第三章(2)

「みんなの前で、私が部長をやれって言って。それまで次のキャプテンが誰か決めかねてたのに、先生の声があった瞬間に、みんなが適任だって、押し付けるんだよね。それで仕方なくやってるだけ」

 野球のボールがこちらに転がってきた。栄太は、走ってきて帽子を取る小学生ぐらいの子供に向かってそれを投げたが、送球はそれて、子供は真逆の方向へ再び走っていった。

「ノーコン」

 けらけらと笑う宇佐。栄太はどうあれ、宇佐の険しい眉間のしわを取り除けたことで一安心した。

「それに私、国立大受けるつもりだから勉強も集中しなきゃいけないし。正直言って部活もやめたい。でも、みんな個人の力は持っているから、大会でいい成績を出したいとは言ってて、もう頭の中ぐちゃぐちゃ」

 三年次に上がってすぐの実力テストで、宇佐は確かにいい成績を出せていた。

 苦しさが、様々な方向からやってくることの苦しさ。走りの不調、優との距離感。そもそも、彼氏としては優が学校に来ないことに、責任めいたものを感じていた。栄太は自らが置かれた立場から、例え類似するところが小さいにしても、共感した。

「栄太はいいよね、スポーツ推薦、受けられそうなんだって」

「そうだな……栄太は本当に頑張って来たからな」

 片田も栄太の目を見て言った。それは確かに、将来にある事実ではあった。けれど、その栄光に向かって、現在を楽しく過ごそうという気にはなれずにいた。それでも、俺だって悩んでいる、だなどと言える雰囲気でもなく、栄太は、

「俺だって驚いてるよ、まさかこんな田舎にまで、スカウトの人が来てくれるなんてな。俺の実力を見に来てくれるのは、素直に嬉しいよ」

「すごいけど、誰のおかげだろうね」

 片田が少したしなめるような口調で言った。栄太は無言で宇佐のほうを向く。その発言は、会話の中心が宇佐に戻るいいきっかけになった。

「感謝してる」

「えっへん」

 胸を張って見せる宇佐の仕草がしらじらしいが、

「いや、栄太は本当に感謝するべきだと思う。俺からも礼を言わせてもらいたいくらいだ」

 片田は合わせて言った。続けて、

「結論を言えば、単純に向き不向きと言うだけの話なんだよね。馬があうかあわないか、とも言い換えられる。単純に、宇佐のやり方と、バスケ部の皆のやり方があっていないだけだ……能力不足だなんて考えなくてもいいと思う」

「うん……ありがとう」

「突進するしか能のない暴れ馬のならし方をよく知っている、俺にも教えてもらいたいくらいだ」

 珍しい片田の冗談に、宇佐はくすりと笑った。栄太はなんとなく、発言をしなければならないという気になっていた。

「俺もそう思う、実際俺へのコーチングは的確だったから……」

 それでそんなことがぽつりと出た。言外に何かほのめかす意図はなかったのだが、宇佐が唇をなめて神妙な顔をしているのを見てはっとした。

 確かに栄太の心は把握しづらい優の心を遠ざけようとしていた。かといって、宇佐に期待を持たせたいわけではないという確信が、栄太の頭にひらめいていた。


 片田は手を振って帰った。栄太は宇佐の想いに気づいているからこそ、片田とともにその場を離れるわけにはいかなかった。根は誠実な栄太である。

「勘違いをされるのは、その、困るから言っておくけど、まだ続いているからな、優とは」

「本当に困る? 勘違いしちゃうよ、あんなこと言われたら」

 宇佐の切なる思いには、栄太の胸にしみいるだけの重みがあった。高二の夏、三年生が引退してのち、毎日自主練習に付き添ってくれたのは、ほかでもない、宇佐だった。雨の日だろうと寒い日だろうと、下校時刻を過ぎたのち、近くの大きな公園で走る栄太にずっと付き添ってタイムの計測などをしていたのだった。

「そうだ、困る」

「優ちゃんのことを悪く言うわけじゃないけど……なんとなくだけど、優ちゃんは一人でやっていくのが似合っている気がするな」

 そのようなことを言われると、宇佐の願望が手に取るようにわかった。もちろん宇佐も、分かるように話しているに違いない。

「あれでも結構寂しがり屋なんだ、優は」

 俺がいないとダメなんだ、そこまで断言してしまいたかった。心の枷が、栄太にそうさせなかった。

 不意に、頭をくしゃくしゃと掻きむしりたくなる衝動に襲われ、栄太は近くの石ころを思い切り蹴った。どうしてこんなことで悩まされなければならないのだろうという思いの発露だった。お互いに大事な時期だ、高校生最後の大会に向けてひたむきに打ち込まなければならない時期だ、それを、実りもしない相手の片思いなどに振り回されていてはいけない。

 しかし神経の太い栄太にしても、抱えるものが多すぎた……足の不安、優との関係、宇佐の恋情……それらをすべて同時に処理することは、難しかった。

「暗くなって来たから、帰ろう」

「――私、もうちょっとここにいたいな」

「寒くて風邪ひいたら仕方ないだろ、ほら帰るぞ」

 宇佐はしぶしぶうなずいたが、栄太も心中すっきりしているわけではなかった。彼女の悩みに寄り添わなければ、と思うだけの恩義は感じている。しかし、栄太はその場を後にせざるを得なかった。

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