第28話 余暇は大事ですよ 

 差別的に偏見にまみれた考えで、断定するってことは良いことじゃないと思います。それを善悪なんかに絡めちゃうともう手が付けられないほど、愚かなことだと思います。


 ただ差別は別に悪いことではないです。あと偏見も悪いことじゃないです。断定も悪いことじゃないです。でもそれを全部繋げちゃうとあら不思議、よくない事、つまり悪いことになります。

 前の話で発達障害とかいう単語を使っちゃいました。そういう人も居るという一般的な認識を自分は持ち合わせています。適切だったかどうかは知らんがなとしか言えませんが、流れで微妙なことを書いたのはしょうがないことです。


 発達障害ってことばカクヨムで稀によく見るじゃないですか。エッセイランキングの上位にはよく居ます。話題にして駄目なんでしょうかね。されたくなければ発信するなということで、というか認識されたくてしてるんじゃないかと思いますけど、まあそんなものわかりません。他人のやってることなので分かるわけないじゃないですか。


 いや、本当に無関係ですし、何やっててもどうでもいいんですけど。稀によく見たとき、上記のように考えるじゃないですか。それって偏見ですよね。

 発達障害をネタに小説を書いてる人は別として、小説を読んだり書いたりしてる人は周りにそういう人が居なければ、正しい知識も認識も持ち合わせちゃあいません。居ても持ってないかもしれません。医者じゃないんですから。

 まあ見ただけで、敵意までは抱かんでしょうが、自分だったら、発達しなかったので、障害なら発達すれば障害じゃなくなるんだろうかみたいな偏見くらいは持っちゃうわけです。

 また、仮に自分がそう診断されたとして、今までの人生がそれで否定される訳でもなし、また友人知人など、親しくしてる人がそう診断されたとして、それまで仲良くしていたことが消えるわけでもないし、診断後の治療のために接し方を変えなければならないなら、それはそうするしかないでしょう。これも偏見ですけどね。


 世の中にはだいたい偏見しかありません。それは仕方のないことです。そこで正論を言うのも大事ですけど、そういうまじめな人ほど疲れるはずです。

 なので自分はめんどうなので、適当にしとこうと思いますけど。


 まあ、偏見を以てして、差別しちゃいかんよと言いたい訳ですよ。

 

 じゃあ正しい認識をもってたらどうなるのと。


 これも微妙な話ですが、男と女は違います。同じという人が居れば頭が変です。

 男と男が二人居たとして、その人らも違います。これも同じだという人が居たら頭おかしいです。


 これは区別するということですけど、自分と他人は違います。同じように他人と他人も違います。これが違わないという人が居るかもしれませんが、その人とはあんまり話は合わないと思います。


 じゃあ自分と他人とどっちに重きを置きますか。

 三通りあります。自分に重きを置く。他人に置く。全く同じ。ですね。

 全て差別してますね。

 全く同じは差別じゃないやんと言うかもしれませんが、全く同じなんてことをするような特別なことが差別じゃないなんてどうして言えるんでしょうか。

 自分と他人は違うもの。違うものを全く同じにする。それは差別です。


 自我を持ってしまった以上差別するのは自然なことで、普通のことです。別に悪いことではない。

 

 ただ差別から偏見をもってはいけません。偏見の理由が差別であればそれは良いことじゃない。具体例はもう省略しますけど、わかるでしょう。断定ももういいと思います。


 ならいっそのことものすごく偏見をもって、発達障害を考えようじゃありませんか。

 認知バイアスもあると思いますが、親子って似てるとこがあります。

 自分も親に似たくはないと思いながら、他人にはきっとそっくりだと思われているのでしょう。

 

 働きすぎて早世した父をもつ息子も働きすぎてやつれてるという話題が出ることがあります。自分はその地域の人間じゃないので、そうなんですねーと毎回聞いています。

 遺伝ってあるんだろうなと。

 

 先祖代々日本という島国に住んできて、適応して運よく生き残れた人たちの遺伝子を我々は受け継いでいるわけです。

 なかには勤勉な人の遺伝子もあるでしょうし、自分みたいなぐーたらの遺伝子もあるでしょう。

 霊長類などど烏滸がましい名前をつけるような知性をもって、人間は進化したわけですが、知性があったから生き残ったのではなく、たまたまそうだっただけのことです。


 何が言いたいかというと、ぽっとででそういう人たちが、何十年や何百年かの間に現れたわけでなく、何千年も前から発達障害といわれるような人たちは居たはずだということです。


 なら日本人にはその因子のある遺伝子を持ってる人たちが多く居るはずです。

 おそらくほとんどの人にあるのではないかと思います。


 遺伝子というものは何かのはずみでその効果を発揮するわけで、勤勉な親の子が勤勉であると限らないように、なんとなーくその環境でスイッチが切り替わるものらしいです。


 なぜそんな一見不利に思えるような因子があるのかというと、それが必要だったからだという推測ができます。

 それが何かは分からんですけど。


 古代の日本にも奴隷制はあったはずですし、飢饉もあったでしょう。

 いわゆる差別的な仕事もあったでしょうし、それらを行う人間は必要とされたはずです。


 いきなりここで自分の経験談なんですが。

 

 疲れてる時は思考がどんどん回ったりします。で、休みもなく仕事を続けていると、ぱたりと全く思考しなくなります。

 とりえあずルーチン通りに仕事はやりますが、これって鬱になるやつだよなぁとかぼんやり考えるくらいでパフォーマンスがいいかはわかりません。

 まあゆっくり休んで遊んでたらもとに戻りますけどね。

 でもまあ小説を書こうなんてモチベーションまで戻すのが大変なことはあります。


 これがもし、一から十までガンガン指示を出されるような職場で休みもないようだったら、簡単に壊れると思います。

 たぶん指示されたら動きはするみたいな人間が出来上がるんじゃなかろうかと思うんですよね。


 あーこれって奴隷じゃないですかと。


 もしかしたら、人間は休みなく働いて、事細かに指示を出されて反論を許されなかったら、「あ、俺奴隷だ」というスイッチが入る仕組みを持っているんじゃなかろうかと。そういう遺伝子をもってても不思議じゃないですし、理にかなってるような気がします。


 あと、皆が疲れているときはお互いに攻撃的になってたりします。普段温厚なひとでもそう見える時があります。マウントを取ろうと自己防衛本能でも働くのかもしれません。


 蟻は女王蟻を生かすためにカーストを作ってます。人間も社会をもってますから、自然とカーストを作ります。スクールカースト? そんなのあって当たり前でしょと思うわけですけど話がそれました。


 あと、大人になった後と幼少期なら、抵抗値や影響力も幼少期の方がでかそうですよね。


 大貧民って知ってますか? カードゲームの。

 大富豪は大貧民からカードを貰います。もしこれが全部のカード交換で革命無しなら大貧民にほぼ勝ち目無いですよね。


 子供の方が取られるカードが多いようなもので、差が埋まらないのが決定的じゃないですか。そういう理由です。


 つまり、幼少期とか人生の中での経験が遺伝的ななんかの影響で結論を出すとか、思考するとか、行動とかを著しく阻害することがあるはずだと予想できるわけです。

 言ってみれば、当たり前のことですね。その経験てのはストレス的な何かです。

 人間堕落していけば堕落していくもんですし、習慣てのはそういうもんだと思うんですけどね。


 多様性を持つことが、発展を促すことで、工業製品のような画一的なものばかりになってしまうとすぐに破綻してしまいます。


 似たようなことは数多くありますけど、そういうの見るたびに多様性の一つを担って貰ってて、良いことじゃないかと思うんですけど、本人には辛いことなんでしょうね。他人なんで分らんですけど。

 それなら同じように自分のしんどいし辛いわと思いますけど、他人には分かるこっちゃないです。

 そりゃ話を聞く機会はあれば分かりますよか、そうですねとか、言いますよ。当たり前じゃないですか。でも話もしてこない相手にあーしろこーしろっていうのは馬鹿らしいでしょう。それがもし自分の子どもだったら、子どもを壊すことになるかもしれません。まあそんなことになるのは偶然の産物でしょうけど。


 なんにせよ、ゆとりを持って自由にのんびりと生きたいものですよ。






 


 

 

 

 

 



 


 

 

 

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