第三章(1)

 休み明け、宇佐に朝のホームルーム前にいきなり肩をたたかれた。

「昨日は楽しかったんでしょ」

「まあな……宇佐には関係ないよ」

「確かにそうかもねー……」

 宇佐は栄太が週末うまくいかなかったことを、顔を見た瞬間悟っていた。それで、これ以上口を挟むことをしなかったのだが、授業中ぼんやりと天井など見上げる栄太を見て、ひとりくすくすと笑う程度にして、荒んだ栄太の心に付け込もうという気持ちの湧き上がるのを抑えていた。

 その日の昼から急激に雨が降った。昨日一日をオフにしたので、体がなまっていることは承知の上で栄太は練習に励んだ。思った以上の体の重さに、栄太はうんざりする思いだった。

 ぬかるみに足を取られながら火曜、そして水曜と走ったが、走りの調子を崩してしまっている。

「栄太、終盤フォーム崩れてない?」

 水曜日の放課後、同じく部活帰りにたまたま一緒になった宇佐に言われた。

「マネージャーも気づかないこと、よくわかるな」

「何言ってんの、私は栄太の専属マネージャーですけど」

「何言ってるんだ、宇佐はバスケ部のキャプテンだろうが」

「どこにキャプテンとマネージャーを兼任しちゃいけない決まりがあるんですか?」

 そんな風に言って、おどけたように宇佐は笑った。

 心の迷いが、走りに影響を与えていることは明らかだった。ビルドアップ走など苦しいメニューをやるとき、なんとか心に褒美を与えようと考える対象から、優がいなくなった。

 大きな優の心の、足元しか見えないようで。そしてそれは、こちらに踵を向けている――そんな空想が栄太の頭をもたげていた。集中に沈み込むことのできない足運びは遅く、それが走る姿勢にすら影響していた。

「さぁて、じゃあ特訓しますか」

「遠慮しとく」

「あれー? つれないなぁ」

 栄太は足に違和感を覚えていた。まるですねの骨が痛むような感覚が、土を踏みしめるたびにあった。

 シンスプリント――去年、それに苦しんでいた先輩が、ついに最後の大会に出られなかった姿を栄太は見ていた。もともと体が丈夫な先輩で、よくストレッチなどで気をかけてくれていた。個人のコンディション管理にも抜かりがなかったはずだったが、それくらい気をつけていても、けがはするものだと心に留め置いた。

「調子が悪い時に無理をしたって、いいことはないんだよ」

「ふうん……」

「だからお前も、根詰めすぎないようにしなよ」

 栄太は宇佐の膝に、何重にも巻かれてあるテーピングを見ながら言った。

「愚直であんまり周り見てなさそうな感じだけど、そういうところ、ほんとよく見てるよね、うっとうしいくらい」

「ほっとけよ」

「……バスケ部、今年は県大会止まりかもしれない」

 宇佐が珍しく寂しそうに、鼻の下に手を当てた。

「そうか……」

 校門を出て、バス停までの道のりを二人で歩きはじめた。冬に戻ったかと言うような冷たい風が、たまに吹く。

「一人一人には技術があるんだけど、うまくまとまってくれないんだよね。その点個人競技と違って難しいところだよね」

「やっぱり、人間って関わり合いの生き物だからな」

「またじじくさいこと言う」

 関係について考えて、ふと、栄太は気になった。明確に思考を言語化できていたわけではないが、宇佐といるときに彼女に関係している自分が、非常に大人びているように感じており、それは他の誰といるときとも違うのだった。そして、その対極に位置するのが、優だという気がした。

 優の心の場所が、栄太からは本当に遠くに感じていた。それでもそれは、栄太に取ってとても魅力的だった。苦しくとも、追いかけたくなる程度に。しかしそれも、最近では意識下から外そうとしているのだった。

「宇佐、珍しく悩んでるのか」

 珍しくってなによ、とわき腹を小突きながら、

「うん、もちろんちょっと、キャプテンとして、統率が取れてないことには責任感じちゃうよね」

 栄太は普段の恩を、かねてから返しそこていると感じていたところだった。

「じゃあ、どこかで話していくか」

「え? ……悪いよ」

「二人きりが気まずいって言うなら、ちょうどいいぞ」

 校門を出たあたりから、栄太は後ろから二人の様子をうかがっている、片田の様子に気がついていた。片田の方を振り向くと、

「ばれちゃった?」

 と、わざとらしく頭に手を置いて近づいてくる。栄太はそんな片田のすねを、宇佐に分からないように蹴った。

「話は聞いてたんだろ。同じキャプテンとして、何かアドバイスをしてやってくれないか」

「まあ、そのつもりじゃなかったら素通りするよね」

 片田が宇佐に会釈をして見せるのに栄太は気づいた。部長会議でよく話をしていく仲で、様々な面で意気投合をしているらしい。特に栄太のトレーニング面を支えていることを知って、片田もまた、宇佐に恩義を感じていたのだった。

「例の運動公園でいいんじゃないか」

 片田の提案に栄太と宇佐はうなずいた。十数分かけて歩いているうちに体が温まってきて、栄太には春の冷たい風が心地よく感じた。こうして三人で歩くのも、二年生ぶりであった。

 公園で夕陽を浴びてはしゃぐ子供たちを見ながら、三人はベンチに座って暖かい飲み物を飲んだ。こうしていると、高校に入ってからずいぶんと老け込んでしまった気がする。しかしそれを周りに言うのははばかられた。

「おじいちゃんと片田くん、私は率直に言って、キャプテンの器じゃないんだと思うの」

 冗談交じりではあるが、一言を絞り出すのが苦しそうだった。

「その様子だと、部長にはしぶしぶ?」

 片田の声に、宇佐はこくりとうなずいてすぐペットボトルに口をつけた。あの顧問が、と栄太は坂井(さかい)先生のことを頭に浮かべた。何を考えているのか、よくわからない人だ。

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