インべリアブル・へミメタボリー

佳原雪

インべリアブル・へミメタボリー

それは冷たく、永続なるもの

A.明け方の常夜灯(switch the lights off)

鍵をかければ部屋の中へは誰も来ない。タイル床の上に立つ男はゆっくり扉を閉じた。この先は袋小路だ。男は追っている個体の青い瞳を思い浮かべる。自分と同じ青の目を。歩いた先のひらけた場所で、それはすぐに見つかった。青い瞳、黒い髪。壁にもたれかかる身体。すらりと伸びて駆け回っていた足は、今になってようやく何をされたか理解したと見える。


どうにも薬の効きが悪かった。常ならば一も二もなく身体を蕩かして足腰を立たなくさせるはずのそれは、そのとき、あやしくも十全に機能を果たさなかった。偶然。不具合。言ってしまえばそれだけの事だった。でもこれで最後だ。両手を伸ばして追い込めば肩が震えた。捕まってなお逃げを打つ、細い肩を抱き寄せる。黙ったままの甘い黒髪は少し嫌がるようなそぶりを見せた。男はポケットを探り、少し開かせた口へと丸い飴を含ませた。いつもの通りに。嫌がるばかりであった女の表情が、僅かに異なる反応を示す。カラ、と飴の転がる音。飴は小さなベルだ。涼やかで甘い音色は情動を蹴りつける。呼び鈴がチリンと鳴れば、逃れることはもうさせない。


いつもの事だ、と男は思う。いつもの事だ、問題は無い。落ち着かせるような言葉を一つ二つ吐いて、頭に優しく触れてからゆっくりと口を塞ぐ。全くもっていつもの事だ。何度も繰り返してきた行為は今日も滞りなく進んでいる。


髪を撫でる。さりさりと愛撫するように耳をくすぐる。おとなしくなるまで随分掛かった。良い子、良い子。囁いて、『そのまま』を命じる。触れあう腕に体重を乗せて、壁に押しつける。ぶうん、と遠くから近くから低く響く駆動音。額に残る殴打のあとがじくじくと痛んだ。炎にあぶられるような熱と絶え間なく響く嗚咽。見えるところ、見えないところ。甘い体臭。べったりと濡れるのは肌だけではなく、乱れた服へも汗が落ちる。汗、涙、血液。熱い。痛い。手に振動が伝わる。肩を押さえつけるごとの身をよじるような動き。びくびくと跳ねるような動き。息を求める喉。そうしてそれを包む手のひら。むっとした、生きものの熱が手の中にある。生きている。生きている。そうしている内に腹を蹴られた。男は顔をしかめてたたらを踏む。しかし手は外さない。

いくらかのやりとりの後にようやく決着はついた。覆い被さられ、押さえつけられた肉体は次第に動きを止め、ある時を境に脱力する。のしかかっていた男は、身体をゆっくりと離し、詰めていた息を荒っぽく吐いた。切れた唇を舌で拭えば、血の味がした。血の上った頭は熱く煮えていて、口から漏れ出る息は荒い。ビリビリくるような体験は久しぶりだった。それは血管を広げ、冷静だった思考を奪う。

欲望に根ざした情動を正しく行使している、という高揚。高揚なのだ、これは、おそらく。なにも滞りはない。そうだ。滞りはないのだ。全てが正しく行われているという納得が胸を満たしている。行為は今、正しく完了された。苦しげな『あえぎ』のなくなった今、ぶうん、と低い唸りだけが鼓膜を揺らしている。


細い肩はぐったりと力なくもたれる。それでいい。床に落ちた汗をハンカチで拭う。腹に靴跡のついた白衣を脱いで、多少身の回りを整えてから脱力した身体を抱え上げる。こうしていると大人しいのにな、と腕の中の女を見て思う。自分の元から逃がれようと、手足をばたつかせて抵抗をしていたのがまるで悪い冗談のようだ。殴られたところからは痛みが引いて、どこだったのかさえもうわからない。まぶたの降りた目元を覗けば、額から垂れた髪の一筋が顔を横切って、汗で濡れて張り付いている。そのことが唯一、それらの抵抗が事実起こっていたことの証明であるようだった。そしてそのことだって、すぐにわからなくなる。男が指で払ったからだ。髪ははらりと除けられて、青い顔があらわになる。ふっくりした鼻と白い額。じっとりと濡れた身体を、脱いだ上着で包んで隠す。腕の中で眠る女は未だ熱を持っている。男は己の肩で顔を拭うと、やれやれと息を吐き、その場を後にした。鍵は外され扉は開く。新しくて冷たい空気が重い扉の隙間から差し込んできて、僅かに残っていた熱も霧散して消えた。

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