第三章(完)

 それからすぐに五月の長期休暇に入った。栄太は足の調子を整えるため、という体裁で、普段よりかなり軽いメニューをこなした。

 それでかなり、足の痛みが引いた。

「栄太。すこし治ったからって、調子に乗ったらだめだぞ」

 休み明けのグラウンドで、遅れを取り戻そうと目を血走らせる栄太にくぎを刺すように、片田が言った。

「焦ったところで、何にもならないんだ」

「これが焦らずにいられるか」

 そう言い返したものの、しばらく練習の強度を下げていた栄太は、厳しいメニューをこなすのに手いっぱいであった。気持ちが空回りして、威勢のいい割に対したことがないな、と顧問に発破をかけられて、負けず嫌いの栄太はさらに気持ちを発奮させた。

 そうして少しずつ、心身のギアがかみ合ってきた。が、その頃合いにはあいにく、一学期の中間テストが控えていた。それに伴って陸上部も活動停止となったのだが、栄太は走り通す気力にあふれていた。

 実際栄太にとって、もはや学力試験の結果などはさして重要ではなかった。それよりも、大学のスカウトに対しアピールを重ねるために、いい練習をし、いいタイムをたたき出すことに血道を上げていた。

 学力のことを考えないで済むテスト期間は、爽快なものだった。皆部活停止している中で、一人で例のグラウンドを訪れ、走った。練習に付き合ってくれるであろう、宇佐には何も告げなかった。彼女は国立大学を受けると聞いた。勉強に精を出してもらわないと、栄太としても落ち着かない。

 それに――もしかすると、やはりテストだけでも優は受けに来るかもしれない。テストを機に心を入れ替えて、ふらりと学校を訪れるかもしれない。卒業の案件ぐらいは満たさなければ、優も将来が危ういだろう。そう言うほのかな期待もあった。

 そして、なにも起こらないままテストを受けては走り、半分白紙の答案の上に頭を伏せ、結局、優は一度も学校に来なかった。


「テスト、全然だめそうだったじゃん」

 最後のテストが終わった放課後、後ろのほうの席から、栄太は宇佐に声をかけられた。

「そうだな、今回すごく難しかったから仕方ないさ」

「いや、基礎ができていれば大体解ける問題ばっかりだったと思うけど?」

 宇佐が栄太の隣の席に座った。目の下にクマがあるのに気づいた栄太は、

「いや、あんな問題解けるなんて、勉強しすぎだろ……無理してない?」

「気を回してくれてうれしいんだけど、それはこっちのセリフ……どうせ練習してたんでしょ」

「まあ」

「今日教室入って来たとき、足引きずってなかった?」

「ちょっと、痛めたかもしれない」

 心配されるとなると、宇佐は余計なまでに気を遣うだろう、と思って、シンスプリントを隠していたのだった。

「顧問に言って、練習ゆるめてもらいな」

「そんなこと、できるわけないだろ」

 六月には県総体が始まるのだ。テスト明けから、いよいよギアを上げていく必要があった。

「怪我したら元も子もないんだよ?」

「大丈夫、これまで怪我をしたことなんてないんだから」

 事実そうではあるが、栄太にとってもはや今の状況で走りを止めてしまうことは非常に恐ろしいことだった。様々な懸念ごとの波から、逃げるように走っている現状だというのに。

「それよりも宇佐、今日から練習始まるんだよな」

「まあ、そうだけど」

「あんまり無理するなよ、目に見えて疲れてるから。勉強しすぎたんだろ?」

 こくり、とうなずきながら、怒ったように宇佐は、

「もう、なんで栄太はいつも自分より他人を優先しようとするの」

 そう言いながら、嬉しさに頬を緩ませていることに栄太は気づいた。

「そうかな――とにかく、気分が悪かったら休むことも考えて、な?」

 練習開始の時間が間近だった。宇佐は何か言おうとした。栄太は後ろ髪を引かれる思いもしながらその場を後にした。

 グラウンドで練習の準備をしていると、顧問の橋本が部員を集めた。話があるという。

「いよいよ三年は最期の県総体だ。テスト明け、第一本目の練習で、てらいのない、大会への思いが現れると思う。今日はそこへ望む姿勢を見せてくれ」

 そう言われて、多田はしきりにうなずいていた。けれど栄太にはそこまで考えて走る余裕もなかったし、そもそも普段から自然体で、特に強く気持ちを持ったりしたこともなかった。以前から何かにつけ、優に関して小言を言われている身だった。そのせいか、橋本の発破をかけるような言葉がやけにうるさく聞こえ、頭の隅に彼の顔と言葉がいやでも頭に浮かんだ。

 アップの四千メートル走で、明らかに走り方が変わっているような気がする。栄太は追いかけるようなレースが得意だった。トラック一周ごとのタイムがあまり変わらないタイプの走りをしていたし、駅伝では5区で最後に追い上げる走りをする。

 その感覚が、薄れている。号砲が鳴るまでの静寂、どうしても頭に抱えた様々な気持ちを振り払おうと、力の入ったスタートを切ってしまうのだった。

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恋人が学校に来ない 綾上すみ @ayagamisumi

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