第五講習

 日曜日、俺は前回より少し遅い時間に施設に到着した。廊下では各部屋の前にその部屋の講習を受ける参加者たちがおり、そこに薄井さんの姿もあった。


「連日すいません」 


 俺は薄井さんに挨拶がてらに謝った。頼み込んで、俺と足並みを揃える為に土曜日を使って俺が前回受けた講習を全てこなしてもらったのである。 


「いえいえ、楽しい講習でしたので」


 強引が過ぎたかも知れないと顔色を窺っていたが、薄井さんは講習に前のめりだった。寧ろ早く講習が始まらないかとワクワクとしているようだった。その顔の血色は普段と比べてずっと良かった。


 心配はなさそうだと安心していると、担当の職員がやって来て、講習が始まった。

部屋は、普通の作りになっていた。俺は薄井さんと横並びに座った。職員は教壇に立つと、参加者たちを見渡した。


「あ、いいですね皆さん、ちゃんと以前の講習で学んだ服装をして来ていますね」   


 当然だ、と思った。俺も薄井さんも、ほとんどの参加者が支給されたくたびれたスーツと各々に似合うメイクをして来ている。これはこの講習の学生服のようなものだ。もしこの格好で臨まなければ全体の規律を乱す上に、今回の講習の効果が半減しないとも限らない。


「別に必ず用意しろというわけではありません。皆さんそれぞれに事情がおありでしょうから、用意ができない方はそのままで大丈夫です」


 職員は、配慮からか、その「誰か」を見ながら今の台詞を言わなかった。しかし参加者たちは周囲を見渡し、お互いの服装をチェックした。すると瞬時に参加者の目線が教室の一カ所に集まった。ジャージ姿の参加者がいる。こちらからは背中しか見えなかったが、その額に汗が滲んでいることはありありと分かった。そしてその切迫した気持に同情することはなかった。


「ヒガムカセ」と職員が黒板に書く。

「ヒ、」

「人当たりが良い!」

「ガ、」

「ガツガツしない!」

「ム、」

「無邪気!」

「カ、」

「可愛らしい見た目!」

「セ、」

「清潔感!」


 参加者たちは声を発している間、例のジャージ姿の参加者に視線を向けていた。


 一番声を出さなければならない立場の彼が、もし小さい声しか出さないのなら、ましてや「ヒガムカセ」を覚えていないというようなことがあろうものなら、糾弾されてしかるべきだという雰囲気が参加者たちの間にあった。「糾弾してやろう」ではなく、「糾弾されてしかるべき」というのは、そうする権利は序列がつけられていない俺たち参加者たちにはないからだった。


 そのジャージ姿の参加者が、「ヒガムカセ」をふわふわとした口調で発していることが分かった時、俺たちは糾弾ムード一色に染まった。しかし自ら手を下すことができないので、視線は職員に向かった。職員はチラリと、そのジャージ姿の参加者を見た。


 しかし確かに見たにも関わらず、職員がその参加者を注意することはしなかった。歯痒い気持ちがしてならなかった。職員は俺たち参加者を見くびっているのだろうか。あのような低い意識でもおかしくないだろうと思っているのだろうか。それは困る。


 その不満が解消されることなく講習は進んだが、ジャージ姿の参加者を参加者たちの意識の平均値を大幅に下げ得る危険因子だという認識がなくなることはなかった。寧ろ煮えたぎるマグマとして俺たちの中で高まっていた。


「今回は、ヒ、人当たりの良さ、ム、無邪気について掘り下げてゆきたいと思います。これらを一挙両得する方法があるので、皆さんに伝授いたします。また皆さんには本日、その演習もやっていただきたいと考えています。それでは、秘策はこちらです」


 職員は、「おじさん同士の子供のようなやり取り」と黒板に書いた。


「皆さん、想像してください。子供同士が遊んでいる様、動物同士が戯れている様、微笑ましいですよね。依然申し上げた、『母性本能をくすぐる可愛げ』を感じさせる光景です。これを皆さんにやっていただきます。直接ターゲットの女性にアピールせずに間接的に見せる効果は二つ。一つ目、ガ、ガツガツしないでアピールをすることができるということです。第三者的な視点にターゲットを置くことで、自分に向かってのアピールだと思わせず、構えさせないという効果があります。二つ目はアピールのパターンを増やしやすいということです。一人でやれるアピールには限界があります。二人以上であれば会話でいくらでも手段はあります。これが二つ目の効果です。以上のように、『おじさん同士の子供のようなやり取り』は、メリットだらけの方法なのです。それでは実践的にやっていただきたいと思います。皆さんお立ちください」


 俺たちは起立した。その時、職員の目が一瞬俺に向いたのが分かった。


「これから近くの方とペアを作ってください。そしてペアができた方はお座りください。確か奇数ですのでお一人余る筈です。では、どうぞ」


 俺と薄井さんはアイコンタクトをすると直ぐに座った。薄井さんが耳打ちして来る。


「職員さんから教えられた秘訣ってこうゆうことなんですね」

「職場の人を連れて行けばそのまま日常生活に生かせるってことです」

「なるほど」


 少しするとほとんどの参加者は座った。しかし案の定、ジャージ姿の参加者は余っており、立ちっぱなしだった。


「まあ仕方ないですよね」


 薄井さんの言葉に俺は頷いた。裁かれているジャージ姿の参加者は、職員からの提案で近くのペアに加わった。


「それでは、皆さんまず例のイメージとレーニンをしていただき、後程、各々の組で微笑ましい光景を作ってください。タイミングは皆さんにお任せします。始まったら私が各組を回って見させていただきます。ではお願いします」


 職員からの合図があると、参加者たちはほとんど競うようにイメージトレーニングを素早く終え、各々のアピールに入った。


「薄井さん、ここからはお互いにタメ口でいきましょう」

「分かりました。いや、分かった」

「なあ薄井」

「なんだよ」

「あっち向いてホイしようか」

「しよう」

「じゃんけんぽい!あっち向いてホイ!」


 俺の提案で俺たちはあっち向いてホイをし始めた。自分から言い出したのは、ここでイニシアチブを取っておけば日常でも自分の思うように吉沢さんにアピールできると考えた為だ。あっち向いてホイには俺が負けたが、それは問題ではなかった。


「負けたー!強いなお前」

「よっしゃー」

「もう一回やろうよ!」

「ええー」

「お願いお願い」

「じゃあジュース奢って」


 俺たちはニヤリと笑い合った。ジュースとは、薄井さんも中々の策士だ。


「いや~小遣い勿体ないもんな」

「そちらもやりますねぇ」と薄井さんがほくそ笑んだ。そこで職員が俺たちの前にやって来た。職員の方に目をやることはなかったが、薄井さんは職員に分かるように若干説明口調になりながら続けた。

「小遣い少ないとか知らないよ。お前がジュース奢ってくれないなら、あっち向いてホイやってやんない」

「え~」

「エロ本とか見せてくれるなら良いけど?」


 急に薄井さんが強烈な言葉選びをしたため俺は面食らったが、不自然な間が出来てはいけないと乗った。


「エロ本?マジで?」

「マジマジ」

「じゃあやる」

「よっしゃー」


 そこで職員に止められた。


「ちょっとあざと過ぎるかも知れませんね。お二人ともマスコットの意識を忘れていませんか?今のお二人は男子中学生のようでした。ジュースと小遣いはまだ許せる範囲かも知れませんがエロ本はいただけません。それとお二人はどこにいるという設定でしょうか?」


 薄井さんは赤面したまま黙っている。仕方なく、「職場ですかね」と俺が言った。


「まず職場だとしたら声が大き過ぎます。休憩時間だとしても、そこに女子社員がいるとは限りません。あくまでも仕事の延長線上の無理のないやり取りを心掛けてください」


 俺たちは黙って頷いた。


 職員が去った後、薄井さんが何も切り出さないので、「まあやり過ぎましたよね」と笑うと、


「ちょっとね」とようやく薄井さんも声を出した。少し俺はイラついた。確かに二人の責任かも知れないが、エロ本を言い出したのは薄井さんの方だ。一言謝ってくれても良いのではないかと思いながらも、俺は改善策を考え出した。


 周囲の職員が回り終わった組が各々で積極的に話し合う中、俺たちはお互いに案を出せなかった。何故なら職員が言った、「仕事の延長線上」というのは窓際族の薄井さんの立場上、難しいと思ったからだ。それを薄井さんも分かっているようだった。  

 

 俺は今度ばかりは薄井さんからの言葉を待たなくてはならなくなった。まさか俺から、「難しいですよね、薄井さんとはあんまり仕事のやり取りもしませんからね」とは言えない。薄井さんの自虐を待つ以外に手はなかった。


 長々とした間を置いて、ようやく薄井さんは意見を言った。しかしそれは思いがけない台詞だった。


「誘っていただいて嬉しかったのですが、どうやら一緒に講習を受けるのは自分じゃない方が良かったですよね」


 途端に心音が大きく鳴り始めた。「いやいや、そんなことは・・・」と何とか絞り出したものの、他にフォローの言葉は見つからず、俺は言葉に詰まった切り沈黙を迎えてしまった。確かに相方が「薄井さん」である以上、打開策はないような気がしていた。その忙しない思索と同時に、俺は薄井さんを恨めしく思った。薄井さんは自分で言わず、最後の言葉を俺に言わせようとしている。


「ではこれからは別々ということで」


 という戦力外通告を俺にさせようとしているのである。自ら腹を裂かずに介錯人が刀を振り下ろすのを待っているのである。上手くいかなかった腹いせの為に俺に罪悪感を与えようとしているのかは分からないが、何にせよ、まともな魂胆ではないことは確かだと思った。


 俺の怒りはふつふつと煮えていた。その時、「ちょっとすいません」という一際大きな声が聞こえたのでそちらを向くと、ジャージ姿の参加者の組が揉めている様子で、その中のちゃんとした格好の2人の内の1人が、職員に何か話している。


 参加者たちの意識がそちらに向いた為、その声が聞こえて来る程部屋は静かになった。


「この人とはちょっとやれないので、別の組に行ってもらってもいいですか?」


 成程、服装の乱れは心の乱れというが、やはりジャージ姿の彼はまともな参加者ではなかったようだ。クレームを受けて、流石の職員も少し困っている様子だった。それを見かねて、ジャージ姿の参加者は「失礼します」と荷物をまとめて部屋を出て行った。


 それを見て薄井さんが言った。


「あんな風に私をクビにしてもいいんですよ?」


 薄井さんは卑屈な笑いを浮かべていた。すっかり血色は普段と元通りになり、諦念が漂っていた。俺の、少しばかり収まりかけていた怒りは瞬く間に沸騰した。なんでそんなことを言われなくはいけないのだ。そんな捻くれた性格だから窓際族になるのだ。俺はそう言われた途端、思うようにはさせまいと、


「何をおっしゃいます。詰まらない御冗談は止めてくださいよ。クビだなんて滅相もない。薄井さんが良いんですよ。薄井さんだから誘ったんですよ。きっと方法がありますから頑張りましょう」


 と満面の笑みで言ってやった。案の定鳩が豆鉄砲を食ったようなリアクションが返って来た。


「これからもよろしくお願いします」

「お願いします・・・」


 追撃してやると、俺の行動に流されるまま薄井さんは了承した。こうなったら意地でも薄井さんとやって行こうと俺は心に決めた。


 その後、薄井さんとの話し合いは大きく進展した。それは薄井さんへの遠慮がなくなり、忌憚なく意見を言えるようになったからに他ならなかった。


「薄井さんが俺と職場で話すことと言ったら、この前吉沢さんに言ったスイーツ好きってことくらいですよね、だからそれを元に仲良くなったということにして、後は私から薄井さんに仕事が振れるように、薄井さんも頑張ってください。私も薄井さんが参加し易い職場にするように努力しますから。お願いしますね」

「分かりました」


 話し合いといっても、俺からの一方的な意見で終わった。イニシアチブを獲得したことに満足した俺は、その講習が終わるまで一人でマスコットのイメージトレーニングをすることで過ごした。


 職員の合図で参加者たちは話し合いを止めた。職員は「既に話した方には繰り返しになるかも知れませんが、」と断ってから俺たちに話した通り、現実的な方法を考えるようにと促し、また、


「次の講義も皆さんには準備をしていただきます。また次の、さらに次の講義では、練習の成果を一組ずつ前に出て発表していただきますので、よろしくお願いいたします」


 ざわつく参加者たちを尻目に職員は部屋を去った。ざわめきは10分休憩の間も続いた。参加者たちは「発表」という明確な締め切りを提示された為、焦った様子で完成を急ぎ始め、それと同時に各組内での方向性についての議論が行われた。恐らくどの組も「発表」があるだろうとは大いに予想していたものの、職員の口から直接言われたことにより、否応なく緊張感を与える現実として眼前に提示された為、先程までの講義内で互いに妥協で済ませ合った議論を再開せざるを得なかったのだ。周囲の組からは、ほとんど喧嘩とも言えるようなやり取りが聞こえていた。


 対照的に、俺と薄井さんは揉めるようなことはしなかった。舵は俺が握っており、そこに薄井さんが黙って従う。俺は薄井さんに、「俺が台本考えておくので、薄井さんは後で覚えてください」とだけ伝え、一人でノートとペンを広げ黙々と考え始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る