第三章(4)

 何とかその週の練習を乗り切って、日曜日が来た。栄太は乗り気だったが、宇佐には自主練を休むよう言われていたので、当面毎週日曜日は完全な休養日とすることになった。

 それで栄太は優の家を訪れていた。

「大丈夫なの?」

「なんとでもなるよ」

 栄太は素直な気持ち半分に言った。事実、痛みは耐えられる程度のものだった。疲労性の怪我なのでもちろん酷使をすれば痛みは増す。それでも、走り続けたい気持ちが残りの半分だ。

「私がマッサージしてあげようか」

「……うん」

 優の心配そうなまなざしは素直に栄太を喜ばせた。最近てんでスキンシップを取っていなかったということから、優に避けられている気がしていた手前だ。

 優はてきぱきと床に毛布を敷いていく。

「はい、横になって」

 甘く栄太の耳朶に響く優の声に、やはり曇りはない。不器用ななけなしの勘も、優が生活に何か後ろめたいことがあるようには感じ取れない。

 疑問を口に出さないまま、栄太は身体を横にした。まず、筋肉をほぐすところからだ。看護師の母を持つからか、優は人体の知識が豊富で、的確に栄太の固い体をストレッチしていった。栄太の背中から肩を揉みながら優は、

「つらいこと、悩んでることとかない?」

 栄太はあまりに驚き、肩をびくつかせる。えみ子先生にも同じことを言われたばかりだ。

「えっ、そんなこと、ないよ」

「そんなにびっくりされて、説得力ないなー」

「悩んでいるように見えるかな」

「見えるよ。それが何なのか分からないけど。けがのせいで、立ち止まってしまうのが怖いの?」

 栄太の胸に腕が回される。

 構われたくない! それを――包み込むような優の感触を、肌触りを、しりぞけたくなった。もちろんそう感じたは一瞬のことで、甘い胸のうずきに若い栄太は身をゆだねてしばらくそのままでいた。

「大丈夫、大丈夫だからね……」

 胸は高鳴り、高揚する気持ちに身をゆだねていると、

「足が痛くて、えみ子先生のところに行った」

 栄太の頭に浮かんだのは、なぜだかえみ子先生のことだった。

「あ、会ったんだね。いい先生でしょ」

 優の声色が特に明るくなった。

「よく分からないな――優は好きみたいだけど、どういうところが?」

「うーん……いろいろあるけど、しいて言うなら、私のことをしっかり一人の人間として見てくれてるところかな」

 言っていることがよく分からず、栄太は曖昧に返事をした。

「私には思ってもみないことだった。私のことを理解してくれている人は、学校にはえみ子先生しかいないんじゃないかな。中学の時から、私は先生たちを信頼していなかったよ」

 思えばそう、中学校の時に彼女は言っていた。私ってなんで勉強しているんだろう、と。その話をしたときの、憂いのような焦りのような表情を栄太は思い浮かべていた。

「俺もそうだよ。あの事件があっても、何の手助けもしてくれなかったし」

「うん、それもある」

 優はそう、ぽつりと言って、栄太のストレッチに戻った。それも、と言ったが、その後の言葉をいくら待っても、優は口にしなかった。栄太は尋ねるが、なんのこと? と知らぬ顔をした。

 そうしているうち偏平の足のツボを、これでもかと言うほど強く押されて、栄太は悲鳴を上げた。

「シンスプリント、偏平足の人はなりやすいって。私知ってたのに、何も対策できなくてごめんね」

「そんな、優のせいなんかじゃひとつもないよ」

「ううん、私が知ってることは、栄太が走り続けるために使わなきゃいけなかったんだよ」

 そう言われて、また栄太の胸には優に抱く空恐ろしさが去来した。その原因に、栄太は気づき始めていた。

「なんで――」

 ――なぜ自分は、優の包容力に身をゆだねなければならないのか。そんな包容は、いったいどんな根拠でもって安らぎを自分に与えるのか。恋人、ほかならぬ優と一緒に過ごせて心地よい気分になるのは否定できないが、それにしても、なぜ自分は優に甘える立場にあるのか。

 栄太自身の自尊心からくる情けなさではあった。優を助けてあげなければ、そう言う思いが空回りしている感覚にとらわれ、栄太は言いかけた言葉を飲み込んでしまう。


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