舌を潤す甘美なるもの

8.裸のネズミ(out of place)

「ミネオラ、少し聞きたいことがある。ちょっときてくれ」

言うなり部屋に踏み込んだベルベナがまっすぐ寄ってきて手招くので、ミネオラはぎくりとした。周りにいた面々の視線が集まる。

「……え、なんです? なんかありました?」

「いや、問題が起きたとかじゃないんだ。少し、個人的に確かめたいことがある。皆の前では言いづらい話だが、言うほどたいしたことじゃない。忙しいというなら後でも構わない」

後でも構わない。それはつまり、遅くなってもいいから必ず来いという宣言に他ならない。怒られたくない。ミネオラは嫌な汗をかきながら机の上を拭っていた布巾を畳んだ。

「え、いや、行きます。二分待ってください」


「それで、ベルベナ、あーしに聞きたい事って? 物々しいな。あーし今から何言われるんすか、こ、怖いなあ」

呼び込まれた資料室のような部屋の中で、ミネオラは努めて軽薄な笑顔を作った。上滑りする声に頬が引きつり、ああ、慣れないことはするものじゃない、と思ってしまった。二人きりで喋るのは落ち着かず、早く解放されたいとそればかりが意識に上る。

「そんなに警戒するな。何度も言うようだがたいしたことじゃない。質問自体も難しい内容ではないはずだ。まあ焦らずしばし待て……要件というのはこれだ。前任者が置いていった」

机の上に置かれたのは一冊の紙束であった。裁断もされていない小口はズレてばらばらだが、表紙がついて綴じてある。

「本?」

「その通り。これは官能小説と呼ばれるジャンルのフィクションだ。前任者のマーロウというやつが書いた。自分の名前は花ではなく孔雀石なのだと主張していて、銅鉱石からの連想か、書くにあたり、ペニシリンを名乗っていたようだ。気取った名前だな」

ベルベナがつっけんどんに吐き捨てた。様子を見るかぎりどうも気に入らないらしい。よほど頭にきているのか、気取った名前だと繰り返すがミネオラにはよくわからない。気取った名前? 官能小説だというのなら陰茎(ペニス)のことではないのか? そう思ったが、それを言えるほど気負わない関係の相手というわけでもないのでミネオラは話の続きを促した。

「……そ、それで、その本がどったの?」

「ああ、そうだったな。問題は本の内容だ。本人は外の文化に興味があるらしいことを事あるごとに言っていて、記載内容も概ねそのようであるのだが、なにぶん私は研究所以外を知らない。だから、書かれていることが本当なのか、それとも偏見混じりの誇張なのか、一切の判断がつかない」

全くだ、とベルベナは真顔のまま両手をあげて言った。一瞬何が始まるんだ、と思ったものの、さっと降ろして何もないことを見るに、どうやらお手上げを示すジェスチャーだったらしい。怖い。

「んで、それで……あーしに聞こうって?」

「そうだ。営業あたりに聞くのも一つのやりかたではあろうが、所詮私たちは同族だ。やはり本国の人間に聞くのが理に適っているだろう」

ベルベナの言葉に、ああ、ここでの自分はやっぱり異質な存在であるのだな、とミネオラは思った。頼られたのは幸か不幸か。曖昧に頷く。

「まあなんだ。とりあえず読んでみろ。まずそこからだ」

促され、ミネオラはパラパラとページをめくった。良いとも悪いとも言い難い品質の紙は、どうもコピー用紙のようだった。学校付きの図書室に並ぶ学生作品っぽいな、とミネオラはぼんやり思う。

『暗い部屋に香炉の煙がゆっくりと広がり、棚引く白い筋は現実感を失わせる。寝台の上で私たちは互いの目を見つめ合う。濃色の肌はこの薄暗い室内で、一段違った濃密さを見せた。伸び上がって、手の先が触れる。思わず手を引いた私へ可笑しそうに笑いかけ、彼女は私の頬に触れ、私の耳へ大きな石の耳飾りをつけた。そうして彼女はまたくすくすと笑う』

ページをめくる。

『ふかふかとした胸は滑らかに流れる。手のひらはじんわりと熱を伝えてくる。皮膚の下を流れる脈拍、湿った息づかい。柔らかい皮膚に包まれた肢体を、シトリンはうねらせた。ガラス細工の吊りランタンから落ちる色とりどりの暖かな灯が淡い土色の肌へ色をつけ、その身の艶やかであるのを益々盛立てていく』

ページをめくる。ページをめくる。ページをめくる。コピー用紙の束に綴られた文字はずっとこの調子だった。ミネオラは困惑および赤面し、顔を上げてベルベナを見た。

「な、なんですかこれ」

「官能小説だ。最初に言わなかったか? ……あと、そのページじゃない。もう少し後だ」

まだ続けるのか、と思ったが、どうやら要件はこのすぐあとのあたりにあるらしい。ミネオラは逃げ出したいのを我慢してページをめくる。

『硬くなった陰部を寝台へ広がる身体に突き立て、柔らかな腹を耕していく。陽光に温められたがごとき熱を持つ肌は心地よい皮膚感覚を連れてくる。ふくふくとした吐息、地熱を思わせるエネルギー。床へと届く火の香りは香炉から漏れた快楽の糸だ。それは身体に纏い付き、絡みあっては浮き足立つ私を糸巻きのように絡めとる。そうでなくても、甘くとろかすような彼女の視線が離れないというのに。解れ、暖かな湿り気を帯びる豊かな土壌に、私は濡れた種を』

ベルベナはじっと読むのを見つめている。ミネオラはじぶんがなにか、公序良俗に反した、いけないことをしているような気分になった。読書をしているのを見られるというのだけでも居心地が悪くなるというのに、手の中にあるのは官能小説で、それもいっとう卑猥なシーンだ。何か言うべきだろうか。それとも、それとも。自分はどうしたら良いのだろう。

「……あの」

「そこだ!!!」

「どこです!?」

急に開けられた声に驚き、ミネオラは叫び返した。

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