大小混じる柔らかな管

C.夜に出歩く獣の瞳(carnivorous)

男は部屋で廃棄の身体と対峙していた。使い物にならなくなった身体は委ねられた。この後の処分は任せられた。灯りの入った実験室は輝いていて、それでいてなお暗い。廃棄の身体。閉ざされた扉は開かない。開くことはない。こちら側は闇だ。


丸く削れた奥歯。可哀想になあ、と他人事のように思う。可哀想にな。彼は事故で死んだのだ。不幸な事故で踏み外し、そうして荼毘に付されるまでの僅かな余暇をこんなところで過ごしている。鉄さびと消毒液の匂いが混じり合う誰もいない実験室。最後の晩餐にパン一つも出ない、ただただ明るいだけの部屋で、静かに吐き出される息が二つ重なっている。静かだ、と思った。自分と彼とでここへ来たが、三時間後に扉をくぐるのは一人だけだ。この一時間の間で、彼はズボンの下に治ることのないあざを二つ作った。丸く青いあざが身体から消えることはない。それはスティグマだ。しかし彼にそれを罵る相手が現われることはない。もうじき死ぬ身体には是正の機会も必要も無い。男は静かに目を細める。無音の部屋に息の音が二つ重なっていた。


口の中がどうであるかがわかるほどの接近。手袋をはめた指を差し込めば、虫歯のない、白い歯は丸く削れている。削れている。生まれて日の浅いクローンではあり得ない造形。ここにいるこれは『原本』だ。可哀想に、と再び思う。今からここを出て追いかけたところで手遅れだ。切り貼りを通り過ぎた身体ではもう元のように生きることは出来ない。そもそも既に『本物』が誂えられてしまっている。何をしたって、どうあがいたって、この身体はゴミ箱行きだ。男は目を細めて目の前のそいつを見る。緩く開かれた口、焦点の定まらない目。滑らかな肌と、青い髪。青い髪。S型第二世代における『大人』を表わす体色は鮮やかだ。ここまで育つ時間を思う。無為になってしまった時間を。

これから知り合うかもしれなかった相手は、この先決して会うことのない人間に変わった。彼はここで死ぬ。欲をかいて記憶の移植などするからこうなる。男は愚かしいまねをして生命を失いゆくそいつのことを抱き寄せてみる。濁った目はぼんやりと見返してくるのみで、もう自分のことも分からないようだった。男は肩に回した手を放す。執刀医はきちんと職務を果たしたようだ。これではもう使い物になるまい。いくつもある可能性の内一つを選び取ったら、他にどんな未来があろうと、決してそちらに行かれないよう道を潰す。あとになってあちらが良かった、などというものが出ないように。大事なことだ。問題なのは選ばれた道が間違っていたと言うことだけで。


果たして道は間違っていたのだろうか? 男は考える。少なくとも目の前のこれは、最初の目的を果たしたのではないか? 顛末はこうだ。これは、『自分よりも優秀な個体』を作ろうとした。そうして自身の知るかぎりのことを、『外から見て違いの分からない水準になるまで』複製したそれに詰め込んだ。そうしてきたる能力試験をパスすることで、今以上の好待遇を得る根拠の一つにしようとした。その後もくろみは露見して、コンタミネーションの末に偽物と断じられた片方が処分された。それがこれだ。原本は死ぬ。しかし、同じ名と同じ思い出を持つ『本物』はこの先の人生を原本であったはずの彼よりも遙かにたやすく渡って行くだろう。彼こそが原本だとして。入れ違いこそあれど、優秀な身体を手に入れるというのは彼の望みの大部分であったに違いあるまい。それが可哀想なことなのかどうかは、当人にしか答え得ないことだ。そしてその当人はいま、ここでこうして死を待っている。


男は哀れむような目を向ける。これは、いまや自由意志をなくし、反射でしかものを考えられないようにされた傀儡でしかない。丸く削れた奥歯。汚れた口。いまさら何を言っても理解は出来ないだろうな、と思う。身の丈に合わない未来を望んだ男。成り上がりを夢見た男。危ないと分かっていて、そこへ踏み込んでしまった哀れな男。処理班は優秀だ。優秀なものが正しく手を施し、そうでないものは道を譲る。それこそが道理だ。道は閉ざされた。鍵の掛かった扉は開くことはない。定刻まであと二時間。それまでには片を付けておかねばな、と男は思った。

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