第26話 神田乃武の話

司会二人の紹介→https://kakuyomu.jp/works/1177354054892641004/episodes/1177354054892641022


伊東巳代治「2年ぶりくらいに呼び出されたと思ったら……急に乃武ないぶ君の話をしろって……何事?」

金子堅太郎「ドラマに神田乃武かんだないぶくんが出るかららしいよ。巳代治以上に適任はいないでしょ?」

伊東巳代治「まぁね。それじゃ、乃武君と僕の関係から始めようか」


巳代治「乃武君は洋学者・政治家の神田孝平かんだたかひらさんの養子なんだ。僕は神戸の英字新聞で働いていた時に、神田さんに招かれて官吏になり、その後も神田さんが明治31年に亡くなるまで関係は続いた」

堅太郎「巳代治と乃武君は同い年だっけ」

巳代治「うん、同じ1857年(安政4年)。乃武君が3月、僕が5月生まれ。安政の大獄の前年だね。1868年(明治元年)の11歳の時に乃武君は神田さんの養子になったんだ。知的な美少年だったそうだよ」


堅太郎「共に神田孝平さんに面倒を見てもらった、ちょっと兄弟っぽい関係ってところか」

巳代治「そうだね。神田さんのお葬式の新聞告知には乃武君と僕の名前が並んでるくらいだからね」


巳代治「乃武君は能楽師・松井永世の次男で、生まれは江戸築地でした。松井家は能触頭のうふれがしらという能役者の取締役をする由緒正しい家柄で、乃武君も金春流宗家の養子になる話もあったそうで、乃武君自身が“僕が小さい頃、金春家に養子に行ってたら、今頃は、檜舞台で能装束をつけて、紅葉狩でも演っているところだったろう”言ってます」

堅太郎「それがまったく違う洋学者の養子に。どこで出会ったの?」

巳代治「神田さんが開成所の先生をしてた時に、乃武君兄弟に西洋数学を教えていて、その秀才ぶりが目に留まったそうだよ。神田さんは乃武君のお兄さんのほうを養子にしたかったらしいけど、嫡男だからと断られて、次男の乃武君が養子になったみたい」


堅太郎「乃武君が明治元年に神田さんの養子になって、1871年(明治4年)に森有礼さんに従ってアメリカ留学しちゃうとなると……巳代治とは少年時代はすれ違い?」

巳代治「そうだね。乃武君がアメリカに行ったのが明治4年、神田孝平さんが兵庫県令になったのも明治4年、僕が兵庫県訳官になったのは1873年(明治6年)だから、すれ違いだ。僕は神田さんの通訳兼書生みたいな感じになって、神田さんと一緒に過ごしたけど、神田さんが僕を可愛がってくれたのは、養子の乃武君が留学に行っちゃって寂しかったからじゃないかって書く本もあるね」


堅太郎「乃武君の留学先はアーモスト大学だから、僕が行ったハーバードと同じマサチューセッツ州だね。100マイルくらい離れてるから、大阪から大垣、東京から軽井沢くらい離れてるけど」

巳代治「アーモストは新島襄さんや内村鑑三の行った大学だね。乃武君は明治4年2月にサンフランシスコ入りして、明治12年の年の瀬に帰国するから、8年強、14歳から22歳まで留学していたことになります。その間、森有礼さんが乃武君の保護者みたいなものでした」


巳代治「よくある話だけど、乃武君も帰国後は日本語を忘れちゃって、英語で話してたんだよね。だから義弟さんが通訳してた」

堅太郎「僕は同じくらいの期間、アメリカ留学しても、そんなに日本語忘れなかったけど……」

巳代治「金子君は團琢磨君と共に黒田長知公の付き添いって形で交流があったし、小村寿太郎と暮らしたり、他の日本人留学生と話すことがあったけど、乃武君は森有礼さんの意向で、日本人から出来るだけ離して、アメリカ人の中でだけ暮らさせる、って方針だったらしいからね。神田さんから日記も英語で書けと言いつけられていたみたいだし。帰国後に日本語の学び直しもしてたから、日本語は話せたけど、手紙はずっと英語で書いてきてたよ」


堅太郎「学生時代を海外で過ごしちゃうと、言語だけじゃなく、その後の感覚修正が大変だから乃武君も苦労したろうね。帰国して仕事がなく、日本にも馴染めなくて自裁しちゃった人もいるし……」

巳代治「懐かしの日本! と思って戻ったけど、故郷の友達とも親兄弟とも感覚が違くなって居場所がないって人は結構いたよね。でも、乃武君は帰国後に希望通りに教職に就いて、そのまま英学者として人生を送ったから幸せだったと思う」


堅太郎「教職と言えば、乃武君は夏目漱石や正岡子規の先生でもあるんだよね」

巳代治「うん。夏目漱石とは縁が深かったみたいで、仕事の斡旋をしたり、神田乃武は夏目漱石の恩師、って書かれることもあるね」


巳代治「乃武君の英語力はすごかったよ。明治前半の新聞では『英文学者三傑』なんて言われていたからね。今の東京外国語大学の初代校長も乃武君だ。大山捨松女史も手紙で“梅子を除けば彼(乃武君)が私の知っている限り、一番、英語が上手だと思います”って書いてるしね」

堅太郎「英語教科書とか英語辞書とか、日本の英語教育界ではすごい活躍した人だからね」

巳代治「後は東京YMCAやローマ字学会の創設とかね」


堅太郎「帰国後の家族関係はどんな感じだった?」

巳代治「明治17年に高木熊千代さんと結婚して、18年には長男の金樹君が生まれたよ。熊千代さんは、佐賀の高木秀臣さんの娘さんで、高木秀臣さんはかつて、蟄居中の江藤新平さんを世話してたことがあって。高木さんは明治6年に文部省、7年に司法省にいたから井上毅さんは知ってそうな気がするよ」

堅太郎「お子さん、もっと多かったよね?」

巳代治「うん。聖書学者の神田盾夫氏は乃武君の四男、政治学者の高木八尺は次男って感じで、みんなそれぞれ学者さんとして活躍してるね」


堅太郎「そこそこ長くなったね」

巳代治「これ書いてる人間は、あくまで僕越しに神田孝平さんと、その養子である乃武君を知っているだけなので、詳しくは東京外国語大学の研究とか、一橋大学学園史資料室にある神田乃武文庫の資料とか見てくださいね。ではでは終わりー」



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明治雑記帳 井上みなと @inoueminato

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