2.燭台の灯火(lighting of a menorah)

「大丈夫なのが分かったところで財布を受け取ってもらって良いかな? このまま僕が持って帰ってもお互い困るだろ」

「っす、ども」

貸した方が礼を言うのもおかしいような気がしたが、財布には生活費が入っているので異を唱えず素直に受け取っておく。戻ってきた財布は中身共々無事だった。カツアゲじゃなかったのか、と未だぼんやりする脳で認識を改める。自分が財布をポケットに元通りしまいなおしたところで、男は立てた指をくるくる回して唐突に言った。

「きみ、あれだろ、新しく来た化学の人。……だよね?」

「そうだけど……なんで知ってんです? どこの人?」

あたしは知らない、とミネオラが言えば、そっかなるほど、そうだよね、と感動のない答えが返る。

「複製二課。クローン技師だよ。何で知ってるのかって言われてもちょっと困るな。一応僕らはホスト側だからね。人が急に増えるとトラブルになりがちだし、新しく配属が決まった段階で『お知らせ』が回ってくるんだ。まあ別に誰も読んじゃいないけど、外から人が来るなんて珍しいからちょっとした噂になっているよ。お知らせよりそれで知ったって人も多いんじゃないかな。僕は違うけど。うん、意外と有名人だよ、きみ」

お近づきになれて嬉しいよ、と男が本当に嬉しく思っているのか若干不明なイントネーションのまま言うので、ミネオラは返答に困って曖昧に頷いた。

「っていうか逆に僕のこと知らないんだね。……ああそうだ、これはさっきのお礼だよ、受け取ってくれ」

忘れない内に、と言うやいなや、手の中に白い粒が押し込まれた。親指の先ほどの硬い粒がフィルムに包まれている。見る限り、飴のようだった。目の前の男は袋の中から飴と思しきそれを摘まみあげ、乱雑にフィルムを剥ぎ取っては矢継ぎ早に口へと突っ込んでいる。毒ではない。おそらく。いや、さっき封を切るところを目の前で見た気がする。それならこれは市販品か。飴状に加工されたニトライト系のトローチかもしれない。そこまで考え、ミネオラは考えを改めた。そうだとすればこの男はとっくに心臓発作で死んでいる。

「えっと、い、いただきます……?」

ミネオラはおずおずと口に入れた。甘い。バターキャンディに似た風味があるが、それよりいくらか軽い。おいしい飴だ。気に入った? と言うように男は微笑みかけてくる。ミネオラは頬を動かし、笑ったような表情で答えた。さっき見つかったときはどうなるかと思ったけれど、案外こいつは話のわかるやつなのかもしれない。なにより、話しやすい。これで髪が青くなければな、と思う。思ってしまう。そうはいっても髪の青くない人間はここにはいないのだが。ミネオラは口の中で飴を転がした。飴はやさしい味がした。

「いや、でも驚いたよ、ここの休憩スペースに人が居るなんてね。小銭を探してたら人が落ちてるなんてのも初めてだ……ところでさっきから思ってたんだけどそれ何? 市販薬じゃないっぽいけど外ではそれが流行ってるの?」

手に握っていたボトルへ向いた視線に、ミネオラはドキリとした。後ろめたいことを指摘されたときの背筋が寒くなる感じが広がっていく。なんて答えようか。薬かと聞かれたということは、お菓子と言ってもきっと通じない。緊張によって喉が渇いていくのを感じる。ジュースが飲みたい。飴の甘い味とは別に、口の奥が泥を噛むみたいにジャリジャリする。震える手がボトルのふたを握りしめていることに気が付いて、ミネオラは絡めた指を意識して緩めた。

「なんでもない、別に、たいしたものじゃ…… や、んーっと、待って、教える代わりにここでのこと誰にも言わないでくれる?」

ごまかそうとして考え直す。見透かそうとするような青い目が怖い。無理を重ねて追求を逃れるよりは、ここは正直に言ってしまった方が良いような気がした。吉と出るか凶と出るか。焦りはミネオラに口を開かせる。

「誰にも? いいよ、でもどうして?」

本当に言って良かったのか。不安が募る。いいよ、でもどうして。軽い調子で言われる言葉にも上滑りしていくような感触があった。本心がどうかなどまるでわからない。ミネオラは焦る。ここまで言ってしまったのなら信じるほかなかった。言うからこれも秘密にしてくれ、と前置きしてから、ミネオラは途切れ途切れに話し始めた。橙色の目は虚空をふらふらとさまよう。

「……あーし、ここ来たばっかなのは知ってると思うんだけど、おんなじ班のやつらのこと怖くってさ。あーしを変な目で見やがんだ。ん、その目……それだよ、なんてのか何してもみんなちょっと……びっくり? したみたいな顔すんの。それがやなんだ、なんかしたのかって思うんだけどわかんないんだ。普通にしてるつもりだけど、なにか気に障るのかな。あーし、なんか変なことしてるのかな」

話が本題と逸れたことに気がつき、あ、だから、あんまり目立つようなことしたくなくて、とミネオラは結ぶ。男はちょっと眉を上げた。

「ああ、怖がらせたのならごめんよ。変な事って言うか……きみの言葉は外の人の喋り方だね。知っての通りクローニング研究所はS型の巣窟だ。S型に最適化されたS型の聖地だ。そう、ええと、つまり、今のこの顔は、その喋り方を中で聞くとは思わなかったから少し驚いたんだ。失礼なことしちゃったね。あんまり警戒しないでくれると嬉しいな」

所属が違うとは言え、今は同じ研究所の仲間だろ、と男は言った。親しげに。そう、金の貸し借りをした事実があるにしたって、その言葉は随分距離が近かった。ミネオラは直感する。次に合ったときはもう、きっと自分とこの男は他人ではないのだろう。今日ここで出会ったから。こうやって話をしたから。たったそれだけのことで? 男は返事を待っているように見えた。ウン、そうね、気にしないから……と曖昧に頷きながら、妙な雰囲気のある男だ、とミネオラは思った。男の作る空気感はどことなくスローで、ミネオラはそれに知らず知らず巻き込まれていく。ミネオラは何か言おうとした。口を開いて、ふと気付く。呼び名がない。

「……そういやあーた名前は?」

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