第27話 ふたりで


 ひとつ謎が解けた。


 ハルの美術に関する技術と知識。初めて会った頃から、独学にしては詳しすぎると思っていた。けれど母が作家だと言うなら合点がいく。


 しかも母はあの立花六花たちばなりっか先生で、内向的だったハルは四六時中母と一緒に絵を描いていたと言うのだから、基礎知識と確かなデッサン力を持ち合わせていて当然だろう。私は改めて佐々谷春彦という人物に感嘆する。


 ただそれを掻き乱すのは、私を組み敷く彼の表情。こんな風に迫る時は、いつも余裕の笑みと共に私を揶揄うくせに。彼が他人に打ち明けず、蓋をしてきたことに、私は触れたんだ。


 私の動揺を察してか、「俺今どんな顔してる?」なんて呟く。


 この表情が彼の素だとしたら、これまで私は随分気を遣わせていたんだろう。そしてその、ある種の仮面は剥がれかけている。彼が取るのを、大人しく待ってやることはない。私が剥がしてやろうと思った。私達は同じライオンだと、彼が言うのだから。


 まあそんなのは戯言で、私たちは人間で、佐々谷春彦は思ったよりも意地悪なので、首元に仕返しのキスマークを降らせた。茹で蛸が無様にまごつく様を彼は笑った。


 私にも隠していることがある。

 決心して打ち明けたのに、ハルは顔色ひとつ変えずに肯定した。どうしてこの人は、こんなにも簡単に胸のつかえを取ってしまうのだろう。


 けれど胸を打たれている暇はなく、意地悪く揶揄うので私は風呂場に逃げた。

 黒の半袖なら透けるまいと袖を通し、コンタクトを外してシャワーの正面で大きく息を吐く。


 ハルを呼ぶ。ガラ、と音を立ててズボンを捲った彼がくる。私の目はすこぶる悪いので、全部がぼやけて見えている。私の緊張も知らずに首を傾げて微笑むので、よろしくお願いします、と私は声を絞り出した。


「いっちゃん左手貸して。袋とラップ巻くから。」

「ハイ。」


 ハルは至極丁寧な所作で私の介助を始める。

 そこでふと、うちにおいでと言われたことを思い出す。その場で、高ぶる感情のまま頷いてしまったけれど、現状諸々無理があるのでは?


「なんで難しい顔してるの?」

「…本気で治るまで居て、と思っ、てる?」


 シャワーが私を服ごと濡らす。すぐにハルの手が私の頭へ触れた。


「思ってるよ。片手じゃ大変でしょう。」


 迷惑じゃない?と、言いかけてりっちゃんの言葉を思い出す。頼られなくて寂しいだの、ぐずぐずの方がありがたいだの。


「……ハル、私のことどう思ってる?」


 風呂場に反響するアホな質問に、しばしの間。


「伝わってませんか?」

「ごめんなさい質問を間違えました。」


 ふふ、と鼻に抜ける笑い声。私の言葉足らずに、ハルは本当に問いたかったことを推察して答えてくれた。


「別に何もできないと思ってる訳じゃないよ。出来ても疲れるだろうから、力になりたいだけ。」


 風呂場が柑橘系の匂いで満ちた。ハルはシャンプーを手に取ったのだろう。いつだかハルは、成分の良し悪しなど分からないので、パッケージデザインで決めていると言っていた。私は彼のそういうところも好きだった。


「出来るけど疲れることって、やり続けるとつらくなるでしょ。六花にとっての家事がそうだった。

 だから俺、率先して代わってたんだよ。でも担任が虐待だの何だのって、変に勘繰って。それから六花は全部無理するようになった。家族が家族を支えて何が悪いの?って、ずっと思ってたし、六花にも言った。けど六花は苦しそうに笑うばっかりで、俺を頼ってくれなくなった。そのうち手を痛めて、心も病んだ。…いっちゃんにはそうなって欲しくない。だから俺で足りるなら、甘えて欲しいし、頼って欲しい。」

 

 鼻の奥がつんとして、じんわり熱くなった目頭へお湯が伝うと、ハルは「ごめん顔にかかっちゃった」と言いながら親指で拭った。押し黙っていればバレないのに私は鼻を啜る。こんなの不可抗力だ。


「ごめん、同情とかじゃないの。」

「分かってるよ。いっちゃんは泣き虫だから。」


 シャワーが泡を流していく。ハルの手は相変わらず丁寧で、私は上を向いたまま泣いていた。


「なんなら、ここの方がいっちゃんの家より短大に近いし。…ずっとここに居てもいいよ。ルームシェアが嫌なら、最近隣が空き部屋になったからさ。」


 ハルの親指は私の目尻を拭う。振り返って見れば、輪郭のない彼が穏やかに笑っている。そのまま、露わになった私の額へ口付けた。


「……ああ、もしかしてあれって、佐々谷家じゃなくて立花家のポピュラーなやつだったの?」

「…混乱させるかなと思って。六花がよくやってくれてたんだ。俺も泣き虫だったから。」

「幼少期の写真ないの?」

「ないねぇ。」


 相槌を打ちながら背中の服を捲る。

 泡で出るタイプのボディソープを何回かプッシュして、ハルはおもむろに私の背中を洗い始めた。そのくすぐったいこと、くすぐったいこと。

 涙はひいて、笑いが漏れる。


「しんどい…くすぐったいし恥ずかしい……。」

「もっと恥ずかしいことする?そしたら慣れるんじゃない?」

「…ばーか!!」

「いっちゃんは照れると口が悪くなるよね。」


 こうして揶揄うくせに、ハルはついでに服を脱がすだの手を滑り込ませるだの、そういうことをしない。大人の余裕か、と思うと癪だった。


 どうにか崩してやろうとしたって、色香というものと無縁な私では太刀打ちができない。


「あのね、小娘相手にハルは余裕綽々かもしれないけどね、揶揄われるこっちの身にもなってもらわないと!」


 もはや駄々である。


「ほらいっちゃん暴れないで。」

「不公平じゃないですかね!私もおろおろするハルとか見たいんですけどね!」

「眼鏡してないんだから大人しくして。」

「ハルはその距離で見えてるからいいけど私これくらい近づかないと顔もまともに見え……ないんですけど………。」


 抗議しながら間近に迫った私に見えたのは、いつにも増して真顔のハル。けれどその据わった瞳と、緩く上がる口角が、私を捉えて離さない。


「いっちゃんってさぁ、迂闊だよねぇ。」

「……ほんとにねぇ!」


 私が暴れたせいで、ハルもずぶ濡れだった。

 笑いながらため息をついて、ハルは私を真っ向から抱きしめる。


「急がないから、ゆっくりでいいよ。」


 いつかの星夜にも聞いた言葉だ。


「…もしそれでハルが我慢するなら、」

「我慢って?」


 くぐもって少し甘いハルの声音が、私の心音を忙しなくさせる。何を言っているんだと、理性が顔を出す。羞恥心に負けて、私は言葉を少しお行儀良く脚色した。


「…あのね、私もハルの力になりたいの。」

「十分なってるよ。」

「嘘だ。」

「俺の誘いに乗って、こうやって傍にいてくれるからね。」

「……。」


 そう言われてしまっては、反論のしようがない。

 壊れてほしくないと、思ってくれる人。彼の願いを叶えることが、私にできる最良の孝行だろう。

 大人しくなった私に、ハルは抱きしめる力を強めて言った。


「……じゃあ俺からのお願いなんだけど。」

「はい?」

「恋人でいてくれますか。」


 耳の裏に響く鼓動は、最早どっちのものか分からない。


「…もちろんです。」


 ハルへと腕を回す。二人とも、濡れた服が体に纏わりついていた。


「今日は結局よく見て回れなかったから、俺明日も文化祭行くよ。」

「私も栄養科のココア飲みたいし高校の方も見てまわりたい。生徒会の後輩も気になるし。」

「いっちゃん生徒会副会長だったんだもんねぇ。」

「しみじみ感心するのやめてくれない?子どもの成長を実感する親みたいになってるよ。」

「いやぁうちの子は大変出来が良くて。」


 ハルはまた額に唇を降らせる。悔しいので離れた唇を奪えば、彼は口の端で幸せそうに笑った。

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