薄井さん

 自宅に帰ると家内はいなかった。手芸教室にでも行っているのだろう。昨日聞き出したところ一人娘の恵子は学生時代の友人とかと会いに行っているらしい。社会人になってからも実家にいることが気にならないでもなかったが、それを追究することはしていない。


 することがなかったので、俺はイメージトレーニングに勤しんだ。より詳細に職場を想像し、イメージを固めてゆく。その想像は吉沢さんとの愛の日々に容易に繋がったが、その地続きの道上の歩みを急いてはならぬと、俺は地道な、臆病ともいえるような、ゆったりとした足取りを心掛けた。


 思えばこういった心臓の高鳴りは久しぶりだった。一つの目標に向かって達成の為に必要な要素を逆算して導き出し、それらの要素を最も短時間で完遂する為の段取りの組み立てを脳内で行い、シミュレーションしてメンタルリハーサルをして実行に移し、結果と状況によって微調整するという取り組みは仕事をする上でしょっちゅう行っていたが、それも慣れていつからか単調作業になっていた。新しい目的とそれに付随する新しい必要な要素を手に入れた俺は高揚していた。


 特に会話がない、テレビの音だけがこだます夕飯時を越えると、リビングで談笑する家内と娘の声を聞きながら俺はまたイメージトレーニングをした。

その夜、寝息を立てる家内と対照的に俺は興奮で中々寝付けなかった。


 

 翌朝、重い体と対照的に鋭く尖った神経を引っ提げて、俺は職場に向かった。エレベーターの中で俺は例のマスコットをイメージした。


 職場は、大小様々なトラブルが起こっていることを含めていつも通りの時間が流れていた。当然のこととして同僚たちは俺を「いつも通りの俺」として認識していた。


 昨日、娘たちが帰って来る前に急いで折り目を付けて少々解れさせていた特別な日にしか着ない高級なスーツに袖を通した俺は周囲から視線を感じる度に喜びを感じた。その眼は特別なものではなかったが、俺の愛想のよい対応は自然と相手の笑顔を引き出した。そうした時に初めて俺はいつもの自分がいかに眉間を皺を寄せていたかに気が付いた。


 他にも平生の自分の振る舞いを返り見る機会はあった。例えばくしゃみをしようとした時、いつも周囲への迷惑よりも大きな破裂音を立ててする方の気持ちが良さが平気で越えていたが、それを猛省した。俺はティッシュうで口と鼻を抑えて押し殺すようにくしゃみをするように努め、「ごめん」と一言付け加えることも忘れなかった。


 普段より長く感じた午前を終えて飯時に入った。食堂に入ると、いつも通り中央の方で女性社員たちが大声で談笑しながら箸を口に運んでいる。いつもであれば「仕事もきちんとしない癖に」と舌打ちをしたい気持ちにもなっていただろうが、今日の俺は違った。寧ろ「元気で言いねぇ」という好意的な感情が溢れていた。そしてそれを本人たちに直接伝えに輪に入ることもしなかった。「ガ、ガツガツしない」。大人の余裕を持つように。会社に着いてから何度も職員が俺に注意していた。


 その職員からの声の影響によって、飯を食べる場所とメンバーはいつもと変えなかった。ただ向かいに座った田中との愚痴合戦は、今日だけは一方的なものになった。


「何か今日機嫌良いな。キャバクラで良い娘でも見つけたか?」


 田中に茶化されたが俺は笑って受け流した。そして田中はそれを怪訝に思っている様子も無かった。


午後の勤務が始まった。我ながら良い調子だと思っていると、吉沢さんがお茶出しついでに話しかけて来た。


「今日はご機嫌ですね」


 飛び上がりたい程嬉しかったが、「まあね、ありがとう」とだけ返した。しかし嬉しい誤算だったが吉沢さんは中々その場を離れず、


「その理由を教えてくださいよ」


 と悪戯っぽい可愛らしい笑顔で追撃して来る。抑えねばならないとは分かっていたが、歯痒い想いがした。青春時代の自分であったら食事に誘う様な反応である。黄色い熊の赤ちゃんはそんなことしないと、「やめてよ~」と精一杯の我慢をしながら言うと、


「後でこっそり教えてくださいね」


 吉沢さんの息が耳に当たった。奥歯がギリギリと鳴った。自分に背を向けて去って行く吉沢さんの背中を名残惜しく見ることだけは自分に許した。


「当たって砕けろ」というのが、若い時分に自分によく言い聞かせていた言葉だった。俺は鬱積した感情をどこかにぶっつけたくて仕方がなくなった。「ガ、ガツガツしない」にも限界がある。


 職員から言われた秘訣を大義名分に俺は薄井さんにマスコットのままガツガツと声をかけることにした。薄井さんは、言い方は悪いが所謂「窓際族」の初老の男であり、会社から孤立している。俺を悪く思ったからといって悪評を広める心配もないし、もし広めたとしても、同僚たちは俺の味方となり薄井さんを糾弾するだろう。


「薄井さんお疲れ様です」


 おどおどとした視線が帰って来る。


「こんなこと他の誰かに頼めないので薄井さんにお願いしたいんですけど」と続けると、更に相手が強張ったのが分かった。少し演技っぽい喋り方となってしまったのがそれに拍車をかけたのかも知れない。早く要件を伝えなければと、


「薄井さん、『可愛いおじさんセミナー』って知ってますか?」


 と伝えると、薄井さんの表情が変わった。どうやらその名前を聞いたことあるようだ。「知ってるんですね?」と追究すると、頬を赤らめながらも薄井さんは「聞いたことだけは・・・」と頷いた。勝機を感じた俺は、


「私もこの前参加したんですけど、かなり良かったですよ。分かり易くてかなり実践的、なにより無料なんです」

「そうですか・・・」

「胡散臭いと思ってるんでしょう?おかしな商品でも買わされるんじゃないかって。私も初めは同じでした。元々そういった胡散臭いところには足を踏み入れるものかと思ったんですが、物は試しということで行ったのです。何なら気分は物見遊山で、突けそうな矛盾点があったら指摘して鼻を明かしてやろうとも思っていたくらいです。でも非常に楽しい環境で、サークルみたいな感覚でした」


 私はさらに、「次はまた一週間後の日曜日にあるんですが、ここだけの話・・・」と言いながら小声で続けた。


「知り合いを連れて行くとより次回の講習で学ぶ内容の実践性が高まるという話を職員の方から伺ったんですよ。良かったら一緒にいかがですか?私結構職員の方とコミュニケーション取っていて、そうゆう秘訣とかも教えてもらえるんですよ」


 実際はそこまで密に話したわけではないが、特典を付けた方が誘い出し易いと判断してそう言った。薄井さんは戸惑っていたが、それは完全な拒絶ではなかった。その隙間に


「他の同僚に頼んでも良かったのですが、恥ずかしくって、薄井さんお願いします!」


 ここはあえて大きな声を出した。


「考えておきます・・・」


 頭は上げなかった。ここからは我慢比べだ。周囲の視線が多く太くなってゆく。


 少しざわつき始めてからようやく薄井さんは了解してくれた。俺は強く薄井さんの手を握りながらも、同僚たちへの言い訳を考え始めていた。また周囲の反応から、このような営業活動はガツガツ行くところは行かなければならないが。やはり結果から見てこのような社会的能力の発揮は「可愛いおじさん化」を妨げる要因となるのだと思った。


 その結論がより確信となったのは、質問をして来たのが、最悪なことに吉沢さんだったからだ。


「やっぱり今日なんか変ですよ~」


 茶化して来る吉沢さんの大きな眼の中でヘラヘラと黄色い熊の赤ちゃんに隠れて追及を誤魔化した。


「何のお願いだったんですか?」


意外なことに、助け舟を出してくれたのは薄井さんだった。薄井さんはいつの間にか背後から近付いて来ていた。


「実はね、最近流行りのスイーツ店に行こうと約束していたんですよ」

「そうなんですか?」

「はい、一人で行くのが恥ずかしいって。ねぇ」


同意を求める薄井さんの目は見たことがない程鋭かった。


「そうなんです」と言うと、吉沢さんは目を輝かせた。

「なにそれ、可愛いー!」


 それでその日は事なきを得た。

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