第32話 比翼の


 築三十年の、プレハブみたいな小さい平屋。

 それが俺と六花の家だった。


 周りはいつも賑やかな遊び声が響いていた。

 六花の「お前は良いの?」という問いかけに、かぶりを振って筆を取る。よく椅子の上で体育座りをして、窓から見える海を描いていた。


 六花は昼に絵を描いて、夜は仕事で居なかった。

 抱いて眠ったぬいぐるみが、朝には六花とすり替わっている。起こさないようにそっと抜け出して、おにぎりと卵焼きを作る。六花は起きたり起きなかったりするので、六花のぶんはテーブルの上に置いてランドセルを背負った。


 父親がいなくて寂しいとは思わなかった。

 だから「かわいそうに」と囁く近隣住民が鬱陶しかった。俺達を捨てた父親なんて、こっちから願い下げだと本気で思っていた。


 俺は六花と二人でやっていけるんだ。俯いて歩くのは絶対に嫌で、空を駆ける鳥を探しながら登校をしていた。六花は事あるごとに、図鑑を俺に贈ってくれた。


 小学二年生の頃だったか、クラス全員の絵が貼り出された教室で、授業参観が行われた。

 俺は六花がくれた図鑑と、毎日見ていた鳥をもとに絵を描いた。その絵は、俺がひとりで描いたものだと思われなかった。絵本作家である親の力を借りたのだと、それは流石にズルだ、過保護だと、授業後の懇談会で標的になった。


「あたしは作家だから、人の絵に手なんか加えない。この絵は全部、春彦の努力で出来てるよ。…あんたらこそ何なの?子どものやることにいちいち口挟んで、せっかく出た芽を摘んでやるなよ。」


 あの静まり返った教室と、六花のまっすぐな目をよく覚えている。


 六花は良くも悪くもハッキリしていて、誰とも馴れ合うつもりがなくて、よく敵を作って歩いた。

 得手不得手も分かりやすくて、彼女が苦手な家事は俺がほとんど先回りしてこなしていた。

 小さい自分が、六花の力になれていることが嬉しかった。鍋をよく焦がしてても、洗濯物が生乾きでも、見た人を包み込むような、優しい絵を描く六花は自慢のお母さんだった。


 それが問題視されたのは、小学四年の頃だったと思う。担任をはじめ保護者からの言及に、俺の予想と反して六花が強く言い返すことはなかった。六花はずっと、俺に対して後ろめたさがあったらしい。


 その日から、ぬいぐるみが六花にすり替わることは無くなって、目を覚ませば机におにぎりと卵焼きがあって、やつれた六花が作り笑いをしていた。


 ぼうっとした表情で、画用紙を眺める六花を横目に学校へ行く。道中、口に放り込んだおにぎりは塩っ辛くて、滲んだ視界では小鳥一匹探せなかった。

 守られる他に術のない自分が、惨めでしょうがなかった。



 なんでそんなことを思い出したかというと、日曜の朝に、キッチンで料理をする瀬川伊月が目に入ったから。

 波の音が聞こえていたのは、彼女が毎週見ているテレビ番組の所為。今日は海辺に住む画家の特集らしい。


 彼女の華奢な曲線と、静かに俯く表情が、どことなく、記憶の中の六花に似ていた。


「…どっか調子悪い?」


 勝手に自分の記憶と重ねて、素っ頓狂な問いかけをする俺に、雪平鍋を持つ彼女が固まる。


「…いやこっちの台詞だけど。ハルがこんな時間まで寝てるの珍しいね。」


 そういえばそう。いつもなら「テレビ始まってるから起きて」なんて言って、彼女を起こしている時間帯。


「いっちゃんのベッドは寝心地がいいんだね。」

「安物のベッドだよ。ホームセンターの。」

「…でも俺、昨日ソファで寝なかった?」

「うん。コンテとスケッチブック持ったまま寝てたよ。」

「そうだっけ?」

「だから私が寝るタイミングで、一回起こして、一緒に寝た。」

「黒服で疲れて帰ってくると思ってベッド空けてたのに…。」

「最近肌寒いから一緒に寝たかったんだよ。」


 部屋のカーテンは既に開いていた。俺が日差しで起きることがなかったのは、雨が降っている所為だった。


「確かに寒いね。」

「だからほら、朝ご飯はあったかお味噌汁だよ。」

「本当だ、あったかおみそしるだ。」

「食べる前に顔洗いな。」

「はあい。」


 覚醒し切らない頭のまま、彼女の側に立つ。

 彼女のワンルームには独立洗面台がないので、キッチンの、電子レンジの上にフェイスタオルが出されていた。こういう雑なところが、彼女の日常に溶け込んだみたいで、嬉しかったりした。


「今日は一日雨なんだって。クロッキー大会でもする?」

「いっちゃん、もっと寝てなくていいの?昨日寝たの三時過ぎでしょ?」

「今日はなんだか目が冴えてる。たまにあるの。」

「…今更だけど、グラフィック教えようか?」

「ワァなんだか眠くなっちゃったなア。」

「あからさまに目ぇ逸らしたじゃん…。」


 むい、と、彼女の頬を挟んで寄せれば、伸びた前髪の間から、まっすぐな眼差しが届く。


「う〜んやっぱりハルのこと描きたいな。」

「え?なに?グラフィック嫌だな?」

「はるのこと描きたいなァ〜!」

「ええ俺たいした体してないからやだよ。」

「たいした体してない私を散々描いてるお前がいうなよ。」

「だって楽しいじゃん。いっちゃん描くの。」

「私も佐々谷春彦描きたいんだわ。」


 爛々とした目の下には隈。多分もう、彼女に染み付いてしまったんだろうと思う。

 俺の家にいた時も、彼女には怪我した左手を休ませる気がなくて、俺は絵の具で汚れた包帯をせっせと変えていた。急ぎの制作はないから試験の勉強ができれば良いんじゃなかったの、と聞けば、「だっていま描きたいんだもん」と返ってきた。

 怪我を押して、寝食を惜しんで。…画家らしいと言えば、画家らしいんだろうけど。


「…お願いだから、ずっと描き続けてね。」


 こぼれた言葉に、お互い目を丸くしてしまった。


「…ハルを?」

「…ごめん違うの。」


 俺は、頑張りすぎて描けなくなった人をよく知っているから、彼女にはそうなって欲しくなくて、でもこれを彼女に願うのは少し違う気がして、でも一度出た言葉は取り消せないから、俺は粛々と弁明をした。彼女はあったかお味噌汁をマグカップに注ぎながら聞いていた。


「…ハルってさ、私のなにになりたいの?」


 突然の質問に言葉を詰まらせていると、彼女は俺の真隣で、俺をじっと見つめた。


「ハルがライオンなら、私もライオンなんでしょ?じゃあ私が鳥なら、ハルも鳥なんじゃないの?…私には、止まり木になろうとしてるように見えるよ。」


 口調に怒気はない。

 此方を見る瞳は、恐ろしく真っ直ぐだ。


「一緒に飛んでくれなきゃ嫌。」


 彼女の手が俺の両頬を包む。

 瞬きの隙に唇を奪って、彼女は悠然と俺から離れた。そのくせ、背伸びした足元がふらつくもんだから、彼女の腰を、左手でそっと引き寄せる。


「いっちゃんは俺に火をつけるのが上手いね。」

「味噌汁も上手いから早く食べよ。」


 そう言いながら、彼女は右腕を俺の腰に回す。


「……ねえこれ食べたらさぁ、」

「先にクロッキー大会ね。」

「さきに?」

「キスマークだらけの春彦描くの嫌だもん。」

「……。」

「……。」

「……。」

「……なんか言えよ。」

「……大好き。」


 元気そうでなによりだわ、と、呆れたように彼女は笑った。

 

 

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よろずの花を贈るまで あずまなづ @zumanadu

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