第二章(3)

 日曜日の朝に眠っていた兄を無理やり起こし、栄太は支度をした。兄は寝間着のダボダボしたズボンを着替えないまま、運転をするつもりらしい。別にそれでもかまわないが、少しは気を遣ったらどうか、と思うこともある。一年留年してちょうど三月に大学を卒業したのだが、就活に失敗して、家にずっといるのだった。以前から無口なのはそうだが、彼の中身を読むことが難しかった。

 はじめは二人で行くと言っていたのだが、涼平は涼平で用事があるらしく、優の姿も見たいとのことだった。恋愛云々と干渉されるのであれば嫌だが、兄の性格上そうでもないとは分かり切っていたので、言葉に甘えることにしたのだった。

 無言で運転席に座る涼平。その顔に、小さなころ、自分の絵についてほめてくれた頃の、人懐こい笑顔を思い返して張り付けて見ようと試みる栄太の様子など全く意に介さず、涼平が車を発進させる。少しだけ、しかし決定的に何かが変わったのだ、就活は恐ろしいものだ、と栄太は考えた。

 優の家までの山道を車に揺られながら、しかしそれも目前に迫ったことではあると感じた。あっという間だ。高校に入って、もう一年がたつ。このペースで行くなら、大学を出て卒業するまでなど、走るときのギャラリーのごとく一瞬で通りすぎてしまう。

 そして、栄太はその群衆の中の一人として、優を置いていくだけの覚悟は、まだできていない。ただ、彼はその決断を、いずれしなければならないと知っている。

 家を訪れると、もう玄関先に彼女は立っていた。

「失礼します……なんで栄太助手席にいるの、後ろおいでよ」

「兄貴の手前……はずいから」

 気になどしないのだろうし、後でからかってくることもないと分かっていたが、不服そうに後部座席のシートに音を立てて座る優は、それ以上何も言ってこなかった。特にこだわりがあるわけでもないらしい。

 優を乗せた車はそのまま、県内の都市部に向かう峠に差し掛かった。ぐねぐねとした下り道にトンネルと、退屈な景色が続いたので、優の眠気を誘ったようだった。後ろを振り返ると、彼女がすう、と寝息を立てるのが聞こえるようだった。優はいつも、眠るとき左に傾く――

 てざわりのある緊張があった。優と付き合い続けている、その事実が身の底をじわりと震わすようで、不安など吹き飛んでしまう。まっすぐな性格の栄太は、その場の感情を味わうことばかりが得意で、想いをいったん棚上げすることは不得手だ。

 車が都市部に入り、水族館に進んでいく。優も目を開けていて、心なしか瞳が輝いて見えた。

 その建物の都会的な屹立ぶりに圧倒されながら、栄太は涼平に別れを告げた。ガラス張りの入り口からのぞくほのかに暗いエントランスに、気押される。栄太は尻のあたりがそわそわしだしたときに、左肩をちょんとつつかれた。

「初めて都会に来た子供じゃないんだから。早く入ろ」

「す、水族館は初めて」

 うそ、と大げさに口元を覆って見せ、馬鹿にしたようなにやにや笑いを栄太に向けている。嫌ではない。

「じゃあ、私が色々教えてあげるね」


 水族館の水槽を離れるころには栄太は腹がすいていた。お昼どきというのもあったが、優が展示されている魚についていちいち注釈を入れたからだった。曰く、あの魚は食べるとおいしい、とか、こっちはあんまりおいしくない、とか、これは珍しい、市場に出ていたらすぐ売れるやつ、などと。

「なんでそんなに食い意地が張ってるんだよ」

「張ってないです!」

 栄太がなおもじっと目を見つめていると、

「だっておなかすいたんだもん」

 目を伏せて優が言うのでいじらしかった。栄太は自分も腹が減っている、と言い、目玉のイルカショーを置いて外に何か食べに行くことにした。

「あれも食べられるのに」

 と名残惜しそうに優が言うので、栄太は珍しく大きな笑い声を上げながら、栄太はあらかじめ調べておいた洋食屋へと足を向ける。歩いて数分ほどの距離を、二人は手をつないで歩いた。優と近い距離でずっといたせいで、ずっと緊張して熱を持っている手には、ちょうどよく冷えている優の手が心地よかった。

 注文を取られ、二人で品を待つ間に、優はぽつりとつぶやいた。

「栄太の手、あったかくて好きなんだよね」

 照れくさくて頭を掻く栄太は、

「なんで?」

 気の利かない質問を返すしかなかった。なんでだろう、と考えながら、それが結論と言うわけでもないように優は、

「あの時なのかなあ、って思う。やっぱり私の脚を揉んでくれた感触、まだ覚えてるよ」

 優が石井たちに連れられ、カラオケで遊んでいたときのことだが、栄太の脳内でもちろんその答えを返される予感はあった。

「うん、確かにした」

「そんなに詳しくは覚えてないんだけど」

 栄太は曖昧にうなずく。

「大したことをしていないような気がする」

「まさか。私はあの時のこと、まだ寝る前にたまに思い出すよ。それでも私の中には残ってるんだから、私の中では大事な思い出」

「あ、ありがとうな」

 栄太は胸をなでおろす反面複雑な思いに駆られた。辛い思いでもあったろう。昔の想いをいまだに思い返してくれていることがなんだか嬉しくもある。

 しかし、優はそこから変わらないのだ。

 あの何もかも眩しく見えるような過去を、昔のことと見ることができていないのではないか。その思いは栄太にとって、ふたりの見えている世界に隔たりがある錯覚をさせるのに充分だった。優はあの日以来変わってしまった、ずっと、そう思っていたが違った。自分だけが前に進んでいるのだった。

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