それは熱く、変化を生むもの

1.孤独な金の鞠(TELL ME YOUR NAME)

早い話、ミネオラは逃げてきたのだ。自分を異物と見なす全てから。

白衣を着て座りこむ自販機の影は温かく、ここでは橙の髪が見咎められることはない。目の前に広がる塗られた幅広の外装(ラッピング)は天井近くまで伸びていて、見上げれば背後の自販機も同じ高さなのだと知れる。三方を壁に囲まれたスペースは人ひとり入るには十分な広さがあって、白衣の裾を放り出したまま尻を床につけていたって外から見えることはない。前後を挟む同幅の鉄板へともたれかかる背がはみ出ることはなく、組んだ足を崩していても膝がつっかえることなんてない。ここには誰もいない。ミネオラはハンカチと錠剤のボトルを取り出して、手の中で弄んだ。


眠りに身体を浸すときのように、ゆっくりと息を吐く。外界から切り離されて、ぶうんと鳴る低い唸りが世界の全てだ。ここでこうしているのが一番良い。どんな気晴らしもこの安らぎには叶わない。どんなときより自然体でいられるこの時間が好きだった。髪の色を見咎められず、自分の境遇を考えなくて済むこの時間が。片目を開いたミネオラはボトルキャップを回し、『ラムネ菓子』を一粒取り出す。粉っぽい白色はずっと身近にあったもので、この白い色だけが自分を自分であらしめる。そのように思う。思っていたい。そうあれかしと望む。息を吐いて、口に放り込む。最初はやっぱり違和感がある。粉っぽい舌触りとともに舌がじんと痺れて、痺れは次第に脳へと回ってくる。ミネオラは錠剤を噛み締め、痺れの感覚に委ねたままぼうっと自販機の隙間を仰ぎ見た。不味い。苦しい。粉っぽい。僅かに薄れた違和感も、すぐにまた元のように戻る。でもそれでいい。不快感が不安を塗りつぶす。苦しい。振り子のような行ったり来たりはだんだんと溶け合わさっていく。ぼうっとした頭で、ジュースが飲みたい、と思った。ジュース。考えながらミネオラは椅子のある自販機コーナーの方へ耳を向ける。遠くでカツカツと床を叩くのは靴の音だ。この時間にここへコーヒーを飲みに来るような人間はいなかったはずだけど、と停止した思考の中で思う。まあでも、大丈夫だ。こうして黙ってやり過ごせば。靴音は次第に近づいてくる。当然だ、足音は缶コーヒーやお茶やジュースなんかに用があって、ここは自販機の影なのだから。足音が止まっても、ベンダースロットに小銭を入れる音はしない。変だな、と思った。より多くの音を拾うために顔を上げる。と、そこには人の顔があった。人の顔。『人が覗き込んでいる』。ミネオラは悲鳴を上げかけ、ぐっと息を詰まらせる。総毛立つような恐怖に全身の感覚が強まって、口の中の異物を強く認識する。砂を噛んでいるような感覚に、喉がぐっと鳴る。焦りと吐き気。

「あ、ねえねえ、今良いかな? 一人? 用事が終わったら小銭貸してくれない?」

どうしよう。どうしたらいい? 逃げないと。いや、隠れないと? とにかくどうにかしなくては、と思うが、そもそも三方を囲まれている。そして出口に男がいる。ミネオラは着ていた白衣を引いて、少し身体を隠すように動いた。できたのはそれだけだった。ジャリジャリした口腔内は気持ちが悪かったが、人の目がある場所で口のものを吐き出すのは憚られた。

「お楽しみのところ悪いね。小銭持ってる? コイン二枚で良いんだけど…… いや、大丈夫? 喋れる? 名前は言えそう?」

「……んんっ、えぅ」

青い髪が近づいてくる。影が覆い被さってくる。舌が痺れて声が出ない。ミネオラは返事をする代わりに、手汗で滑る手で財布を掴んで差し出そうとした。手を抜けた財布は乱入者の足下へと落ち、結果的に投げつけたような格好になる。いいから拾ってさっさとどっかに行け、と思った。金は惜しいがそれも仕方ない。口止め料になるだろうか。いま、この場が収まるなら何でも良いとさえ思った。男の髪は青い。当然だ、ここには青い髪の人間しかいない。許してくれ、勘弁してくれ。きっと自分は叱責される。

「うん? ああ、ありがとう。助かるよ」

のんびりとした調子でしゃがみ込んだ男が投げた財布を検分するのが見えた。眼鏡の隙間に透かし見ながら、なんてやつだ、と思う。薄給にあえぐ女の財布の中身を見るなどと。男は床から拾い上げた袋に、財布から取り出した小銭を二枚あてがってカチカチと擦り合わせた。ちき、という耳障りな音とともに、男が息を吐いた。どこか満足げな溜息だった。袋の口に指を入れてかっさき、中身をあさって口へと突っ込む。何をしている? 目を細め、グラス越しに見るが、影になっているせいか鮮明には見えない。男はそこで今ようやく存在を思い出したとでもいうように転がるミネオラに目を向けた。自販機の影に入ったせいか、それまで不鮮明だった男の顔がよく見えた。まだ何か用か、とミネオラは言おうとしたが、やはりというか、声はうまく出なかった。

「ありがとう、助かったよ。財布と小銭返すね。話は聞こえていたみたいだから意識があるって判断したけど、大丈夫? もしかして頭打った? ああ、動かないで、死ぬと困る。人間なんだろ?」

柔和な笑みを浮かべた男は口を止めないまま、少し不安そうな顔になった。何も考えていなさそうな声と、害意のない表情だった。人間。人間? 私が人間以外に見えるのか? 意識はある。そのはずだ。何を聞かれているのかわからないまま、ミネオラは口を開く。舌は未だ動きを鈍らせたままであったが、今度はなんとか相手にも聞こえる音量の声が出た。

「や、あーし、え、あー…… ダイジョブ……」

ミネオラはそう答えたが、痺れた舌で言う『大丈夫』には看過できないほどの危うげな響きがあった。男の表情が僅かだけ『マイナス方向に』動くのが、ミネオラのずれた眼鏡越しにもしっかり見て取れた。

「……そう? とりあえず喋るほうは大丈夫そうだ。じゃあ一個ずつ答えてね。今いるところはどこかわかる? あっ、部屋の名前ね、どこ?」

「え? ……っと、共用の休憩スペース? あ、や、自販機コーナーかな……」

「うん、合ってるよ。じゃあ次。今何時? 時計無いしだいたいで良いよ」

「えーっと、や、時計持ってないな…… ここに来る途中ベルベナが昼飯食べてたから……多分、五時より少し前?」

「オーケイ、研究職の人間に時間なんて聞くもんじゃないね。次いこうか、名前と……所属は言える?」

「ミノーラ。周りにはミネオラって呼ばれてる。そんで、所属……所属? 生年月日じゃなくて? っていうか別に頭は打ってないって。あーし、さっき言わなかったっけ?」

男はきょとんとした顔をする。ようやく満足に舌の回るようになってきたミネオラは、顔をしかめ、ゆっくり体を起こした。オレンジの巻き毛が揺れて頬をくすぐる。男は肩をすくめたようだった。

「聞いたよ、でも一応ね」

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