3.タンジェロのミネオラ(Minneola of tangelo)
「そうか、挨拶がまだだったね。僕はアズール。本部所属、複製二課(応用設計)のアズールだ。この研究所で僕を知らない人はいないよ。多分ね」
ここにきて僕のことを知らない人って初めてかも知れないな、と物珍しそうに呟き、目の前の男は、仲良くしてね、と言った。そうして、『もし僕のことをもっと詳しく知りたいなら他の人にも聞くと良い、きっとみんな親切に教えてくれる』と続けたので、そんなに名の知れた身の上なのだろうかとミネオラは思った。あるいは、周りと話す切っ掛けを提供してくれたのかも知れない。思えば確かに変わった男だ。物言いに遠慮が無く、あけすけで軽い。ミネオラは男の目や髪を見る。アズール。空色。なるほど、よくできた名前だ。『アズール』のもつ青い髪は、晴れ渡る空のように透き通って明るい。
「S型第二世代の文化にはあんまり馴染みがないかな?」
じっと見ている事を咎められたのだと思って、ミネオラはぱっと顔を伏せ、恥じ入るように眼鏡を直した。
「う、ウン…… そう、悪い、失礼だった、ごめん」
「ああ、大丈夫、じっと見られるのには慣れてるからね。別に殊更怒るようなことでもないし、なにより、外の人はみんな必ず一回はやるんだ。それより良い名前だろ? 名は体を表す、ってね。君の渾名は誰かにつけて貰ったのかな?」
あだな、とミネオラは繰り返す。そうか、この男はあたしが『ミネオラ』じゃないことを知っているのか、と思った。
「……誰だったかな、個人の見分けがつかないころに誰かが言い出して、多数決で決まった。多分そうだった……確か」
「そっか、ラッキーだったね。考えた人はセンスが良かったと見える。ミネオラってタンジェロのことだろ? ミネオラ・オレンジ。『燭台(メノーラー)』よりもよほど良い」
「え? いや、何の話…… タン、え、何?」
困惑顔のミネオラへちょっと首を傾げたアズールは、タンジェロって言うのはオレンジのことだよ、果物のオレンジ、シトラスって言ったら誤解が無いかな? と続けた。
「呼び名って大事なんだ。ここで時間を潰していたって事は仲間内でなんか嫌なことがあるんだろ? いや、それはさっき聞いたね。うん、つまるところが馴染めないって話だったと思うんだけど、日々を目立たず穏やかに過ごしたいっていうのなら引っかかりは一つでも減らしたい訳だ。その点ニックネームっていうのは良い選択だよ。異郷の名前って言うのは、外に出たことない人にとってはやっぱり異質なものとして映るものだからさ」
無論、そこに悪意がなくてもだよ、とどこか念を押すようにアズールは言う。うんうんと聞きながら、この人はこの手のやりとりに慣れているのだな、となんとはなしに思った。
「耳慣れた渾名は距離を縮めるのにプラスの働きをする。きみも、ベルベナとか、アジュガとかニゲラとか、その辺の名前は多分、最初に聞いたときに変な感じがしたんじゃないかと思うんだ。逆にローズマリーとかロゼとか、ああ、チコリなんかは馴染みが深いかな?」
ミネオラは何か言おうとして、口を開いて少しのあいだ固まった。アジュガ、ニゲラのたとえは順当として、チコリ……チコリ?
「あ、や。やー? チコリ? チコリはないな…… ローズマリーは、変じゃないけど知り合いにはいない……」
「あれっ? そっか、じゃあこれは僕の勘違いだな」
何言ってるんだこいつ、とミネオラは思ったが、この言い方だとどうもチコリは名前として存在しているらしい。わからないな、と思う。全くもってわからない。どういう感覚なんだろうか。ああつまり、これがさっき言っていた異郷の人間って事なんだな、と気がつく。ここで自分はひとりきりなのだ。ひとりきり。寄る辺のなさに愕然としたミネオラはめまいを覚え、どうにか目の前に現われた会話の糸口を掴もうとする。
「……えーと、待ってね、どうだろ、植物系? あー、スミレとキキョウはいた、かなあ? 知り合いの知り合いレベルっていうか、流行りの名前って訳じゃなくて、どっちかっていうと古くさい感じになるけど……」
ここで対話を拒絶してしまえばこの先誰とも話さないまま孤立が深まっていく、そんな恐怖がミネオラに口を開かせた。瞬きをするアズールは届いた言葉を咀嚼しているように見えた。焦りから放たれた言葉だったが、会話を続けようという試みは上手く行ったようで、ミネオラは僅かなりとも安堵する。少なくともこの男は自分の話を聞いている。
「古くさい……? ああ、伝統的な名前って事かな。でも、キキョウ? 何だっけ、ええと、あれか。ベルフラワーのことか。それはこの辺でも聞かない名前だな。S型につけるなら草花か染料か石の名前って相場が決まってるんだけど、『フラワー』と『ブルー』は嫌がられるんだよ。僕らの感覚的にはなんて言うのかな、垢抜けないというか……率直に言うとダサい」
まあ何かするって言っても、直接付けるのを避けるくらいだけど、とアズールは言った。ミネオラは目を瞬く。
「そうなの? ブルーベルは?」
「外の人がつけたがる名前だね。その名前だとメイドかアイドルか歌手か、って感じだからダサさとは別に本名にするのは嫌がられる。芸名にするようなチョイスだよ。人気があって、華やかだけど、それだけだ」
「へえ……」
あんなに聞くのに、と思う。カルチャーギャップにミネオラが呆けていると、飴の袋をぐるぐると丸めてポケットに突っ込んだアズールが戸口の方に目をやった。
「ところで検査の時間は大丈夫? 被験者なんだろ?」
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