持ち込んだのでは無かったのだ。



(まぁ、でも……そうはならないとは思っていたが、流石にヤバかったな……)



 今回の件に関しては、今までで一番の危機を感じたものだった。とても恐々とさせられて、色んな意味で危なかった。



 本当に洒落や冗談なんかでは済まされない、一歩間違えれば取り返しのつかなくなる、最悪の展開が繰り広げられたのだから。



 こんな体験は、心臓や精神的に悪過ぎる。もし、俺がガラスのハートの持ち主だったとすれば、香花に監禁されると分かった時点で気を失っていたはずだ。



(これも全ては、今まで香花と関わってきた経験があってこそだよな……)



 付き合い始めてからこれまでの間、彼女と接する内に、俺の精神は自然と鍛えられていた。否応なしに、そのレベルは勝手に上昇していったのだ。



 今では自分でも認めるぐらいの強メンタルになっていると思う。例えるなら、鋼鉄のハートぐらいだろうか。だからこそ、彼女からの威圧にも耐えられたし、乗り切る事にも成功した。香花様々である。



 しかし、皮肉な話ではあるが……香花からの監禁から脱する為に、彼女によって鍛えられた精神性が役に立ったのだから。俺からすると、それは何とも言えない話であった。



 正直なところ、悲しくて泣きたくなってくる。俺が本当に欲しいものといえば、その場を切り抜ける対応力よりも、それを回避出来る管理能力の方だ。



 それさえあれば、香花との関係性も上手く取り成して、今回の様な凶行も避けれたはずだろうから。



 そんな考えが頭の中で浮かび上がった時、俺はある事を忘れている事に気づいた。



(……そうだ。香花は? 彼女は今、どうしてる……?)



 脳内では今回の問題点の洗い出しが着々と進められていたが、俺はその動きを一旦止める事にした。



 今の時点で一番に優先する事は、反省とかそんな事じゃない。どれよりも優先すべきは香花との対応である。



 それを俺は、安全が確保された事ですっかりと安堵してしまい、自分の事ばかりについ気をとられ過ぎてしまった。



(このまま放置し続けたら、また何をされるか分からない……)



 そう思って俺は香花の機嫌が悪くなる前に、彼女にへと直ぐに視線を向けた。しかし、その考えは杞憂に終わる事となった。



 その視線の先に待ち受けていたのは、存外と落ち着いた様子でいる香花の姿であった。



 意識を向けなかった事に怒っていたり、不機嫌になっているかもしれないと思われたが、そんな事にはなってはいなかった。



 その意外な結果に、俺は拍子抜けだった。ただ、気の抜けない点が一ヶ所、まだ残されている。



 それは彼女の手の中。そこにはまだ、縄を切る為に使われた出刃包丁が握られている。



 包丁の切っ先は俺にへと向けられており、依然と予断を許さない状況にさせている。緊張を俺に強いたままである。



 このまま彼女と話をするにも、その状態でいられたままなのは、俺の精神的に良くは無かった。誰だって、刃物を向けられたままで話をしたいとは思わない。



 まずはそれを、どこか別の場所に置いて貰おう。話をするのは、それからである。



「えっと……香花。ありがとうな。解いてくれて、助かったよ」



「……うん」



「それで、その……まずはそれを、どこかに置いてくれないか」



 俺はそう言ってから、香花の手に持っている出刃包丁を指差した。



「包丁を向けられたままだと、流石に話しにくいというか……な?」



「……そう、だね」



 少し難色を示されるかと思っていたが、香花は素直に俺からの言葉を聞き入れ、出刃包丁を直ぐ傍の床の上にへとそっと置いた。



 それから何も持たなくなった手を俺にへと広げて見せてきた。ついでにもう片方の手も広げて見せ、何も持っていない事を主張している。



「これで、いい?」



「……ありがとう」



 まだ直ぐ近くには置いてあるけれども、俺の安全を脅かしていた凶器は彼女の手中からは無くなり、安全性は先程よりも増しただろう。



 これでようやく、俺は香花と向き合って話を進める事が出来る。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る