枝から落ち、もう戻らないもの

21.耳をつんざく天使のラッパ(wish somebody good luck)

ミネオラはアズールを探していた。休憩スペースに続く廊下の途中でアズールを見つけ、声を上げて駆け寄る。きょとんとしたアズールが立ち止まって振り返ると、息を切らせたミネオラは顔を真っ赤にして『やあっと見つけた』と言った。ミネオラはいつもの白衣を身につけておらず、代わりに滑らかなジャケットを着ていた。手には鞄。

「あのっ、あのね、あーし、故郷に帰ることになった。んっと、だから……今までありがと、アズール! あーたの事忘れない」

「そうなの? そっか、研究所もさみしくなるね。でも、そういってくれるのは嬉しいな。忘れない。忘れない、か。嬉しいよ、そういってもらえて。一番の褒め言葉だ」

ちょっと驚いた顔をして話を聞いていたアズールは、口元を緩めて微笑みかけた。ミネオラはどぎまぎして視線を下げる。ズレた眼鏡を手で抑え、そこでアズールの持つボール箱に気がついた。

「ときに、今、何してるんです? なんです、その荷物? 随分な大荷物ですけど。大掃除?」

「ん、ああ。引っ越しだよ。飛ばされてね。本部から出てけって言われちゃった。左遷だよ、困ったね」

何でも無いように放たれた一言にミネオラは固まった。おろおろと目線が泳ぎ、言葉にならない様子で唇が開閉する。大丈夫? とアズールは尋ねる。ミネオラは苦い顔で唇を噛み、むっとした顔を隠しもせずに聞いた。

「……なにしたんすか、なにがあったんですか」

「うーん、手を抜いてたら仕事をしてないのがばれちゃったんだよね。いやあ、僕もこれで研究所をお役御免って訳だ」

ひらひらと手を振るアズールが本当に何でも無いように笑ってみせるので、ミネオラはげっそりした様子のままアズールへ非難の目を向けた。

「だっ、だから言ったじゃない。なにしてんすか。なにが大丈夫なんすか」

「そうはいっても異動は年中行われてることだからね。僕にはもっとふさわしい場所があるってそれだけの話だ。まあどこに行ったってそんなに環境は変わらないよ、前にきみが言った通りね。さっきも『困った』って言ったけど、大して困ってもないんだよ」

アズールの言葉にミネオラはピタリと動きを止める。『前にきみが言ったとおり』。何を言ったのか、ミネオラは覚えていない。自分はなんと言った? 考え、考え、考えたが、ミネオラには思い出せなかった。

「いつ? 何の時? あーし、なんて言ったっけ……?」

「うん。来たばっかりだった頃に『どこに行っても青い髪ばっかでいやになる』ってさ、まあ忘れたならそれに越したことはないよ。ミネオラも環境に馴染めたってことだ」

それってやっぱり喜ばしいことだよ、とアズールが言うのを、ミネオラは唇を噛んで聞いた。確かに言った、気がする。鞄の取っ手をぎゅっと掴む。だって、いやだったのだ。本当に苦しかった。でも今は違う。『環境に馴染めた』。青い髪ばかりのこの場所、嫌なばかりだったそれが、今ではそうではなくなった。ミネオラはそれが誰の手によるものなのかを、言葉の切れた今の瞬間、どこまでも正しく理解している。理解している。ミネオラは胸にわだかまるそれを、どうにかして伝えようとした。焦りは、ミネオラに口を開かせる。

「ね、ねえ、アズール」

「なあに?」

柔和に微笑む顔を見て、最初に会ったときもこんなだったな、とミネオラは思う。最後だ、最後だから、恥ずかしくって目をそらしてきたけど、自分はなんとしてでも言わねばならない。ミネオラは口を開き、あのね、と言う。これが最後の機会なのだ。あたしはこの目の前に垂れた細い糸をどうにかして掴まなければならない。あのね。

「本当に、本当にありがとう。ここでなんとかやっていけたのも、あーたのいてくれたおかげだ。一人じゃきっとだめだった」

「……まるで今生の別れみたいな事言うんだね? そんなに言わなくたって僕は明日からも生きていくし、何だったらこの先七十年くらい生きるよ。そういう身体に生まれついたわけだし」

どこか雲を掴むようなやりとりに、ミネオラは焦れる。変わらない、と思った。最初にあったときから何一つ。ああ、でもこれが、これこそが救いだったのだ。このどこか自分勝手で、へつらうような色のないこの会話こそが。

「か、かもしれないけど、感謝してるの! いまがきっと最後になる。なっちゃうかもしれない。後悔したくないの。忘れない、ずっと……」

ここで分かれたらこの先もう会えないかもしれない。きっと会うことはないだろう。だってそうだ。学校を卒業して、今でも連絡を取り合っている人間が何人いる?

俯き、『だからどうしても、伝えたくて』と言ったミネオラへ、アズールは『忘れないから大丈夫だよ』と返した。ミネオラが顔を上げる。青い目がそこにあった。つんと透き通る空色の目が。

「本当に? あーしのこと忘れない?」

「忘れないし、どんなに沢山の人がいてもきみを見分けてみせるよ。僕はきみを知っている。ね、メグ・ミノーラ。ミネオラって呼ばれる方が好きかな?」

ぱっと頬が色づいて、ミネオラはふるふると首を振った。『どんなに沢山の人がいてもきみを見分けてみせる』、それは、三億の中からでも?

「ん、ううん。ありがと……そ、それじゃ、もう行くね。さよなら、アズール」

そういって駆けだしていくミネオラの背に向かって、アズールは『またね』と言って手を振った。

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