第二章(完)

 優のほうを見つめ続けているようだったので、怪訝な顔をされた。目をそらしながら、栄太はこれから事実を伝えなければいけないことが億劫になって、あの後ろめたい気持ちに再び心を侵されていく。

「おいしい、おいしいねこれ」

 注文の生姜焼き定食を頬張る優が、途端に子供じみて見えはじめる。

 食べ終えると、案外時間が経っていた。レジ前に立ち、財布を出そうとしたところ、優は手で制して、

「私が払うよ」

「なんで」

「私のほうがお金持ってるもん」

「そんなの分からないだろ」

「私、バイトしてるからさ、ここみたいな、定食屋さんで」

 初耳のことで、栄太は一瞬茫然とし、その間に会計が済まされた。

「ほら、今度は私の生きたいカフェに付き合ってね」

 優に道案内をされる番だった。店を出て、さらに栄えている方向へと歩いていく。

 アルバイトをしていることを栄太に隠していたという事実が、気がかりではある。しかし、詮索をすることも野暮な気がしていた。高校生の歳だ、アルバイトをしていても当然という気持ちもある。さらに、彼女の家庭の経済状況というのもある。黙って歩いた。

 ただ、それを今まで自分に隠されていたことが、釈然としない。アルバイト禁止の進学校に通う栄太は、社会に自分で出ていくということを、やはり遠くに感じていたのだった。それは、当たり前のことかもしれない。栄太はついに黙っていた。

 しかし自尊心があった。栄太は、自分の進路を話すことについて、なかば意地めいた感覚から、口に出すことを決めた。

 喫茶店に入り、流行りの飲み物だという品を席に持っていったのち、すぐに、

「俺な」

 と切り出した。緊張で声はかすれていた。

「急に何?」

 覚悟を決めるために、手を握りしめる。涼平にもう少し時間をつぶしていてほしい、と連絡を入れた。

「東京の大学に行く。推薦を受けてみないか、と大学関係の人に声をかけられているんだって、橋本に聞いた」

 夜にメッセージがあった翌日、橋本に直接返事をした。推薦で来てほしいという大学は、もちろん栄太の志望校ではなかったし、そもそも地元にいるつもりだったので考えもしなかった。しかし、向こうから申し出があるのであれば、自然と愛着はわいた。

 優は飲み物に少しずつ口をつけながら聞いていた。

「その人は、去年の秋の新人大会を見て、面白い選手がいる、と思ってくれたんだって。タイムこそ振るわなかったけど、いい走りができたという自覚はあったんだよな」

「そうなんだ? 結構遅かったように思えるけど」

 確かに優も、栄太の走りを応援しに来てくれていたのを覚えている。

「うるさいな。あの走りがあったから、今タイムが伸びてるの――とにかく、秋の大会の後も、俺のことを目にとめてくれていたみたいで。しっかり俺のことを見てくれている人のところに、行きたいと思った」

 優に伝えるまでは尻込みしていたが、言い終えるころには、栄太は自然と胸を張っていた。田舎から、全国区へ――という感覚が、一気に視界が開けるようで爽快だった。自分はようやく、何者かになれる――

 栄太が前に進む決断をしたということで、優に衝撃を与えたはずだった。

「そうなんだ。やったじゃん」

 沈黙が破られるまでは栄太の存外早かった。

「だから、俺は東京に行くんだ」

「すごいね栄太、東京の人になるんだね。たまに帰ってきてお土産いっぱい頂戴ね」

「う、うん」

 むしろ栄太のほうがどもってしまう。将来を見据えた話をした、考えていた、そのことに優が衝撃を受けるものと栄太の心は考えていたのだが、優の許容能力はそれに勝っていた。

「ずっと走り続けてたもんね……栄太は。辛い時も、諦めず練習に打ち込んできたからだよ。見てくれる人がいたって、すごく幸せなことだよ。大事な縁だから、大切にね……飲み物減ってないよ」

 栄太のアイスココアを指さして、にこやかに言う。せかしているわけではないだろうが、なんとなく居心地が悪い。一気に五分の一ほどを飲み、

「そうだな……でももうちょっと、驚くかと思った」

「驚いてるよ、当たり前じゃん。でも、言ったって仕方ないでしょ。栄太はやるって決めたこと、今まで一度もやり抜かなかったことがないもん」

「それはそうか」

「ちょっと、寂しいけどね。私に何も相談してくれなかったこと」

「それは……ごめんな」

 栄太に取って、優への相談とは野暮だった。初めから決まっていることを相談して意見が左右されるとは思わなかったが、確かに大事なことではあって、恋人に話だけでも知らせるのは当然のことかもしれなかった。

 そこでスマホが鳴った。見ると涼平から連絡が入っている。

「そろそろ時間だけど、どうする? だって」

「行こっか」

 栄太もうなずいた。この場でずっといるような気分ではなかった。何か形容しがたいもやもやが、肌を撫で、倦怠感を覚えさせた。

 カフェを出て水族館の駐車場に行くと、すでに涼平の車が止まっていた。涼平は相変わらず感情をおもてに出さないでスマートフォンをいじっていた。栄太は無言で助手席に乗り込んだ。後部座席に乗り込んだ優を見て、涼平は少しぼんやりとしていたが、やがて車を発進させた。

 帰りの車内でもまた、優はさすがの寝つきの良さで、すやすやと眠っていた。栄太もうとうとしていたが、なぜか眠れなかった。たまに後部座席を覗いて、やや大人びてきた輪郭を目でなぞって時間をつぶした。

 優を家まで送った後、珍しく涼平が口をきいた。

「また遊ぶ時があったら、言ってくれな」

「うん、ありがとう」

「……次は優ちゃんに、あんな寂しそうな顔をさせないようにしなよ」

 栄太に向けて、微妙なため息をつきながら言った。その瞬間栄太は、昔かけられたあの言葉を思い出した。

 ――離れないで、ずっと一緒にいて。

 確かにそう聞いた。優を見くびっていた申し訳なさと同時に、どことない違和感に肌がざわついた。その感情に名前を付けることは、栄太にはついにできなかった。

 その日帰ってのち、栄太は予定していた夜のランニングを休んだ。

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