D.落陽(The night is coming)

「……話は終わったか?」

ミネオラが去った後、柱の陰から出てきたのはノヴァだった。きちんと櫛の入った髪の一部が不自然によれているのを見て、アズールはおや、と思う。いつからいたのだろうか。どうもこの様子だと長いこと人が引くタイミングを見計らっていたようにも見える。

「やあノヴァ、待っていてくれたんだね。別にあとでも良かったのに」

「私の都合も考えろ。まあいい」

ノヴァは周りをぐるりと見渡した。そうして普段より少し近い位置に立つと、声を潜めて早口に言う。アズールは、おや、と思う。潔癖なところのあるノヴァがこういう動きをするのは、とても、大変、非常に、珍しい。

「質問が一つある。嘘をつかず、端的に答えろ。アズール……あなたは今までに一体どれだけ殺した? 調書が出ている。思い当たる節があるだろう。答えろ、知らないとは言わせない」

「ん? 『処分』のこと? それなら記録にあるとおりだし、それ以外ならこれだけだ」

アズールは別段慌てた様子もなく指を三本立ててノヴァに見せた。なるほど、ノヴァはこれを聞くために待っていたのか、とアズールは納得する。確かにこれは彼女の部下の前で出来る話ではない。ノヴァに話がいったということは、行為に非が認められたということだ。それも正式に。

「……供述と合うな。質問はこれで終わりだ。これからはもっとまっとうにやって行け、本部から出ていけばもう面倒は見れん」

心配しなくても大丈夫だよ、とアズールは言った。露見した(罪だと認められた)私的複製の処分回数はたったの三だ、アズールはそれが漏れたことを知っている。把握している。理解している。そしてそれらが何をさすのか、ノヴァには『分からない』だろう事も。アズールはもう一度、大丈夫、と言う。ノヴァは目を細めただけでそれを肯定も否定もしなかった。

「私からの要件はこれで終わりだが、ついでにもう一つ聞かせてくれ。不躾ながら、さっきの話を聞いていた。どうして自明のことを確かめ合う? 『忘れない』なんて、よほど迷惑を掛けられたんでもなければ当たり前のことだろう」

脳の容量を顧みれば、そうたいした負担でもあるまい、とノヴァは言った。ここで脳の容量の多寡を慮る発想がするっと出てくるあたり生粋のエリートなんだな、とアズールは思う。アズールを含め、ノヴァの下にいるのはみな高等教育を突破した経歴を持つ、ある種、能力の保証された人員だ。だから本来それは聞くまでもない『当然の事実として処理される』事象だ。きっとノヴァはそう遠くない未来に『そうでないもの』を指揮するような地位を手にするのだろう。栄転だ。ノヴァは責を果たすだろう。どこまでも公正に、潔白に。

「そういう挨拶なんだよ。今まで過ごした時間は長期記憶に入れておきたくなるほど『快い』記憶だった、ってね」

「なるほど、回りくどい言い方をするのだな。私は出来るものなら忘れたいと思っている。もう会うこともなかろうが」

「それはきみの願望?」

ノヴァはわざとらしく鼻を鳴らした。これは件の調書がよほど腹に据えかねたんだろうな、とアズールは思った。

「あなたの無法な振る舞いのために私がどれだけ苦労したと思っている? 分かったのならさっさと荷物を纏めて出て行け。問題を起こして戻ってくるんじゃないぞ、わかっているな」

アズールは立ち去るノヴァの背を見送った。問題、とノヴァは言う。悪いことをしたなあ、とアズールは思わないでもない。それでも成果としては上々だ。アズールは調書について思いをはせる。漏洩はたったの三つ。そしてそれらは巡り巡って別の問題をうやむやにするだろう。だからアズールはわざと痕跡を残したのだ。これでいい。全ては上手く行っていると行って差し支えない。



アズールは荷物を持って部屋へ戻った。鍵をかければ部屋の中へは誰も来ない。扉のこちらには誰もいない。三。アズールは手を広げて自分の指を見る。三。取り返しのつかない脊髄を切り離した数もちょうど同じだ。真贋の見極めに失敗したまま手続きが進み、全てが正式に認められたあとで発覚した個体の『処分』。本当の意味で、自分が『殺した』のは三人だけだ。今のところは。おそらく。それらが全てどうにもならないことであったと、アズールは正しく理解できる。自分が墓まで持って行けば、それらのことは問題にも数えられないだろうということも分かっていて、アズールはそれを実行できる。気付かずにいれば良かったようなことを知覚してなお、気にしないまま生きていくことが出来る。アズールは持っていた荷物を机に放った。扉のこちらには誰もいない。密室の中で何があったか知るものはアズールを除いて他にない。


唸りも揺らぎもない全くの無音があたりを静寂で満たしていた。アズールは手のひらを見る。もしこの先に、自分で『選んで』殺すようなことが起きたら。起きたとしたなら? 指の侵入を拒む感触は今よりもっと強いだろうか。手の甲をかきむしる爪はより深く刺さるのだろうか。検体は今よりもっと針を怖がるのだろうか。そこに今までと違いはあるのだろうか。

仮にそうなったとしたら、そんなときが来たとしたのなら。自分はそこになにを感じるのだろうな、と自分の他には誰もいない部屋に立つアズールは思った。白いハンカチと白くないハンカチ。中が空っぽの尖った歯。次亜塩素酸のボトル。汚れた爪ヤスリ。予備の白衣と飴の袋。アズールは部屋を見回し、片付けに入る前、まずは飴を一つ食べた。

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インべリアブル・へミメタボリー 佳原雪 @setsu_yosihara

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