天を向いて肥大化するもの

B.野菜と肉とそれ以外(carbohydrates)

飢えを満たすために肉を貪る。それは道理に適っている。食べたくなったときに好きなだけを食べる。それは欲に根ざした悪徳であるという。前提は正しいとされてきた。果たして本当にそうだろうか。ここには食べるものはいくらだってある。いくらだって。『食べ物』を前にして舌なめずりをするのは本能なのか。それとも飢えの記憶によって後天的に植え付けられた習慣なのか。食餌から出る熱気によって冷たい床は結露に湿る。食む。肉のいっとう柔らかいところを。食む。舐めしゃぶる。床を這いずって、硬い牙を食い込ませて。


低い唸りの響く、冷たい密室に人間が二人。食肉の加工にガス室が使われることはない。ガス室に動物が入ることはない。毒で絞められるのは何時だって人間だけだ。人間は二人いる。タイルの床にぐったりと寝そべる一人目。それから、脱力する身体を組み敷いて、細く伸びた手足や薄い腹を押さえつけ、繰り返し繰り返し飽きもせずに押し捏ねる二人目。それらはともに青い髪を持つ、S型第二世代の末裔だ。使われなくなったこの部屋(ガス室)には誰も来ない。男は手の甲で汗を拭い、柔らかい腹を指で探る。温かい腹はふかふかと指を押し返した。押し戻される感触を楽しみ、今度は少し力を込めて押す。くぼみに指がはまり込むので、さらに押し込んだ。すると腹が苦しいのだろう、喉奥から空気の漏れる、ぐえ、というような声が響いた。男は盛り上がった肉の淵をぐるりとなぞる。明確に損なう意図を持った狼藉はしかし、柔らかい肌へ殊更傷をつけるようなことはしない。腕に貼られた絆創膏の下には小さな刺し傷があったが、そのこととそれとは別段関係の無いことだ。そもそも痛みを与えて泣き叫ばせること自体、本来の目的とは外れる行いであった。『それ』が必要であるのなら、他にやりかたはいくらでもある。いくらでも。ただ、目的はそうではなかったので、手段が実行されることはなかった。男は脇腹へ手を回す。寝そべっていたままだった身体が少し反応を示し、口から小さく声が漏れた。


この身勝手な男が何を求めているかと言えば、欲を晴らすこと、その一点に尽きた。可哀想なこれは下げ渡された。持ち帰ってすることなどひとつきりだ。のし掛る。潰す。上に乗る白い体は緩やかに動きを止め、丹念に身体の線をなぞっていく。神が設計した肉体の造形を余すところなく知るためと言われれば納得してしまうような手つきが肌を舐めていく。曲線を描きつつも、どこか固さの残る稜線。薄い尻たぶ。すらりと伸びた肉付きの良い脚。しなやかな腿は膝へ繋がる。ひかがみ、足首、つま先。その一つ一つを忘れまいと、あるいは、取りこぼすまいとするかのように白い腕は滑っていく。

やや荒れ気味と言えなくもないが、それを加味したって滑らかな肌だった。そうして腕を滑らせ続けた男は指の頂点で折り返し、ぐるっと一周回った後に再びのし掛る格好になった。肩に掛かるコートの白。柔らかい身体は服を着ている分だけ下にいる彼よりも大きく、肉体に絡みつき這い回る姿はさながら巨大な蛞蝓のようだった。あるいは蛆か。他者を食い物にして肥え太ったそれは品定めをするように身体全体で獲物を舐め回し、光る涎の跡を残す。湿り気。それは汗であっただろうか。湿り気。それは溢れる欲と渇望によって垂らされた文字通りの涎だったかも知れない。垂涎。ずるずると這い回り、その身の全てで味わおうとするかのように濡れた身体を沿わせる。擦り付ける。溺れるように。あるいは身体を溶かし合わせるように。あるいは、分泌される消化液で一方的に溶かし啜ろうとするかのように。そうして何度かの行き来の中、濡れた肌同士が滑り、べちん、と間抜けな音を立てた。溶け合わない二つは重なり、離れ、また重なる。


享楽はここにあった。ずるずると入り込み、腰を掴んで跳ねさせる。視床下部を強く叩くのはぎゅっと噛み締めるような陶酔、逸脱だ。全ての裁量は委ねられている。身体の下で伸びているこれをどうしようがだれにもとがめ立てされる謂れはない。無論それは『本人にも』だ。本人にさえ、これをどうこうする権限はない。だってもうこれは自分のものだ。自分が連れ立ち、自分が見届けるよう仰せつかった。そのことが男の隠され抑圧されていた支配への渇望をなだめていく。身勝手に振る舞う。損なう。壊す。そのことが一方的な働きかけをますます盛立て、加速させる。密室に、乱暴は止まらない。誰にも止められることはない。ここは男の作った蟻地獄だった。連れ込まれれば逃れ得ず、狼藉は続く。息の詰まるような部屋。快楽を得るための密室。肉体的な興奮によって唾液の粘度は上がっていった。口が息を求めるように上を向く。甘いというには苛烈な痺れが広がって、その身は快楽に打ち震える。そうしてだらりと垂れた銀の色が肌を汚し、今回、状況、この場においてはひとまず終わりと相成った。

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